9 新しい力とともに……
アリツェはゆっくりと目を開いた。
まばゆいまでの光は、すでに消失している。
まだ目がしばしばするも、ようやく闇になれてきた。
「えっ? これは?」
床についた手の感触に、アリツェは思わずつぶやいた。
先ほどまでの苔むした石畳とは、明らかに違う。周囲のかび臭さも、すっかり消えていた。
慌てて周囲に目を配ると、レンガ造りの壁が目に飛び込んできた。
「地下上水道、ですわ……」
あの不可思議で奇妙な地下迷宮ではない。
どこからどう見ても、グリューンの地下上水道だ。領館と繋がる通路も、すぐそばに見える。
「うっ……。は、母上?」
アリツェのすぐ横で、エミルのうめき声が聞こえた。
「エミル、大丈夫ですか?」
アリツェが問うと、エミルはこくりとうなずく。
アリツェはほっと胸をなでおろす。優しくエミルの身体を抱き締めて、何度も何度も頭を撫でた。
ひとしきりエミルの感触を楽しんだところで、改めて周囲を確認する。
ガブリエラとアルファ、シータが、水路を挟んで反対側の床に倒れている。ペスは、アリツェのすぐ後ろでうずくまっていた。
だが――。
「悠太様?」
どこにも悠太の姿が見当たらない。
「悠太様!」
アリツェは声を張り上げ、悠太の名を呼んだ。だが、返事がない。
――悠太様だけ、別の場所に飛ばされた?
また、おかしな時空のゆがみが生じたのだろうか。これ以上はもう、勘弁してもらいたかった。
「いや、それは違うな……」
「え!?」
突然、脳に直接響くように、低く厳かな声が聞こえた。
「だ、誰ですの!?」
「私だ……」
アリツェの誰何の声に応えるように、一匹の白い狼が姿を現した。
「あ、あなたは……。先ほどの……」
先ほどまで激闘を繰り広げていたはずの、白い毛皮の狼だった。ただし、今はなぜか身体が縮んで、体長一メートルくらいになっていた。
「アリツェにエミル。お前たちの力、しかと見させてもらった。試練は、合格だ」
狼はぴょんっと飛んで、エミルのすぐそばに着地する。
「それじゃあ、狼さんは、僕の使い魔になってくれるの?」
「あぁ、喜んでお前の使い魔になろうではないか、エミルよ」
首をこてんと傾げながらエミルが問うと、狼は首を縦に振った。
「やったあ!」
エミルは歓声を上げ、手を叩く。
「我が名はヴルク。以後、そのように呼べ」
「うんっ! よろしくね、ヴルク!」
エミルはにぱっと笑い、ヴルクの首筋に抱き付いた。
アリツェはそんな二人のやり取りを、頬を緩めながら見つめた。
「さて、アリツェよ。お前の疑問に答えようではないか」
ひとしきり、新たな使い魔とその主人のスキンシップが終わったところで、ヴルクは顔を上げて、アリツェにしゃべりかけてきた。
「悠太様の行方、ご存じですの?」
アリツェは首を傾げた。
「ご存じも何も、悠太はすでに、お前の中にいるぞ」
「え!?」
アリツェはハッと目を見開き、胸に手を置いた。
「我が領域が消失した結果、元通り、二人は融合した」
「あっ……!」
アリツェはすぐさま、目を閉じて、自らの心の奥底を覗き込む。
確かに、悠太の人格らしきものを感じる。胸が、ぽかぽかと温かい……。
同時に、アリツェは自らの身体が、大人の姿に戻っている点に気付いた。
着ていたローブも、地下上水道進入時のままの、傷一つなくきれいな状態を保っている。
改めて、アリツェは自分のステータスを確認した。
「え?」
なぜだか、クラスが『槍士』のままだ……。
「元の世界に戻ったのに、何故、クラスが『槍士』のままなのでしょうか……?」
クラス以外は、渦に飛び込む前の状態に戻っている。
であるならば、クラスも『精霊使い』になっていなければ、おかしいではないか。
「なに、サービスだよ。これから生活していくうえで、もはや役に立たなくなった『精霊使い』のままでは、不便であろう?」
「はぁ……」
アリツェは気のない返事をした。
精霊使い自体に愛着があったので、必ずしも手放しで喜べるわけでもない。
だが、せっかく気を効かせてくれたのだ。文句を言うのも悪いと、アリツェは思う。
ヴルクの言うとおり、『精霊使い』がすでに、アリツェにとって無用の長物となっているのは、まぎれもない事実なのだから。
「それで、結局のところ、ヴルク様はいったい何者なのですか?」
「あれを見るがよい」
アリツェが尋ねると、ヴルクは顎で背後の水路を示した。
アリツェは立ち上がり、示された場所に移動した。きょろきょろと周囲を見回すも、何もおかしなところは見られない。
はてなと思いつつ、アリツェは水路の中を覗き込んだ。
「あっ!」
アリツェは思わず声を張り上げた。水路の中に、見慣れた物体があったからだ。
「そう、お前の持っていた『精霊王の証』だ」
水の底に、真っ二つにひび割れたアリツェの『精霊王の証』が、キラキラと輝きながら沈んでいる。
「それに、この場所は……」
まさに、証が沈んでいる場所の真上に、不可思議な地下迷宮への入口となった濃縮霊素の渦があった。
「私とあの空間は、お前の『精霊王の証』から作られた」
いつの間にか、ヴルクがすぐ脇に立っていた。
「お前たちは、『精霊王』様の導きでこの世界に来たのだろう?」
ヴルクの言葉に、アリツェははたと考え込む。
――『精霊王』様のお導き、ですか? ……確かに、悠太様の転生の条件が、『精霊王』様に力を認められることでした。加えて、この『精霊王の証』が、転生のカギにもなっていました。ヴルク様は、その点をおっしゃっているのでしょうか……。
アリツェは悠太の記憶をたどり、この世界への転生の際に、何があったかを思い出す。
「転生者は、この世界でなすべきことをなすために、力を与えられていた。そうだな?」
ヴルクはアリツェの顔を覗き込み、問うた。アリツェはうなずいて応える。
「『精霊王』様は、慈悲深いお方なのだ。与えられた力を失ったお前に、代わりの力を授けようと、こうして『精霊王の証』を通じて、私とあの空間を寄こされた」
ヴルクは突然、水路に飛び込んだ。
そのまま潜っていき、沈んだ精霊王の証を口にくわえた。
「あれ? ヴルク、どうしたの?」
エミルが不思議そうな表情で、アリツェの傍にやって来た。
とそこに、水路から静かにヴルクが上がってきた。
とてとてと歩き、エミルの前に進み出る。
「ヴルク?」
エミルが小首をかしげると、ヴルクは咥えていた証を、エミルの真ん前に静かに置いた。
「エミルよ。以後、この証はお主が持つがよい」
ヴルクはエミルの顔を直視しながら、つぶやいた。
よくわかっていないエミルは、面白いおもちゃがもらえたと思ったのだろうか、嬉々とした表情で証を手に取った。
「これ、真っ二つにひび割れてるね。母上、直せる?」
エミルは無邪気な笑顔を浮かべながら、アリツェの袖をぎゅっと引っ張った。
「エミル、それは……」
アリツェは言葉を濁した。
『精霊王の証』は、元々《精霊たちの憂鬱》の世界と、この《新・精霊たちの憂鬱》の世界とを結ぶ、転生のキーアイテムだ。そんな特殊なアイテム、アリツェの手ではとてもではないが直せない。
実際、一度試みて、失敗していた。
「『精霊王の証』は、転生のキーアイテムであるとともに、『精霊王』様の強力な加護を受けるための媒介の役目をも担う。『精霊王の証』を手にした瞬間、転生者横見悠太の力を受け継ぐものとして、エミルが新たな『真なる』精霊使いになる」
ヴルクは前脚を伸ばして、エミルが握る精霊王の証の上に置いた。
すると、証が白く輝きだし、エミルの手から離れる。上空で、メダルの割れ目が見る間にふさがっていった。
「さあ、エミルよ。『精霊王』様の加護を受けた、真なる精霊使いの証として、そのメダルを手に取るのだ!」
ヴルクは顔を上げ、輝き続けている『精霊王の証』に目を遣った。
エミルは恐る恐る、右手を伸ばす。
「母上……」
不安げな表情を浮かべながら、エミルはちらりとアリツェに顔を向ける。
アリツェは無言で、笑みを浮かべながらうなずいた。
エミルはゴクリと生唾を呑みこむと、伸ばした右手で、宙に浮かぶ『精霊王の証』を握り締めた。
刹那、証から光が伸び、エミルの全身を包み始める。
「は、母上!」
エミルは悲鳴を上げ、そのまま宙に浮きあがった。
「エミル!」
アリツェは叫び、慌ててエミルの脚を掴もうとした。
「大丈夫だ! 落ち着くのだ、アリツェ!」
ヴルクの声が飛んだ。
アリツェはサッと手を引っ込める。
一方で、エミルの周囲の光は、ますます強くなっていく。
――いったい、何が起こっているんですの!?
