2-1 きちんと身の安全を確保せねばなりませんわ~前編~
アリツェたちは車座になり、焚火を囲んで少し遅い昼食をとった。
木々に遮られ、晴れてはいるが薄暗い。焚火の周りだけが、ほんのり赤く照らされている。
パチパチと音を立てる焚火の音をかき消すかのように、アリツェたちの展開する防風壁の外では、轟音を立てて強風が吹き荒れていた。標高がさらに上がり、木々の量も減った。その影響か、強烈な風の吹きつける頻度が上がっていた。防風壁がなかったらと思うと、ぞっとする。
防風壁の外には、朽ちて倒れた木々が転がっている。度重なる暴風でなぎ倒されたのだろうか。防風壁中のアリツェたちの元にも、腐った木くずのにおいが漂ってくる。わずかに幹に残る枯れ枝も、時折発生する渦巻くような突風にあおられて、あえなく折れた。なんとも、物悲しい気分にさせられる。
「はぁ……、また休憩ですわね……」
アリツェはため息をつきながら、背嚢に入れた乾し肉とドライフルーツを取り出した。ずっと霊素を展開し続けていたため、身体がずしりと重い。全身が、栄養を欲していた。
ドライフルーツの包みを開き、いくつか口の中に放り込む。優しい甘さがじんわりと広がっていく。ドミニクから熱々のスープを受け取り、ひとくち口に含むと、おもわず「ほうっ」と声が漏れた。からからに乾いた空気のためか、喉に痛みを覚えていたものの、スープのおかげで、ひりつく粘膜につかの間の潤いが与えられた。
一息ついたところで、アリツェは手招きをしてペスとルゥを呼ぶと、それぞれにも糧食を与えた。二匹はアリツェに寄り添うように身体をもたげながら、せわしなく口を動かしている。アリツェはその様子を、微笑みながら見遣った。
隣に座るクリスティーナは、手の平に細かくすりつぶした木の実を乗せ、使い魔たちに与えている。可愛らしく鳴き声を上げる三匹の子猫の使い魔たちの頭を、クリスティーナは空いている反対側の手でもって、優しく撫でつけた。
「休憩は必要よ、仕方がないわ。前にも言ったけれど、ある程度霊素は残しておかないと、いざというとき動けないわよ?」
クリスティーナは横目でちらりと、アリツェに視線を寄こした。
「そうは言いますが……。あぁ、口惜しいですわっ!」
アリツェは頭を振って、「もっと霊素限界量を上げておくべきでしたわ」と零した。
帝都決戦後は、領政や対大司教の作戦立案などにかかりっきりになる時間も多く、霊素強化の時間はそれほどなかった。大戦中にせっかく飛行術などの大規模精霊術で強化した霊素限界量も、すっかり伸び悩んでいた。いまさらながら、もっとこまめに大規模精霊術を使う時間を、確保しておけばよかったと、アリツェは己を責めた。
「大丈夫、きっと間に合うよ、アリツェ」
アリツェを元気づけるためか、「自分を責める必要なんてないさ」とドミニクはつぶやいた。
焚火を挟んで相対して座るドミニクの顔は、ぼんやりと赤く照らされている。労わり気に、にこりとアリツェに微笑んでいた。
「ですが、ですが……」
だが、それでもアリツェは胃が重い。
休憩前にちらりと山頂を見上げた時、以前から垂れこめていた雪雲が、一層分厚くなっている様子が目に入った。あの雪雲がさらに発達し、広がってきたらと思うと、胸が締め付けられる思いだった。
「ボクを信じて」
ドミニクは立ち上がり、アリツェの傍へとやって来た。気を利かせたのか、ペスとルゥはアリツェから離れ、ドミニクのための場所を開けた。
空けられた場所に、ドミニクは座り込む。その勢いのまま、右手をアリツェの肩に回し、グイっと引き寄せた。
「……取り乱しましたわ、すみません」
アリツェはされるがままにドミニクの胸へと身体を預け、静かに目を閉じた。ドミニクの心の臓の鼓動を、わずかに左腕に感じる。アリツェ自身の鼓動と一体化したかのような感覚を覚え、胸の締め付けもわずかに緩んだ。冷え切っていた指先などの末端部に、ぐんと熱い血液が流れ込む感覚……。ドミニクといると、アリツェは心から安心できた。
「相変わらずね、あなたたち」
クリスティーナは苦笑いを浮かべながら、呆れたように口にした。
少し気恥ずかしさは感じたものの、アリツェはこの甘美な心地よさを、おいそれと手放す気にはなれなかった。しばらくの間、ドミニクに身体を預けつつ、木の枝などに引っかかりほつれかかったローブの裾を、指先でつまんだり伸ばしたりと、もてあそんだ。
地上では秋物のドレス――雨を想定しておらず、失敗したと後悔したが――を着ていたが、さすがに今は、冬用の厚手のローブを着込んでいる。
しかし、先を急ごうとやや強引に進んでいるせいもあり、何度も木の枝などに引っかかった。脛やくるぶしへの切り傷が、一向に絶えない。丈夫なはずの生地にも、あちこち痛みが生じていた。
「きゃっ!」
とその時、クリスティーナの悲鳴が漏れた。
「大丈夫か、クリスティーナ」
ドミニクはクリスティーナを見遣り、心配そうに声をかけた。アリツェも体を起こし、いったい何ごとかと、クリスティーナへ身体を向けた。
「まったく! ちょっと防風壁を弱めただけで、この風!」
クリスティーナは憤慨しながら、ぼさぼさになった髪を整えなおしている。
休憩中なので、防風壁への供給霊素を最低限まで絞っている。そのため、時折こうして、防風壁を突破して漏れ出す強風もあった。今回、運悪くそうした風が、クリスティーナへと直撃したようだ。
「ほら、スープを飲んで落ち着こう」
顔を紅潮させてブツブツと呟いているクリスティーナを見かねたのか、ドミニクはスープを一杯よそい、クリスティーナへ手渡した。
「ありがと、ドミニク様」
クリスティーナはバツが悪そうに頭を掻くと、礼を言いながらスープ皿を受け取った。
「しかし、アリツェじゃないが、こうも休憩ばかりだと歯がゆいな……」
ここまでじっと押し黙っていたラディムが、不意にぽつりとつぶやいた。
その表情は、みるみる険しくなり、掌をきつく握りしめた。
「……陛下の……ベルナルドの無念を、私ははやく晴らしてやりたいのだ!」
ラディムは「クッ!」と吐き捨てながら、地面を叩いた。
ラディムの傍で目を閉じていたミアとラースが、何ごとかと慌てて目を開き、きょろきょろと顔を動かしている。
すぐさま主人の心の内を読んだのか、ミアもラースも、少し悲しげな鳴き声を上げながら、ラディムの身体に静かに寄り添った。
「お兄様……」
全身を震わせているラディムを見遣り、アリツェはいたたまれなくなり、弱々しく頭を振った。
周囲はすっかり闇に閉ざされている。とっぷりと日も暮れて、アリツェたちは野営の準備に入っていた。
肌をカサカサに乾燥させ、喉を痛めつけていた乾いた風は、幸いにもすっかり止んでいる。これまでの小休止では、あまりにも風が強く、最低限の防風壁を展開したままで休んでいた。だが、今夜はその最低限の防風壁すらいらなそうで、霊素の回復に専念できる。ありがたかった。
晴れ渡ってはいるものの、月明かりはまったく入ってこない。焚火の火以外に光源はなく、アリツェたちは足元に注意をしながら、簡易天幕の設営を行った。暴風が止んだ森の中は、昼間とは一転、時折聞こえる猛禽類の鳴き声と、焚火の立てるパチパチという音以外は、完全な静寂に包まれていた。
「ふぅ、休み休みとはいえ、ずっと霊素を消費しながらの行軍は疲れたわね」
クリスティーナは焚火の上に調理用の木組みをし、鍋を掛けた。時折、疲労で強張った身体をほぐすように、腕をぐるぐると回している。
「今夜はしっかり休んで、霊素を満タンにいたしましょう! 幸いにも、防風壁はいらなそうですし」
休める時にしっかり休む。冒険の鉄則だとアリツェは思う。
もちろん、交代で見張りは立てる。だが、『ショートスリーパー』持ちが、アリツェ、ラディムと二人もいるため、分担はわりと緩く設定できた。クリスティーナとドミニクの睡眠時間を長くとるように設定しても、アリツェとラディムには何らの問題もないからだ。四時間も眠れれば完全回復できる、便利な技能才能だった。
「夜中にこんな獣道を進むのは、無理だしねぇ。休息に専念するのが得策だね」
ドミニクはうなずきながら、鍋に掛けたスープをお玉でかき回した。
漂う刺激的な香りに、アリツェはほおを緩ませた。今夜は体を温めるためにと、多めに香辛料を入れたとドミニクが言っていた。あふれる唾液を抑えつつ、ドミニクの手元を凝視し、出来上がりを今か今かと待った。
アリツェは一度、自らスープを作ろうかと名乗り出た。だが、ドミニクとラディムに全力で止められた。ラディムからは、「こんな場所で死人を出すつもりか!」と怒鳴りつけられる始末だった。以前の飯テロ騒動を思えば、致し方ない反応ではある。だが、アリツェはちょっぴり寂しかった……。
「昼間でさえ、先の見通しが悪いんだ。この漆黒の闇の中では、いかんともしがたいな」
ラディムはぼそりと呟きながら、行軍中に偶然仕留めたウサギを、火の上に吊るして焼き始めた。
もちろん、捌いたのはラディムではない。クリスティーナだ。双子ともども壮絶な不器用さを誇っている。料理に関しては、完全に戦力外だった。
「暗視の精霊術を使えば可能ですが、移動中は常時、火と風の精霊術を展開しております。今の状況を考えますと、暗視も同時に使用するのは無理がありますわ」
二属性の精霊術を常時具現化させているため、さらに追加で視覚に関する光の精霊術を行使するのは、三属性同時展開が可能なクリスティーナはともかく、アリツェとラディムには不可能だった。
「そういえばそうだね。移動中に精霊具現化せずフリーでいる使い魔って、クリスティーナ様のトゥチュカだけか」
ドミニクは残念そうにため息をついた。
哨戒をクリスティーナ一人に任せっきりというわけにもいかない。かといって、たいまつを掲げて移動するのも危険だ。魔獣を呼び寄せてしまっては、色々と面倒な事態になりかねない。
「せめて風さえなければねぇ。防風壁に使っている分を暗視に回せれば、夜も動けそうなんだけれど……。贅沢を言っちゃだめね」
クリスティーナはぼやきつつ、焼きあがったウサギの肉を木皿にとりわけ、瓶詰のジャムを利用したフルーツソースをかけた。ベリーの甘酸っぱい香りが、より一層アリツェの唾液腺を刺激する。お腹がかわいらしく「くぅぅ」と鳴った。
クリスティーナは忍び笑いをしながら、「相変わらず食いしん坊ね」と、アリツェに肉の乗った皿を手渡した。
アリツェは気恥ずかしく、横をプイッと向きながら皿を受け取る。だが、匂いには勝てなかった。再びお腹が鳴る。
「だがな、たとえ暗視が使える状況だったとしても、結局は睡眠をとる大休止が必要なんだ。効率を考えれば、夜休むべきだと思うぞ」
ラディムもクリスティーナから皿を受け取り、焚火を挟んでアリツェと反対側に腰を下ろした。
「ま、ラディムの言うとおりだよ」
ドミニクは首肯しつつ、出来上がったスープを深皿によそり、配り始めた。
男性陣の言うとおり、いつかは長時間の休憩が必要になる。無理に夜行動をしたところで、動きやすい昼間に睡眠をとっていては、それこそ馬鹿な話だ。
アリツェも首を縦に振りつつ、ドミニクからスープ皿を受け取った。
料理の準備をし終えたクリスティーナとドミニクも、めいめい自分の場所を確保し、座り込んだ。全員で精霊王へと祈りをささげ、食事を始める。
我慢の限界を超えていたアリツェは、祈りを終えるや否や、無心に肉をほおばった。甘酸っぱいソースと、カリカリに焼けた皮の香ばしさの共演に、ふわふわと身体が浮き上がるかのようだ。クリスティーナのフルーツソースは、絶品だった。王都プラガのレストランにも、負けていないと思う。
続いて、ドミニク渾身のピリ辛スープを口に運んだ。すっと鼻に抜ける清涼感と、舌にピリリと感じる痛みが、グンとアリツェの身体を温める。むせそうになるほどの刺激的な香りを物ともせず、「はふっはふっ」と掻っ込んだ。
貴族令嬢の姿ではないと言われそうだ。だが、今この場には、気心知れた仲間しかいない。アリツェは自然体で、心行くまで熱々の料理を堪能した。……アリツェは思う。これも、悠太の人格と融合したが故なのかもしれないと。かつてのアリツェなら、こういった場でも、自重していたはずだと思うから。
ドミニクが嬉しそうに、「アリツェに喜んでもらえて、うれしいよ」と笑えば、クリスティーナも、「食べさせがいのある娘よね」と相好を崩した。
食事を終え、食器の片付けなどを済ませると、再び焚火の周りに車座になった。
「ただ、別の問題も出てきたな」
ラディムはぽつりと零した。
「お兄様も感じていらっしゃいますか……。ここのところ、ますます気温が下がってきましたわ。風も強く、体感は相当低いです。火の精霊術でカバーしきれるかどうか……」
アリツェはラディムが何を言いたいのかを察し、答えた。
獣道は緩やかに上り続けていた。気温がさらに下がっている。相変わらずうっそうとしているとはいえ、木々の密度もだいぶ下がった。吹きつける風も、強まる一方だ。今はたまたま風がやんでいるが、そのような幸運は、めったに訪れないだろう。
「周囲に延焼しないように、弱めの火の精霊術を使っているもの。致し方ない面はあるわね」
あまりに強力な火の精霊術を使えば、危険だった。防風壁からのちょっとした風の侵入でさえ、火ははげしくあおられ、火勢を一気に増し、周囲の木々に燃え移るだろう。確かに容易に暖はとれるが、その利点を打ち消して余りあるリスクがあった。多少の風にあおられても問題のない程度に、火勢は抑えておかなければならない。
「これ以上気温が下がるようだと、ムシュカ侯爵やフェイシア国王との約束どおり、下山も考えないといけないかもしれないな」
もう少し登れば森林限界に達し、一気に開けるはず。そこまで行けば、完全にさえぎるものが無くなり、渦巻く風の脅威にさらされる。もはや、簡易の防風壁ではどうしようもないだろう。雪雲に巻かれる恐れも出てくる。
本格的な冬の前に帰るよう厳命されたうえでの、今回の作戦だ。寒さで行動不能になるような環境に直面したら、すぐにも下山をしなければならない。
「何か、追加の手段をとるべきでしょうか」
何とはなしに、アリツェは口にした。
今のところ、妙案はない。だが、できるならば、探索はまだまだ続けたい。
「……思うんだが、外套を使って、インスタントな火属性のマジックアイテムでも作るか? 防寒対策を強化するための」
ラディムは腕を組みながら、ぐるりとアリツェたちを見遣った。
「あぁ! それは素晴らしい考えですわ、お兄様!」
アリツェはパンッと手を叩き、うなずいた。
火の精霊術の暖と防風壁に加え、火の精霊術を込めた外套を纏えば、相当に寒さを防げそうだった。それこそ、気温が氷点下まで下がっても、問題はないだろう。
「ボクとしてもありがたいね。はぐれた際、その外套を身につけておけば、ある程度の時間はしのげそうだよ」
ドミニクは笑みを浮かべた。
やはり、ドミニクも単独行動に陥った際の自身の身の安全に、不安を抱いていたのだろう。
「あくまで簡易だから、半日から、持って一日って程度のものしか作れないけれどな」
悠太の知識があるラディムやアリツェでも、永続するマジックアイテムを作るには、かなりの手間暇と、大量の霊素が必要だった。こんな山の中では作れない。今は、簡易のマジックアイテムで我慢するしかない。だが、それでも、持続時間が短いだけで、効果の面では問題ないはずだった。
「うーん、私はあまり気が進まないわね」
クリスティーナは後頭部で両手を組み、口を尖らせた。
「あら、どうしてですの?」
「……この際、はっきり言うわ。私、あまりマジックアイテム作りは得意でないのよ」
アリツェが首をかしげると、クリスティーナはわずかに顔をしかめた。
「でも、わたくしの十四歳の誕生日の時、霊素を込めたジンジャーブレットを贈ってくださったじゃないですか?」
アリツェは帝都ミュニホフ攻防戦の直前に、クリスティーナから贈られた『龍』のジンジャーブレットを脳裏に浮かべた。クリスティーナは気休めのお守りだと謙遜していたが、霊素の注入された、立派なマジックアイテムだった。とても、マジックアイテム作成が苦手だとは思えなかった。
「あの程度なら問題ないわ。でも、装備品にはちょっと、ね。経験がないのよ」
クリスティーナは組んでいた腕をほどくと、両手を広げながら肩をすくめた。
前世からの精霊使いだった悠太の記憶があるアリツェやラディムと違い、クリスティーナ――ミリアは、前世では精霊術の使えない弓使いだった。マジックアイテム作成に関する技術的な知識が、不足していたのかもしれない。
「クリスティーナの才能なら、わたくしやお兄様の手順をご覧いただければ、すぐにコツを掴めますわ!」
アリツェは胸の前に右手を持ってきて、ぐっと拳を固めた。
クリスティーナの精霊使いの熟練度的には、十分にこなせるはずだった。知識が足りないのであれば、アリツェとラディムが実践で見せればいいだけだ。クリスティーナなら、絶対にできるはずだ。
「時間があるときならそうしたいんだけれど、今は一刻を争うじゃない?」
それでも、クリスティーナにしては弱腰に、大きなため息をついた。
「大丈夫ですわ! わたくしにおまかせくださいませ!」
またしても教えたがりの性が沸き起こってきた。優秀な生徒になりそうなクリスティーナを前に、アリツェが黙っていられるはずがあろうか。
アリツェは腕をまくり、「うふふ、わたくしに任せてくださいな。決して、痛くは致しませんわ」と口にしながら、じりじりとクリスティーナににじり寄った。
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