第1話 狩谷

 その駅舎は、田園に囲まれるようにして、ひっそりと佇んでいた。


 とはいえ、辺りは一面雪に覆われているので、どこまでが田でどこまでが道なのか説明されねばわかるまい。駅からだいぶ離れた場所に、ぽつぽつと民家の明かりが見える。その向こうに峻険な山並みが、黒い姿を不気味に聳えさせていた。そこから吹き下ろす風が、乱暴に窓硝子を叩いていく。

 木造の古い駅舎の中でだるまストーブに手をかざしていた初老の駅員は、列車が着くと同時に改札口に顔を出した。雪まみれのホームを歩く影が一つ、よろめきながらこちらに向かってくる。駅員は、一目で彼が土地の者でないことを看破した。

「どこ行くんだね」

 人なつこい顔で駅員が尋ねると、切符を差し出してきたその人物は、少し困ったように眉を寄せた。

 年の頃は、二十歳くらい。容姿のそこかしこに幼さを残している青年である。少年、といっても差し支えはない。彼はつり上がり気味の目を細め、チラリと背後に視線を投げてから、

「狩谷本郷に行きたいんですけど。もう、最終バス出ちゃいましたよね」

 半ば諦めたように問うた。駅員は壁に貼り付けたバス運行表を見やり、

「わるいやね。最終は、さっき出たばかりだわ」

 すまなそうに告げる。

「そうですか」

 青年はがっくりと肩を落とす。この大雪で、列車が平常よりも五時間以上遅れたのだ。バス会社の方も連絡は受けていたので多少の調整はしたものの、さすがにこの時刻に着く列車の面倒までは見られなかったらしい。時計は既に十時を少しまわっている。この土地で言えば、もう、夜中である。

「歩いてなんて、行けないですよね、やっぱり」

「そりゃそうだ」

 青年の言葉に、駅員は眉をひそめた。これだから余所者は、と言いたくなる。

 狩谷本郷は、この狩谷駅からバスで一時間ほど山に入ったところにある。そこに徒歩で行くとしたら、何時間かかるだろうか。まして、この雪である。明かりもろくにない山道を歩こうなど、自殺行為もいいところだ。夜の山は、都会人が考えている以上に危険な場所なのだ。

「歩きなんて、絶対無理さね。タクシー呼んでやりたいが、あいにく今日はみんな出払っちまって。悪りこといわねえから、今日はここにいな。狭いところだけど、ちゃんと布団もあるしよ」

 駅員はそう言って、自分の宿舎の方を顎で指した。青年はどうしたものかと考えを巡らせる。そのときだった。

 カラリと駅舎の扉が開き、一人の男が中に入ってきた。夜の香りに混じって、ほのかに線香の匂いが漂う。黒衣を纏ったその男は、迷わず青年に近づいた。


 喪服?


 青年がぎょっとする。闇が産み落としたようなその男の姿に、不吉なものを感じたのだ。だが、男はそんなことに頓着せず、静かな笑みを浮かべると青年の名を呼んだ。

武田芳彦たけだよしひこさんですね」

「え? あ、はい」

 咄嗟になんと答えて良いのかわからなかっただろう、ただ頷いただけの彼に、男は微笑を浮かべたまま用件だけを告げる。

「お迎えにあがりました。車へどうぞ」

 スッと視線を後方に流す。そこには黒塗りの車が一台。闇に溶け込むように停車していた。


● 


 二人を乗せた車は、雪の中をひたすら走っていく。いや、それは芳彦の錯覚だった。雪はとうにやんでいる。まだ降り続いているような気がするのは、道の両脇から伸びた枝から、時折重みに耐えきれなくなったそれが音をたてて落ちてくるからだった。そのほかに、音はない。吐息さえも吸い込んでしまうような、薄ぼんやりとした闇が山全体を覆っている。

 芳彦を迎えに来た男は、榊井幸信さかいゆきのぶと名乗った。彼が今晩泊まる予定の旅館の一人息子だという。列車の到着時刻を見計らって、迎えに来たそうだ。単純に感謝する芳彦に、幸信は苦笑混じりの答えを返す。

