1-3 エウロペ山中は過酷ですわ~後編~

 ベースキャンプで英気を養い、翌朝、アリツェたちは沢筋の獣道へと分け入った。


 どうにか人一人が通れる程度の幅の狭い道なき道を、足を取られないよう気を付けながら慎重に進んでいく。前日昼までの雨で、地面はかなりの水分を吸っていた。ぬかるみで滑り、何度も足を取られそうになる。体力以上に、気力が削られた。


 一時間も歩くと、傾斜がかなりきつくなってきた。ただでさえ登山には不慣れなアリツェたちだったが、今の足元の状況が、その過酷さに拍車をかけている。


 先頭を歩くラディムは、剣を抜いて切っ先で下草を刈りながら進んでいた。森が深いためか、動物たちの鳴き声もまったく聞こえない。静寂が支配した世界を、アリツェたちはただひたすら、無言でかき分けていく。ザッザッという音だけが、冷たく響き渡っていた。


「ずいぶん遠くまで来ましたが、この獣道、どこまで続くのでしょうか」


 アリツェは顔を上げて、前方を見遣った。先の見通せない森の闇が、眼前に広がっている。唯一、わずかに踏み固められた獣道だけが、アリツェたちの道しるべとなっていた。


「山頂を目指しているわけでもないのに、随分と登った気がするね。気温が下がってきた」


 ドミニクはぎゅっと身体を縮こませた。


 アリツェも寒気を覚え、両腕を使って外套をきつく体に巻きつけた。周囲の涼風にあおられて、身体ににじんだ汗が次々と体温を奪っていく。


 ドミニクの言うとおり、だいぶ登ってきたのだろう。進めば進むほど、肌を舐める空気が冷たくなる。そろそろ、秋用の外套ではしのげないかもしれない。


「もしかして、あえての山頂コースを?」


 クリスティーナが低い声でつぶやいた。登り続ける獣道に、不安を覚えている様子だ。


 アリツェも同様に、気が気でなかった。雪中行軍は避けたい。雪に巻かれれば、大司教捜索どころではなくなるし、なにより、フェイシア国王たちとの約束どおり、すぐにも下山し、帰路に就く必要がでてくる。


「いや、さすがにそれはないだろう。今は上に向かっているが、いずれ下っていき、くぼ地に入ると思うのだが……」


 前方を歩くラディムの声が聞こえてきた。


 このメンバーの中では、ラディムが最も地理に詳しい。アリツェたちがジュリヌの村に集まるまでの間に、エウロペ山脈の周辺地図を睨みつつ、木こりたちからあれこれと助言を受けていたからだ。


 今はラディムの言葉を信じて、ただついていくしかないと、アリツェは諦念に達していた。現状は一本道になっているので、よそ事を考えるよりも、ただひたすら足を動かす、動かす、動かす。疲労と寒さで、思考能力も落ちてきていた。考えるのも億劫だ……。


「だとしてもこのままじゃ、気温の低下に注意をしないとまずいわよ?」


 クリスティーナも寒さが堪えているのだろう、声が震えていた。時折、手に息を吹きかけて、さすっている。


「時間がないのは確かですが、焦って大惨事になるのも具合が悪いですわ。いったん休憩を入れませんか?」


 さすがにこのまま無理をして進んでも、効率が悪いだけだとアリツェは思った。少なくとも、小休止は入れるべきだと、身体が訴えている。疲労を取り除き、気力を回復させ、装備を冬用に換装するだけでも、随分とマシになるはずだった。


 アリツェの提案に、特に異論も出なかったので、小休止と相成った。ラディムとドミニクが剣を使い、獣道の脇の藪を切り開き、全員が余裕をもって座れるだけの空間を確保した。その間にアリツェとクリスティーナで薪を用意し、火をおこした。冷え切った体を温めるためにも、火の力は必要だった。


 各々外套を秋用から冬用に変え、焚火の周りに車座になり、携行食と簡単なスープを採った。もちろん、使い魔たちに専用の糧食を与えるのも忘れない。


 つかの間の休息ではあったが、すり減った気力が回復していくのを、アリツェはしみじみと感じた。熱々のスープが、冷えた心と体を優しく癒していく。じんわりと全身をめぐっていく熱とともに、失いかけていた思考能力も取り戻した。







