2 悠太様の様子が最近おかしいですわ

 ドミニクとの婚約が決まり、アリツェは幸せな時を過ごしていた。


 王太子の容体は持ち直したようで、早晩にどうにかなるといった状況は脱したらしい。アリツェは安堵した。


 翌月の婚約の儀の準備をしつつ、折を見てはドミニクと二人、オーミュッツの街中を散策した。


 この日も、アリツェはドミニクを伴い、オーミュッツの大通りを歩いていた。


 オーミュッツの十月は、夏場の暑さが一転、急に気温が下がり始め、そろそろ生地の厚い外套を身につけようかといった気候だ。数日の差でググっと気温が下がるので、選ぶ服にも気を遣う。


 アリツェはちらっと空を見上げた。雲一つない快晴だった。南東に見えるエウロパ山脈の山肌がくっきりと見え、その頂上付近は、もう白く雪化粧が施されていた。


 朝に下がった気温も、昼下がりになると汗ばむ程度まで上昇し、歩くアリツェも着ていた外套を脱いだ。


「ドミニク様、良い天気ですわね。街の散策には、もってこいですわ」


 アリツェは隣を歩くドミニクに微笑んだ。


「そうだね。秋に入り、収穫の季節を迎えたこともあって、市場は活気づいているから見ていて楽しいな」


 そうドミニクは口にし、すぐそばの露店の店頭に並べられているリンゴを一つ手に取った。「これ、二つもらえるかな」と店主に料金を支払い、一つはそのままかじりつき、もう一つをアリツェに手渡す。


「ありがとうございます、ドミニク様」


 アリツェもドミニクのまねをし、肩掛けのバッグからハンカチを取り出してリンゴを軽く拭くと、そのまま口に含んだ。


「みずみずしくて、おいしいですわね!」


「うん、フルーツはやはり、秋が一番だ。……それと、アリツェ。前から言おうと思っていたんだけれど、婚約も決まったんだ、様付けはそろそろやめてくれないかな」


 ドミニクは片目をつむり、笑いかけた。


「あ、えと……、ドミニク。これで、よろしいかしら?」


「可愛いよ、アリツェ!」


 どぎまぎしながらアリツェがドミニクの名を呼べば、ドミニクは破顔してギュッとアリツェに抱き着いた。


「ちょ、ちょっとドミニク。往来で恥ずかしいですわ!」


 じろじろと周囲の視線を感じ、アリツェはかあっと顔が熱くなる。


 周囲はアリツェとドミニクが辺境伯家の人間だと知っているので、皆、むやみに話しかけてはこなかった。生暖かい目で見守られている、アリツェはそんな気がした。


 いちゃつきながら通りを歩いていると、アリツェは大きな樽を置いた露店主が、元気な声で客引きをしているのが目に留まった。


「あら、何を売っているのかしら? ビールでしょうか?」


 樽に入っているということは、売り物はおそらく飲み物のはずだ。であれば、この地域の特産の一つであるビールではないかと、アリツェは目星を付ける。


「いや、あれはブルチャークじゃないか?」


 ドミニクは頭を振り、別の推論を口にした。


 ブルチャークは、王国南部を中心に作られるワインの、発酵途中のブドウの汁だ。秋口になると、ワイン祭りと称したちょっとした催し物が王国各地で開催されるが、その際に振舞われる機会が多い。まさに、フェイシア王国の秋の風物詩といっても過言ではなかった。


 ワインとは違ってものすごく濁っているが、飲むと大変甘く、ブドウ果汁のジュースのようだと言う。ただ、アルコール分は多分に含まれるため、ごくごく飲み干せば、あっという間に酩酊状態に陥る。