「旅館というのも、一応サービス業ですから」

「まあ、そうですね」

 頷いてから、芳彦は疑問を口にした。

「すみません、あの、いま着ているの、ひょっとして喪服ですか?」

 幸信はミラー越しに彼を見る。

「気になりますか?」

「ええ、まあ、ちょっと」

「すみません。今日は法事がありましてね。本当は着替えてから、と思ったのですが、時間が無くて。不愉快な思いをさせてしまいましたね」

「いいえ。別に。でも、大変でしたね、この雪のなか」

 芳彦は外に目をやった。不意に現れた水銀灯の鈍い光が、視界の端を軽く滑っていった。彼は前髪を掻き上げると、深くシートに体を埋める。それから無造作に足を組んだ。

「そういえば、ここらへんで殺人事件があったでしょう。若いカップルの。犯人、もう見つかったんですか?」

 その問いに、幸信の肩がピクリと揺れた。芳彦は目を細める。バックミラーの中、幸信の瞳を濃い影がよぎったのは、決して気のせいではなかった。

「もしかして。今日の法事って」

 言いかけた言葉を幸信が継いだ。

「はい。彼らの初七日です。特に、女性のほう、杉戸美和子といいますが、彼女とは浅からぬ縁がありまして」

「え?」

「妹のようなものでした。気だてのいい、優しい子だったのに」

 芳彦は何もいえなかった。まずいことをしたと、内心舌を打つ。幸信はそれ以上何も言わない。気まずい沈黙が漂うなか、芳彦は慌てて話題を変えた。

「そういえば、明日が例の祭りでしたよね。あの、あの話は承知して頂けたのでしょうか。迎えに来て戴いたってコトは、そう思って」

 いいんですよね、と彼が言う前に幸信が口を開いた。

「そのことなんですが」

 嫌な雲行きになってきた。芳彦は、ミラーに映る幸信の切れ長の目を見つめる。鏡越しにすら彼と視線を交わそうとしない幸信のそれは、無感情のまま前方に向けられていた。黒い硝子玉。芳彦はそんな印象を持った。動物の剥製に埋められた、硝子の目玉。それによく似ている。

 不意に寒気を覚え、芳彦は身を震わせた。

「いま、宮司が中止を検討しているところなんですよ。先程仰っていた殺人事件。あれは、神社が現場なのです。神社が血で汚れてしまっては、祭りはできません。ケガレが消えるまでは祭りを控えた方がよいのではないかと、土地の長老たちも申しておりまして」

 幸信は静かに語る。

「態々いらしてくださったのに、申し訳ありません」

「いいえ。そんな」

「先にご連絡ができれば良かったのですが、こちらもばたばたしていたもので」

 幸信は穏やかに詫びた。芳彦はかぶりを振る。

「こちらこそ、無理なお願いをしてしまったんですから。でも、狩谷は以前から来てみたかった街ですから。伝承庵とか、龍の淵とか。見てみたいものもたくさんあるんですよ」

「そうですか」

 抑揚のない声が聞こえた。

 車内に再び沈黙が訪れる。芳彦も幸信も、前方を見つめたまま一言も漏らさない。暫く二人はそれぞれの思いに入っていた。芳彦は体をずらし、ぼんやりと外に視線を投げる。


 雪明かりに眠る街、狩谷。


 長いこと憧れていた。ここを、今夜・・訪れることに。

 明日でなければならない。明日でなければ見られない。旧暦一月十五日に行われる、狩谷の奇祭。それを見るために、芳彦はここに来た。観光ならばいつでもできる。こんな雪深い季節ではなく、もっと気候のいいときに。しかし。

 祭りが中止になるかも知れない。軽い失望感が胸をよぎる。芳彦は唇を噛んだ。

 その気配を幸信は背中で感じ取っているようだった。



 N県狩谷市。ここは古来より民族儀礼を今に伝える街として有名である。人口は二万人強。四方を山に囲まれた、余所とは殆ど折衝のない街だった。誰が名付けたのか、”現代の隠れ里”の異名まで持っている。これは多少大げさすぎるきらいもあるが、ここを訪れるものが登山家や民俗学者、世をすねた物好きな観光客以外にないことを思えば、それはあながち嘘でもなかった。