 小休止を終え、気力体力をある程度回復させたアリツェたち一行は、再び獣道を進み始めた。


 さらに一時間ほど進むと、木々の数が減り始め、幾分か視界が広がってきた。だが、それに合わせて、アリツェたちへ吹きつける風の勢いは増していき、気温もますます下がっていった。


「うぅ、寒い寒い」


 ドミニクは声を震わせながら、恨めし気に上空を眺めた。晴れ渡ってはいるが、木々に遮られ、陽光はそれほど入りこんでこない。


「お兄様に山岳装備を用意しておいてもらって、助かりましたわ。水も氷りつきそうな寒さですもの……」


 先ほどの休憩中に、冬季装備へ換装をしたのが幸いしていた。秋用のままだったら、凍えて身動きが取れなくなっていたかもしれない。それほどの冷えが、アリツェたちを襲っていた。吐く息も、真っ白に輝いている。頬を無慈悲に切りつける寒風に、アリツェは顔をしかめた。


「まだ十月に入って間もないのに、これだけの寒さだ。視界が悪くて、今どの程度の標高かわからないけれども、だいぶ登ったのは間違いなさそうだ」


 ラディムは振り返ると、ため息交じりにつぶやいた。


 麓と比べて、かなり気温が下がっている。秋に差し掛かり始めた地上に対して、ここはもう初冬といってもよい。


「この防寒具だけでも、ある程度の寒さはしのげておりますわ。ですが、天気が荒れますと、少々心もとないかもしれませんわね」


 きれいに晴れ渡っている今でさえ、この身に染みる寒さだ。曇りや雨にでもなれば、冬用の装備でも厳しいかもしれないと、アリツェは気が気でなかった。


「ここまでの寒さは想定外だったよ。このまま登っていけば、もらっている装備でも、寒さに耐えきれるか不安だね……」


 ドミニクは頭を振って、「このまま先に進んでも大丈夫かな……」と声を漏らした。


「だったら、応急処置ってわけじゃないけれど、火の精霊術で暖を取りながら進んでみない?」


 クリスティーナはぽんっと手を叩くと、妙案でしょと言わんばかりに胸をそらした。


「わたくしもクリスティーナに賛成ですわ。使い魔たちなら、周囲の木々に火を燃え移らせるようなへまはいたしませんし、安全に寒さをしのげると思いますわ」


 その手があったと、アリツェはクリスティーナの提案に大きくうなずいた。


 小休止前の状況では、周囲がうっそうとしすぎており、火を使いながら進むのは危険だった。だが、今歩いている獣道は、だいぶ開けている。賢い使い魔たちであれば、安全に火を操れるはずだ。


「せっかく精霊使いが集まっているんだ。無難な手段だな」


 ラディムも納得がいったのか、首を縦に振った。


 さっそくアリツェ、ラディム、クリスティーナは自身の使い魔を呼び、火の精霊術を具現化させた。個々の使い魔が放つ火の精霊術は、焚火ほど強烈ではない。だが、三体の使い魔が同時に精霊術を展開しているので、かなりの広範囲に影響を及ぼせた。


 また、火を扱う以上、風にあおられては危険だとアリツェは判断した。ルゥに指示を下して、前方に簡易の防風壁を展開させる。その様子を見て、ラディムの使い魔は側方に、クリスティーナの使い魔は後方に防風壁を作り出した。これで、アリツェたちの周囲は疑似的な温室状態になる。


「あのー、ボクはどうしたら?」


 霊素を持たないドミニクは、手持無沙汰で戸惑いの声を上げた。


「ドミニクは、私の傍に寄ってくださいませ。離れる際は、ルゥを専属でつけますわ」


 アリツェはドミニクに手招きをした。


「頼むよ。この寒さじゃ、精霊術なしだとさすがにキツイからねぇ」


 ドミニクは手をこすり合わせながら、アリツェの脇にぴたりとくっついた。


「あら、人肌で温めようだなんて、なかなか大胆じゃない、アリツェ」


 背後からクリスティーナのけらけらと笑う声が聞こえてきた。


「ちっ、違いますわ! わたくしは、ただ、傍で一緒に精霊術の火にあたろうかと……」


 アリツェは振り返り、両手を振りながら慌てて弁明をした。


 顔だけが、ぽっぽとやたらに火照った。火の精霊術の効果は、まだ十全には発揮されていないはずなのに……。


「もちろん冗談よ」


 クリスティーナは口元に手を当てながら、「クックッ」と忍び笑いを漏らしている。


「クリスティーナ! こんな時にからかわないでくださいませ!」


 心の内の羞恥心を悟られまいと、アリツェは腕を組み、プイッと横を向いた。


「クリスティーナ様……。アリツェは純情なんだから、あまりいじってやらないでください」


 ドミニクも笑いをこらえているのか、全身を震わせている。何がおかしいのかと、アリツェはドミニクの脇腹を肘で突き、鋭く睨みつけた。


 ドミニクは「ごめんごめん」と謝罪を口にするも、アリツェは頬を膨らませた。「二人してからかうなんて酷いですわ」、とアリツェは心中で悪態をついた。


「うふふっ」


 クリスティーナはいたずらっぽい笑顔を浮かべたまま、アリツェたちを見つめている。


 アリツェが再度抗議の弁を口にしようとした時、ラディムの「また三人でじゃれ合って……」との、呆れたような声が漏れてきた。


 その声にハッとし、アリツェは口をつぐんだ。


 馬鹿げたやり取りで時間を浪費するところだった。いけないいけないと、アリツェは頭を軽く叩き、自身を戒めた。


「……ただ、とっさの事態で、ドミニクだけがはぐれてしまった場合が不安ですわ。ルゥを同行させる暇もなく別れ別れになってしまっては、暖を取る手段がなくなってしまいます」


 精霊術が使えないドミニクは、一人になった時にすぐ用意できる熱源を持っていない。その点が、アリツェにはとても気がかりだった。


「確かに、危険だな。場所によっては、凍死の危険性も出てくるぞ」


 ラディムは腕を組み、「どうしたものか」とブツブツつぶやいている。


「私たちだって、むやみやたらに火の精霊術を使うわけにはいかないわよ。霊素には限界量があるんだし、ある程度、残量を維持しておかないといけないわ。いざ大司教を見つけても、霊素が空っぽで何もできませんでした、なんて最悪の事態になりかねないからね」


 クリスティーナはそう口にすると、肩をすくめた。


 現状、各人が二匹の使い魔を使役し、常時火と風の精霊術を展開している。それほど霊素の消費が大きい精霊術ではないが、維持し続ければ、それなりの霊素を食う。クリスティーナの言うとおり、無制限に精霊術を使って霊素を枯渇させてしまっては、いざという場面で適切な行動をとれなくなる。


 いつ何時、どこで大司教一派と遭遇するか、予測がつかない。くぼ地の洞窟に逃げ込んだのではないかというのも、あくまでもアリツェたちの勝手な予想だ。突然ばったりと出くわす可能性も、無きにしも非ずだ。


「暖を取りながらの行軍だと、我々の霊素限界値を鑑みれば、半日程度が限界だな。休憩の時間が、どうしても多くなってしまう」


 クリスティーナの意見を受けて、ラディムも悩まし気に唸り声を上げた。


「タイムリミットを考えれば、少しでも探索の時間を増やしたいところですわ……」


 山頂の冠雪の様子から、例年よりも冬の訪れが早そうだとラディムは指摘した。であるならば、たとえわずかであっても、捜索時間は多く確保したい。時間が、足りない……。


 アリツェは手の平と甲を交互に、せわしなく擦り合わせた。襲いくる焦燥感に、居ても立っても居られない。


「かといって、焦って事故が起こっても大変だよ、アリツェ」


 ドミニクは微笑みながら、アリツェをじいっと見つめた。そっと伸ばされた手が、ひっきりなしに動くアリツェの掌を、優しく包み込む。


 アリツェはふっと肩の力が抜けていくのを感じた。ドミニクの顔を見上げ、微笑み返す。


「こんな状況だと、やはりボクたちが来て正解だったよ。一般兵たちじゃ、容易に遭難しかねない」


 ドミニクの言葉に、アリツェは大きくうなずいた。


 想像以上の厳しい環境だった。もし、山に不慣れな領軍の兵を連れてきていたならば、犠牲者続出だったかもしれない。


 最悪の想像をし、アリツェは背筋がうすら寒くなった。本当に、連れてこなくてよかったと、身をもって痛感していた。


「とにかく、寒さに注意をしつつ、慎重に進もうか」


 ラディムの促す声に従い、アリツェたちは再び先へと進んだ。


 精霊術の使用で、当面の寒さ対策はできた。だが、霊素の残量調整に、ドミニクがはぐれた場合の対策と、気がかりな点をいくつか残したままだった。


 先行きの不透明感に、アリツェの胸がきれいに晴れることは、決してなかった――。

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