アリツェはただ呆然と、眼前の光景を見守った。
エミルを包んだ光は、強烈に膨れ上がっていく。
ぐんぐんと膨張し、エミルの身体を完全に覆い隠したところで、勢いよくパアンと破裂し、消滅した。
エミルはふわりと地面に降下する。
アリツェは今度こそと腕を伸ばし、エミルの身体を捕まえた。
「エミルよ、今お前の中に、新たな霊素が取り込まれた」
ヴルクの低くくぐもった声が、周囲に響き渡る。
――新たな霊素……。『精霊王』様の加護のことですの?
アリツェは腕の中のエミルを、じいっと見つめた。
腕にはめているザハリアーシュの腕輪が、激しく明滅し、熱を放っている。エミルが手にした、強力な霊素に反応しているようだ。
「これでエミルは、他の三人の転生精霊使いに、勝るとも劣らないだけの力を手にしたことになる。以後、我とともに、新たな力を使いこなせるよう、修行に励もうではないか!」
ヴルクは吠えると、エミルの肩に前脚を乗せ、大きくうなずいた――。
★ ☆ ★ ☆ ★
領館に戻ると、すでに夜が明けかけていた。
アリツェの横では、サーシャが泣きながら、エミルに抱き付く。ガブリエラの娘レオナも、眠い目をこすりながら、エミルの傍でぐずっていた。
エミルの無事を伝えたので、しばらくすれば、外を捜索していたドミニクやシモンも戻るだろう。
一部の駆り出された使用人の姿もあり、公爵邸の大広間は今、大騒ぎになっていた。
本当に、いろいろなことがあった一夜だった。
アリツェは賑やかな広間の様子を視界に入れながら、ほうっとため息をついた。
――無事に、戻れましたわね……。
胸に手を当てながら、奥底に眠る悠太にも、ねぎらいの言葉をかける。
――精霊王様がお与えくださった、この不思議な体験……。
サーシャにもみくちゃにされているエミルを、アリツェは優しく見つめる。
――わたくしとエミルに、大きな変化をもたらしました。そして、その変化は、この世界にとって、絶対に必要なもの……。
力を失ったアリツェの替わりに、余剰地核エネルギーを消費させる、四属性陣の発動の役割を担うことになったエミル。
いまだ力が不足しているエミルを慮って、こうして『精霊王』が手を差し伸べてくれた。
さらには、力を失ったアリツェに、新たなる力『槍士』をも授けてくれた。
――わたくしたち転生者は、常に、『精霊王』様によって見守られていたのですね……。
じんわりと、温かい気持ちになる。
『精霊王の証』が砕け、精霊使いの素養を失ったからといって、アリツェは決して『精霊王』から見捨てられたわけではなかった。
アリツェは誓う。
この世界を守り抜き、輝かしい未来を迎えてみせると。
優しく見守り続けてくれる、『精霊王』のためにも。
――やってみせますわ! 可愛いエミルとともに! 頼れる、多くの仲間たちとともに!
アリツェはぎゅっと拳を固め、天を見上げた――。
――番外編 アリツェと地下迷宮 完――
わたくし悪役令嬢になりますわ! ですので、お兄様は皇帝になってくださいませ! ふみきり @k-fumifumi
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