幸せな午後

 生物の時間は遺伝について、表にメンデルの法則をまとめましたが、「これって、白いパンダと黒いパンダでパターンを作ったら楽しそうです」と顕性パンダ遺伝子と陰性パンダ遺伝子について考えているうちに終わってしまいました。

 カエデの午後は、授業終わりのチャイムから始まります。あっという間にカエデは教室においてきぼりになりました。マイペースに一歩ずつ、峰ヶ原高校に進学するときに、カエデと決めた約束です。お兄ちゃんに似ているねって言われます。

 廊下に出ると、穏やかな波の海がきらきらと光をうつしています。思わず見とれてしまいます。でも、いつまでものんびりもできません。今日は、はじめてのホールデビューなのですから。


七里ヶ浜の駅で、見覚えのある後ろ姿を見つけます。

「翔子ちゃん!」

「カエデさん、うわあ、髪の毛ぐしゃってするのやめてくださいい!」

とっても小さな女の子はそれでも中学生です。牧之原翔子、カエデに学校に行きたいと願わせ、カエデが学校に行けたらいいと願った少女です。お兄ちゃんのお友だちで、カエデとも学校行かなかった友達です。

「さっきまで七里ヶ浜にいたんですよ?」

「そっかあ。翔子ちゃんはお家に帰るの?」

「はい。カエデさんも?」

「カエデはアルバイトですっ!」


 翔子ちゃんは鎌倉行きの電車に乗っていきました。カエデはそのあとの電車で藤沢駅に向かいます。やってきたのは300形という電車で、なんと床が板張りなんです。カエデのお気に入りで、午後の日差しに暖められた車内は縁側のよう。うとうととしているうちに、終点に到着してしまいました。ホームのはじっこに鏡を見つけ、「がんばります!」とひとりごと。鏡の中のカエデも、カエデを応援してくれているみたいです。

 家に向かう途中に、小さなファミレスがあります。お兄ちゃんがずっとアルバイトしていましたが、いよいよ受験生なお兄ちゃんにかわって、カエデが引き継ぐことになったのです。二ヶ月間の試用期間が過ぎ、ついに今日からホール担当。朋絵さんとおそろいのウェイトレス姿を、カエデは楽しみにしていました。

「お客さんの注文は、きちんと口に出して繰り返すと間違えにくいよ」

「はいっ!」

朋絵さんは接客の達人です。スマートホンみたいな速度で注文パネルを操作して、にこっ、と笑って次の席に行きます。カエデは、最初のお客さん相手に、注文を噛んじゃいました……。

「大丈夫だよ! 私も最初はミスばかりだったからさ!」

「だな」

「先輩ぃ?」

お兄ちゃんと、双葉理央さん、それとお兄ちゃんのお友達の国見佑真さんが揃ってやって来ました。

「いらっしゃいませ!」

「うん、かわいいな」

「かわいい」

「梓川に似なくてよかった」

カエデがにっこり挨拶すると、双葉さんと国見さんもよろこんでくれます。三人は絶賛開催中の秋の味覚フェアでいっぱい注文をしてくれました。

「あまり遅くならないようにな。それと、きちんと店長には挨拶して帰るんだぞ」

お会計をしているときにカエデだけに聞こえるようにアドバイスをくれるお兄ちゃん。ですが、双葉さんにはばっちりと聞こえていました。

「シスコンブタ野郎、ここにありだな。じゃあね、カエデちゃん、また来るよ」

夕ご飯の時間がすぎると、お客さんは一気に減ります。カエデはバックヤードに戻ると、ふうう、と大きく息を吐き出しました。ちょっと、頭が暖かくなった気がしました。藤沢のマンションから一歩外に踏み出した日のような、たくさんのことが一度に起こる日だったからです。でも、今日は最後までがんばれました。アルバイト終了の8時半になったのです。

「おつかれさま、カエデちゃん」

「おつかれさまでした、先輩」

 店を出ると、もう真っ暗です。人通りもまだまだある時間帯。ですが何度も歩いているので、恐くはありません。今日は、はじめてのホールでしたが、まだまだ下手っぴなカエデでも注文を取って料理を運ぶことができました。お兄ちゃんたちも遊びにきてくれて、とっても楽しかったです。それに学校でも、由比ヶ浜かんな一番のおすすめ本を貸すことができました。そうやって、信号待ちをしながら明日も学校が楽しみだなあ、と考えていると「カエデちゃんじゃない。こんばんは」、と声をかけられました。

「麻衣さん! こんばんは!」

「アルバイト帰りね。おつかれさま」

大学生になった麻衣さんは、藤沢のマンションから通学しています。女優としてドラマや映画に出ながらなのに、成績はとっても優秀だそうです。

「今日からホールに出たんです」

「ええっ。行きたかったなあ。咲太ったら、教えてくれなかったわ」

麻衣さんとおしゃべりする時間は、今年は減ってしまいましたが、それでもカエデに色々なことを教えてくれます。かっこいい、自立した女の人なので、こっそり麻衣さんを目指していたりします。そうすれば、カエデがお兄ちゃんのハートもゲットできるかもしれません。

「ねえ、カエデちゃん」

自宅のマンションに入ろうとした別れ際、麻衣さんが呼び止めてきました。

「学校、楽しい?」

「はい! カエデは青春真っ最中です!」

「よかった。楽しそうなカエデちゃん見てたら、私も高校に戻りたくなってきたなぁ」

おやすみなさい、と言うと、自宅に戻ります。リビングではお兄ちゃんがなすのを抱きながら、赤くて分厚い参考書を開き、英語の問題を解いていました。

「ただいまお兄ちゃん」

「おかえり、カエデ」


 毎日があっというまに過ぎていきます。一生懸命、カエデは一日を過ごしました。宿題を解いて、お兄ちゃんと一緒に麻衣さんの出ているドラマを見て、お風呂に入って。日付が代わる前に部屋に入ります。あとは、ぐっすり眠るだけです。

ドアを開けると、ベッドに一人の女の子が座っていました。

「楽しかった? かえで」

「はい。とても楽しい日でした。花楓」

かえでは、花楓の隣に座りました。

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