第2話 雪音

 静まり返った山に、犬の遠吠えだけが虚しく響きわたる。彼女はそれに一瞬耳を傾け、それから思い出したように足を早めた。もう、どれくらい歩いたろうか。雪がまた降り始めてきた。寒さもいっそう厳しさを増してくる。雪に埋まった足は冷え切って感覚がない。それでも、彼女は歩き続けた。一歩一歩踏みしめるように。

 時はもう、あと数分で十五日・・・になろうとしている。急がねば間に合わないかもしれない。明日になってからでは、遅いのだ。

(明日になったら、私は人ではなくなってしまう)

 奇妙な強迫観念が彼女を苛んだ。不思議と恐怖は感じない。心を締め付けるのは、焦りだった。意味のない焦り。人でなくなってしまうという焦り。それに突き動かされるように、彼女は上った。ひたすら上り続けた。一週間前、杉戸美和子が上っていった、神社に続く石段を。


 石段の先には、真火まおの奥宮がある。



 芳彦が部屋に戻ると、既に夕食の用意が整っていた。

「寛いで戴けましたか」

 長火鉢の炭を火箸でつついていった女性が、こちらを振りあおぐ。長い髪がさらりと揺れ、室内に甘い香りが漂った。目元の涼しい、幸信によく似た娘である。彼の妹だろうか。それとも、従姉妹か。

「もしかして、幸信さんの妹さんですか?」

 問いに女性は頷く。

「はい。雪音ゆきねと申します」

 雪音はやわらかな笑みを浮かべる。

「兄に、似ていますか?」

 問われるまでもない。顔立ちも雰囲気も、二人はよく似ている。ただ、少し違うのは、雪音には幸信の持つあの暗い翳りが見えないことだった。兄妹とは、必ずしも外見も内面も似ているとは限らないと言うことであろう。

 彼が膳の前に座ると、雪音は茶を入れ、温めた汁物を椀に盛った。

「物忌み中なので、肉が禁じられているのです」

 すまなそうに言いながら、雪音は甲斐甲斐しく給仕をしてくれた。細い腕がてきぱきと動き、魔法のように料理を揃えてくれる。

「ものいみ? 祭りのですか?」

 ええ、と雪音はこともなげに頷いた。先程、幸信は祭りは中止されるかもしれないと言った。あれはどういうことなのだろう。芳彦が聞き返すと、雪音は訝しげに眉をひそめた。

「中止が検討されている、ですか。私は全然聞いていませんが」

「でも」

「兄が、そんなことを申し上げたのですか」

 雪音の目が険しくなる。こういうときは、とても幸信に似ていた。

 彼女は茶をつぎ足しながら、一言一言区切るようにいう。

 祭りが中止になるわけがない、と。

 では、幸信は一体どういうつもりであんなことを言ったのだろう。嘘をついたというのか。祭りを見学させたくないから? しかし、だとしたら、なぜ。

「もしかして、幸信さんて、結構意地悪だったりする?」

 冗談混じりに呟くと、雪音は真顔で答える。

「兄は少しお茶目なところがありますから」

 あれのどこがお茶目なんだ、と思いながらも、芳彦はただ頷くしかなかった。

 そこに、折悪しく幸信が現れた。先程の喪服を脱ぎ、和服に着替えている。日本的な顔立ちだけに、その姿は彼にひどく似合っていた。

「兄さん。武田さんに嘘を教えたでしょ」

 芳彦が何か言おうとする前に、雪音が兄にかみついた。幸信は涼しい顔で二人を見下ろしている。彼は左手に携えた細い包みを強く握りしめると、息をついた。妹の剣幕などどこ吹く風といった風情である。それが雪音の勘に障ったらしい。彼女は兄を正面から見据え、言葉を継いだ。

「せっかく遠くからいらした武田さんに、嘘ついたでしょ。祭が中止だなんて」

「中止? 俺はそんなことは言っていない」

「でも、さっき車で」

 芳彦の台詞を、幸信は冷笑で遮る。

「中止になるかもしれない、と言っただけです。断言はしていません。あなたが勝手にそう思いこんだだけでしょう。武田さん」

 一理あるだけに言い返せない。芳彦はムッとして彼を睨んだ。幸信は冷ややかな眼差しでこちらを見つめる。だが、すぐに目を伏せた。そのままくるりときびすを返す。

「兄さん」

 妹の声に足を止める。幸信は肩越しに芳彦を見た。

「武田さん。明日の晩、奥宮に入るか入らないかは、あなたの判断にお任せします」

 そのかわり、と低く付け加えて、

「何が起きても、こちらでは責任を負いかねますので」

 それだけ告げると、足早に去っていった。残された二人は、呆然と後ろ姿を見やる。やがて我に返った雪音が、慌てて芳彦に頭を下げた。

「すみません。お客様に失礼なことばかり申し上げまして」

「いいですよ。なんか、お兄さん、気が立っているみたいだし。おれが無理なこと頼んだから、怒っているのかも」

 無理なこと――実際、無理なことなのかもしれない。土地のものでもないものを、祭りに参加させるなど。”隠し講”、地元では”闇会合やみえごう”と呼ばれるその祭りは、文字通り闇の中で行われる。全国に多数ある、暗闇祭りの一つである。旧暦一月十五日の晩に、街の全ての明かりを消して、その年成人を迎えたものたちを祝うのだ。闇、つまり死とそこからの再生。このときに土地の若者たちは闇の中で交わる。若者だけではない。狩谷本郷の住民全てが、闇の中で相手を知らずに交わるのだ。だが、最近ではこれを風紀の乱れを助長すると言って、交わりは禁止され、成人の儀のみが執り行われることになっていた。

 何を期待しているのか、この風習が今でも続くと勘違いしているものが、時折訪ねてくると言う。幸信には、芳彦もそんな乱れた若者の一人に映ったのかもしれない。

「伝承の里の奇祭、っていい卒論材料だと思ったんだけどな」

 それを変な目で見られては、いい気分がするはずない。肩を落とす芳彦に、雪音は気の毒そうな眼差しを向けた。

「卒論、て。武田さん、四年生なんですか?」

 私と同い年くらいですね、と雪音は笑った。彼女は今年二十歳だという。今回の祭りの主役の一人なのだ。

「僕も二十歳だけど」

 三年生が卒論をやったら悪いか、と彼はおどけた。別にまじめなわけではない。ただ、来年のこの時期に祭りを見に来たのでは、論文の提出に間に合わなくなってしまう。そんなつまらない理由からだった。

「でも、雪音さんが当事者なんて。奇遇ですね。密着取材、しちゃおうかな、なんて」

「やめてください」

 突然、彼女は声をあらげた。芳彦は意外な反応にぎょっとした。雪音はハッとしたように目を見開き、手で口元を押さえる。ごめんなさい、と囁くような謝罪の言葉が聞こえた。

「ごめんなさい。お役には、たてません」

 うなだれる雪音の面影に、幸信のそれが重なる。芳彦は小さくかぶりを振った。

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