「もっとも、最近は温泉ブームで、若い女性やカップルもたまにみえますけどね」

 幸信は皮肉めいた口調で言っていた。

 榊井家はもともとは旅館ではない。厚意で客を泊めていたところ、なし崩しにこの商売に引き込まれてしまった。今では狩谷本郷にただ一軒の宿、としてかなり利用されている。幸信は更にそう付け加えた。

 そんなことを思い出しながら、芳彦は湯船の中で思い切り四肢を伸ばした。

 屋内の岩風呂である。温度差のために、硝子戸は真っ白に曇っている。その向こうでは、また雪が降り出していた。気温もおそらく氷点下であろう。そう考えると不思議な気がした。戸一枚隔てただけで、この変わり様はどうだろう。芳彦はつと手を伸ばし、硝子戸についた蒸気を拭った。と、そこだけぽっかりと夜が浮かぶ。光に慣れた目では、外は見えない。彼は諦めてまた浴槽に浸かった。

 綾織堂、という名のこの旅館は山の中腹にあった。あたりの景色にしっくりとなじむ、純和風の造りである。もとは普通の民家であったものを、情緒を壊さぬようにして改築したのだろう。

 他の泊まり客はもう寝てしまったのか、屋内に気配はなかった。幸信の話では、熟年カップルが一組と、カメラマン風の青年が一人滞在しているということだった。彼らも芳彦と同じく、明日の祭りが目当ての客らしい。

「寒かったでしょう。先にお風呂に入られたらいかがですか。その間に、お食事を温めておきますから」

 そうやって幸信に勧められるままに入浴して、はや三十分。そろそろ出ないとふやけてしまう。それに、時刻もとうに十二時をまわっているに違いない。これではさすがのサービス業でも文句の一つも言いたくなるだろう。ホテルでは、二十四時間ルームサービスを受け付けているところもあるようだが、ここでそれを引き合いに出すのは酷というものである。

 芳彦が上がり湯に手を伸ばしたとき、脱衣場との仕切り戸に人影が映った。幸信だろうか。長湯を心配して見に来てくれたのかも知れない。しかし、その思いは外れた。

「冷えものでござんす」

 陽気な声とともに入ってきたのは、長身の青年だった。湯気で顔ははっきりとはわからない。だが、幸信でないことは、その声でわかった。泊まり客の一人、”カメラマン風の青年”だろう。彼は芳彦の脇をすり抜け、ざんぶと湯船に飛び込んだ。「あー」とオヤジ臭い声を上げて、縁に背を預ける。

 お先に失礼します、と上がり湯をかぶる芳彦に、青年は間の抜けた声で問うた。

「あんた、遅れてくるっていってた学生さん?」

「え? ああ、そうです」

「無事に着いたんだねえ、よかったよかった。なんか、民俗やってるんだって?」

 芳彦は返答に窮した。答えたくないわけではない。なぜこの青年がそんなことを知っているのか。疑問が胸にわき上がる。芳彦は訝しげに青年を見下ろした。青年もその視線に気づいたのだろう。からからと豪快に笑った。

「学生でこんなとこに一人旅するなんて、民俗学専攻のヤツくらいしかいないだろう? そう思うよな、普通」

 もっともな話である。

「で、あんたも見に来た訳か。”隠し講”ってヤツを」

「あんたも、って?」

 ということは、この青年もそうなのか。旧暦一月十五日の祭り。闇の中で行われる成人の祭り。

 確かに興味深いネタだろう。秘境の奇祭、と題した記事でも書けば、際物好きは欣喜雀躍するに違いない。

「ま、そーゆーこと。宜しく頼むわ」

 なにがそういうことで、何がよろしくなのかさっぱりわからなかったが。

 ともかくこれが、芳彦ととの出会いであった。

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