梓川カエデの幸せな一日。
井守千尋
幸せな午前中
目覚まし時計の音が聞こえます。亀の甲羅のようにふっくらと丸くなった布団から、一本の腕が生えてきて、時計をぎゅっ、と押し付けました。
「ふわ~ぁ」
梓川カエデは、寝起きのいい子です。お兄ちゃんが大好きなので、毎朝ちょっとだけ早く起きて、目覚まし妹をします。目覚まし時計よりも確実です。
「お兄ちゃん、朝ですよ~」
ヒソヒソ声で、お兄ちゃんの部屋に忍び込みます。カエデ同様に布団に丸まっていると思いきや、もぬけの空。あれっ?
「おはよう、カエデ」
「うわぁぁっ? ってお兄ちゃん? おはよう。どうしたんですか? 早いです」
「今日は、校外学習があるんだ。だから、いつもより早くなくっちゃいけない」
それなら、カエデにもそう教えてくれればよかったのに、とカエデは思いましたが、もしかすると、もう聞いていたかもしれないので、黙ります。ちんっ、とトースターの音がしたので、朝食です。
「一緒に食べるか? 食べたら僕は出かけるよ」
「はい!」
最近、お兄ちゃんはスクランブルエッグ作りがブームだそうです。お兄ちゃんのガールフレンドの麻衣さんから教えてもらって特訓中、麻衣さんはテレビにも出ている女優さんです。今日の出来は、カエデとしては70点くらいでした。
「少し、塩コショウが多い気がします」
「まだまだかー」
「で、でも! おいしいです!」
「ありがとな。行ってきます。カエデも気をつけて」
お兄ちゃんは食器を洗って片付けると、制服に着替えて行ってしまいました。外は今日も秋の陽気に包まれています。
「それじゃあ、カエデ……、私も出掛けるとしますか!」
県立・峰ヶ原高校の制服は、カエデには結構大人っぽい色合いです。紺色や黒の制服が多い中で、キャラメル色のジャケットは背伸びしている感じがします。大学に行った麻衣さんからもらったネクタイを今日もしっかりと締めて、前髪の具合もいい感じです。藤沢の駅まで、歩いて15分。今日の時間割を思い返します。数学、日本史、英語と、書道に生物。数学の宿題はバッチリで、昨日お兄ちゃんにも正解だと褒めてもらいました。JRの線路をまたぐ遊歩道を進んでいくと、江ノ電藤沢駅に到着です。緑とクリーム色の電車がこっちを向いて停まっています。
「あ、カエデちゃん、おはよう」
「朋絵さん。おはようございます」
いつも同じ電車で会うのは、古賀朋絵さんです。2年生の先輩で、お兄ちゃんとも仲良しです。
「先輩とは一緒じゃないんだね……、そっか。3年生校外学習でいないんだった」
「朋絵さんは、お兄ちゃんに会いたいんですね」
「ち、ち、ちがうし! いつもいる先輩がいないからびっくりしただけで……、行こう!?」
朋絵さんも、お兄ちゃんのことが大好きです。カエデから見ればライバルですが、お兄ちゃんが誇らしく思えます。ゆっくりと、電車が動き出します。高架から地上にくだると、家々の軒先をこするようにゆっくりと海に向けて走ります。毎朝、朋絵さんからはファッションや、最近の女子高生の流行りなどを教えてもらえます。麻衣さんや、麻衣さんの妹でアイドルをやっているのどかさんからは聞くことのない一番普通の女子高生の話が一番できるのは、朋絵さんです。江ノ島駅で乗客が入れ替わると、一つ遠くのドアからクラスメイトが乗ってきて、
「おはよお! カエデー!」
と叫んできました。朋絵さんは、行っていいよと笑顔で背中をおしてくれます。お辞儀をすると、カエデは乗客のあいだを進んで合流しました。
峰ヶ原高校は、七里ヶ浜駅で下車後、坂を上っていかなくてはいけません。何十人といる学生が各々の歩幅で登校します。カエデはゆっくりと歩みを進めて、授業の始まる十分前に下駄箱にたどり着きました。階段をあがって、教室に到着すると早速クラスメイトの女子が挨拶してきました。
「読み終わったよ! ありがとう! すっごい良かったあ。泣いちゃった」
「ステキです。由比ヶ浜かんなって良いですよね!!!」
お気に入りの作家、由比ヶ浜かんなの新刊を休み時間に読んでいて、読書好きのクラスメイトから話しかけられたのは一昨日でした。昨日はずっと由比ヶ浜かんなトーク。今日もずっとそうなるといいな、といつもよりも心が弾みます。
「今日、もう一冊持ってきましたよ」
「えっ、本当? 貸してくれるの?」
「もちろんです。もっともっと好きになってもらいますよお? 由比ヶ浜かんな好きは皆兄弟ですからね」
カエデが意気揚々と立ち上がって言うと、「それって、桜島麻衣と家族になるってことじゃん!」とお調子者グループから野次が飛んできました。それを、真面目な女子グループが「もう! いつまで言っているの! カエデちゃんからも言ってよ」となだめています。
「か……、私はそれでも良いですよ?」
みんな仲良くできるのなら、由比ヶ浜かんなの本でつながってくれるのであればそれもいいなあ、と思いました。寛大でかわいいカエデの姿に、数人の男子生徒が心トキメきましたが、それはまた別のお話です。カエデのクラスは、皆仲が良くて、カエデに不干渉も過干渉もしないちょうどいい距離感を保っています。夢のような空間に、今日も峰ヶ原高校に来られてよかった、と藤沢に引っ越してきてから今までの不思議な思春期を思い出すのです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます