僕には愛も情も

横銭 正宗

第1話

大都市の巨大なスクランブル交差点で、僕は後ろの人に押されるようにして前に出た。


「すみません」


僕は後ろの人に声を掛ける。チッ、という舌打ちが返ってきたが、いつもの事だ。

…信号は、青に変わっていたのに。僕はそれを知らなかった。


それは僕が下を向いていたからで、下を向いてしまうのは最近できた癖だ。

…ちっ、あの高そうなスーツの会社員、営業先に行けば何されたってニコニコしてる癖に。

僕より何倍も稼いでいそうなんだから、寛容な心を持って僕に接してくれればいいのに。


いらいらとした気持ちのまま、僕は駅までまっすぐ歩く。…何年ここにいても、この駅の喧騒には慣れない。雑踏、そんな言葉がお似合いなこの駅では、人々は働きアリのように外に吐き出され、コバエの様に中に入っていく。

僕もその羽虫の一人として駅に入る。6年間苦労して貯めた金で借りているマンションは、ここから6駅も電車に揺られなければならないが、その代わりに乗り換えのない駅だし、何より駅前にあるのだ。その前に住んでいた3本も電車を乗り継いで15分自転車を漕ぐボロアパートの100倍マシだろう。…立地だけなら。


家に着いてドアに鍵を挿す。…開いていた。


「おかえり、一花」


あぁ、まだいるのか。憂鬱な気分でソファに座り込む。

僕はタバコを取り出し、煙を吐き出した。

彼女はげほげほと咳払いをしながらも僕に話し掛ける。


「お疲れ様、今日はどうだった?」


僕は返さずに、テレビを付ける。

ニュース番組がプロ野球の試合結果を垂れ流す。つまらないな、と思いながらも、僕はそれを真剣に見るフリをした。


しばらくすると、彼女は黙り込んでしまう。

そうだ。それでいい。頼むから、話し掛けないでくれ。


「…あ、そういえば今日このくらいの野良猫ちゃんがね!」


しかしそんな僕の期待とは裏腹に、彼女は堰を切ったようにマシンガントークを披露した。

散歩してたら綺麗な花が咲いてた〜、だの、今日も一日暑かったね〜だのと、彼女の話題は様々だったが、僕は一言も返さずにいた。


「…あ、もうこんな時間だ。帰るね」


僕は一言も返事をしないままだったが、彼女は帰ることにしたようだ。

また明日、そう小さく呟いて、彼女はぱたんとドアを閉めた。

もう来ないでくれ。心底、僕は思った。


次の日も、僕は仕事だった。

朝8時から夜6時までのはずの業務は朝7時からスタートされ、時に終電ギリギリまで残業を強いられる。

今日はそんな、終電ギリギリまでの日だった。


そんな日だというのはどこの会社でもある朝礼から分かる。

社長はいつも通りいないので、専務が朝礼を行うのだが、こういう日はいつもいつも苦労の大切さの話だ。

若い頃は買ってでもしろだの勝手にしろ。そう思うのだが、社会人の基本姿勢として真剣に聞いているフリをする。


「今日残業確定じゃないっすか〜」


10時頃になり外回りに出た瞬間に、後輩が話し掛けてくる。「っすか〜」は敬語じゃないと何度も繰り返し教えているが、彼は理解しないようだ。


「めんどくせぇな〜」


彼の口癖である。面倒。ダルい。やめたい。

それならとっとと辞めろと思うが、そんなこと言ってSNSに書き込まれでもしたら不愉快なので飲み込む。


昼飯もこの後輩と食べ、その間中高校や大学での自慢話を延々と聞いてやった。

そうだね〜、それはすごいね〜、と返しながらそうは見えねぇけどな、と心の中で付け加える。人間がする自分の話なんて、3割4割は盛って話している。その程度だ。


しばらく仕事をして時計を見れば定時…なのだが、勤勉な社畜共は誰も帰ろうとしない。


後輩は勇敢にも一度帰ろうとしたが、課長がそれを食い止める。上司がまだ仕事をしているだろう、お前が先に帰るのは何事か。入社当初からお前は…と長々と続くお説教を受ける後輩を横目に、黙々と仕事をするふりをしながらチェスゲームに興じる。後輩よ、これが社会人だ。


残業も長期戦に突入し、有給も消化させない、部下が先に帰ることを許さないこんな会社は早く潰れてしまわないかな、とも思うし、潰れてしまったら僕なんかが再就職できるはずもないしこれを我慢すればいいだけだ、とも思う。

その2つが何回かループした頃、専務がおつかれ〜、と外に出た。

その瞬間、役職の高い順に帰路につく上司達。

僕みたいな下っ端は、そんな人達の残務処理もしなければならない。与えられた仕事くらい自分でこなしてくれ。そんな文句は言うだけ無駄なので、にこにことお疲れ様でした〜、と言いながらキーボードを叩く。


「マジでないわ〜あのハゲ共」


隣から声が聞こえた。僕は一旦手を止め、同僚の話を聞いてやることにする。


「俺ら有能な若手を無能なバカ達が潰してるのが現代社会の限界っつーかさぁ、まぁ所詮極東の島国はこんなもんかぁ〜って感じだよな」


この会社を立ち上げて業績を上げ続けて未だ会社を存続していられるのはお前の言う無能なバカ達のおかげだけどな、と思うがそれは言わずにおく。そうだな、と一言返して、また業務に戻る。


業務が終わって時計を見たらもう24時近かった。

また終電ギリギリか。そう思いながらもおつかれっした〜と会社を出て、駅に向かう。


流石に今日はいないだろう。そう期待を膨らませながら乗る電車はいつもより短い時間だったように感じた。


最寄り駅の風景も、何だかいつもより良さげに見える。…そういやあそこの総合病院で、世界でも症例の少ない病気にかかってしまった女の子がいるとか聞くが。


小さな頃から死という概念が待ち受けている感覚は、どんな感じだろうか。


僕の両親はまだ健在だし、婆ちゃんも爺ちゃんも大往生だったし。…死という概念について深く考えたのは、つい最近の事だった。


鼻歌を歌いながら階段を上がり、ドアに手を掛ける。

おっと鍵を挿し忘れた。そう思ったが、ドアノブは回った。


「おかえり、一花」


昨日と同じ笑顔で、降雪は…彼女はそこに立っていた。


僕は我慢の限界だった。

どうしてお前がこの家にいるんだ。

お前は僕にとって邪魔なんだ、出ていってくれ。


冷たく言い放つつもりが、突然に頬が濡れた。

僕は泣いていた。

僕の声は懺悔のように言い訳のように響き始めた。


どうしてお前は僕に対して笑えるんだ。

お前を殺したのは他でもない僕じゃないか。


僕はお前が怖いんだ。僕が普通に接したら、お前は梯子を外すつもりだろう。


ほぼ叫ぶようにして、そんな言葉を吐き出した。


彼女は驚いたような顔をして、一瞬固まった。


「ごめんね、そんな風に思ってたなんて」


誤解だ、そう言うように、彼女は困った顔で話し始めた。


「私はただ、一花が責任を感じてるから、普通に接していたら誤解も解けるかと思って」


彼女の言葉に嘘はないように思えた。続けて彼女は話す。


「一花がそこまで責任を感じてるとは思わなくて、私それで…」


あたふたと話す彼女を見ていたら、僕の涙腺は遂に決壊した。


「…ごめん」


そう言ったら、次々に言葉が溢れだしてきた。


「あの時、仕事が遅かったからって買い物を断って。僕がちゃんと買い物に行ってれば、飲酒運転のトラックになんて、降雪は轢かれなかったのに」


嗚咽混じりで聞くに耐えなかったと思うが、僕はそう言って謝った。


謝って謝って、床に突っ伏して泣いていた。

暫くすると、僕の頭に冷たいものが落ちた。


顔を上げると降雪が泣いていた。

僕は理由を聞く。


「何度も…何度も撫でようとしたの。でも、何にも、何にも触れなくて。…恋人も慰めてあげられないなんて、彼女失格だよ…!」


降雪の手が、僕に触れる…ことはなく、僕の頬をスカスカと通り過ぎる。


彼女はその度に涙の量を増やす。

…そうだ、降雪が泣いてた時、いつも僕はこうやって…。


降雪を抱きしめる。…手には降雪の柔らかい体の感触も、あたたかな温もりも感じずに。

それでも。

何度も何度も、降雪を抱きしめる。


あの時も、あの時も僕はこうして彼女を泣き止ませたのに。

悲しい時も嬉しい時もすぐに泣く彼女を、僕はこうして泣き止ませたのに。


そんな降雪との日々を思い返せば、やっぱり。

…いつも通り、涙が出てきた。


「僕…幸せだったんだ。この日々を、手放したくなかったんだ。

こうやって僕が泣いてしまえば、きっと降雪も泣いてしまうって分かってたのに」


涙が出てくる。

それを見て降雪は顔をくしゃくしゃにして泣く。


「私もそうだよ。まだ手放したくなかった…!」


お互いわんわん泣きながら、何度も何度も抱きとめようとして、何度も何度も空気を撫でた。


「でも…でも!

私と貴方はもう抱き会えないから!手を繋ぐこともキスをすることも出来ないから!だからどうか…どうか他の誰かと幸せになって…!」


降雪はそう言い切って、笑ってみせた。しかし無理をしているのは、見え見えだった。


「それは出来ないよ。触れ合えなくても、目に見えなくても、僕には降雪だけだ。…君を愛せないなら、僕には愛も情もいらない」


降雪の笑顔が崩れる。


「ばか……ばか!」


顔中から水分という水分を出し切るように泣く降雪に、バカでいいよ、と返す。


降雪が死んでから、久しぶりに幸せな夜だった。


……目が覚める。

僕は布団の上だった。起き上がったら涙が零れたので、それを拭った。


長い長い、辛く苦しい…その割に、充足感のある夢を見た…ような感覚だ。


僕はタオルケットを退かして洗面所へ歩く。

…床が濡れていた。

雨漏りか?そう思い上を向くが、天井に穴が空いているようには見えない。…というか空いていても言えない。今まで普通に使えていたということは僕が壊したんだろ、とケチをつけられたら、修理費まで出せる余裕は僕にはない。


顔を洗い歯を磨き、着替えて外に出る。

気持ちのよい、さんさんとした太陽が照っていた。

長い一日が始まる。そう覚悟を決め、一歩を踏み出した。


その頃、降雪の仏壇からは、彼女の大好物だったチョコレートが、一つ減っていた。

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僕には愛も情も 横銭 正宗 @aoi8686

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