「まぁ、あれがそうなんですの。……まだ未成年のわたくしは、飲めませんわ。残念です」


 王国法で、アルコール飲料は成人を迎える十五歳から解禁される。まだ十三歳の誕生日を迎えて少ししか経っていないアリツェには、手の出せないものだった。


「あと二年の我慢さ。成人したら、一緒に飲もう」


「はいっ、是非に!」


 アリツェはドミニクと微笑みあった。


 そのまま、二人でゆっくりと市場を散策し、はしたないとは思いつつも、食べ歩きをして心から楽しんだ。







 その夜、夕食を終えて悠太――アリツェから交代した――は自室のベッドに横になっていた。


(悠太様! 食べてすぐに横になるなんて、はしたないですわ。牛になってしまいますわよ)


 アリツェの抗議の声に、悠太は何食わぬ顔でごろごろと寝返りをうった。


(ちょっと、悠太様! わたくしの話を、聞いていらっしゃるのですか!)


「はいはい、惚気話なら聞いているよー」


 悠太は気のない返事を返した。


(……なにやら、ご機嫌斜めのようですわね。わたくし、何か悠太様に粗相をいたしましたでしょうか?)


 アリツェは不満げにつぶやく。


「……アリツェばかりずるいぞ」


 悠太はボソッと口にした。


(え、えと……。いったい何のお話でいらっしゃいますの?)


 アリツェは戸惑っている。


「アリツェばかりイチャイチャイチャイチャと。オレも、優里菜とイチャイチャしたい!」


 悠太はバッと勢いよくベッドから起き上がり、自らの欲望を叫んだ。


(そうおっしゃられましても……。ドミニクは、わたくしの婚約者でございますわ。優里菜様――お兄様は、今、遠くムシュカ伯爵領においでですし、何より、血を分けた双子ですのよ?)


 悠太の様子にアリツェは呆れたのか、子供に言い聞かせるかのように悠太を諭した。


「でも! オレは優里菜と一緒になりたかった!」


 悠太はしかし、枕を胸に抱えると、イヤイヤをするように体をよじらせる。


(うーん、そんな聞き分けのない子供のような駄々をこねられても、わたくし困りますわ)


 アリツェのため息が聞こえた。


「とにかく! アリツェとドミニクの婚約には反対だ。オレはまだ、優里菜をあきらめられないぞ!」


 このままアリツェとドミニクが婚約してしまえば、悠太が優里菜と結ばれる未来が閉ざされてしまう。悠太はそれだけは絶対に避けたかった。


(困った方ですわね……。わたくしとお兄様が結ばれる可能性など、ありはしないのに)


 アリツェが何と言おうと、悠太は考えを変える気はなかった。


 兄妹だからいったいなんだというのだ。肉体はともかく、中の人格である悠太も優里菜も、兄妹ではないのだから。好き合って何が悪い。


(まぁ、後は落ち着いて、おひとりでゆっくりとお考え下さいませ。わたくしは先に休ませていただきますわ)


 アリツェはそのまま眠りに落ちた。


「何とか婚約を阻止して、時間を稼がないと」


 既成事実を作らせるわけにはいかなかった。時間を作って、優里菜を呼び戻すか、悠太が伯爵領へ迎えに行くかしなければ。


 悠太の頭の中は、もうすっかり優里菜一色になっていた。


「優里菜……」


 ぼんやりと優里菜を脳内で思い浮かべていると、不意に映像が乱れ、ドミニクの姿が割り込んできた。


 ドミニクが抱き着いてくる。……昼間のアリツェ視点の映像だった。アリツェの気分が高揚すると同時に、悠太は何やら胸が締め付けられる。


 そのまま、頭の中は完全にドミニクの姿に支配され、優里菜の姿は消滅した。


「あ、あれ? おかしいな……。オレは、優里菜のことが」


 何度優里菜の姿を思い浮かべようとしても、ドミニクの影がちらつき、頭は混乱するばかりだった。しかも、悠太は自身の嫌な変化を悟ってしまった。優里菜を思い浮かべていた時よりも、ドミニクの姿が支配している時の方が、何やら胸がドキドキする。


「なんでだよ、オレは男だ。ドミニクとは……」


 悠太は必死で頭を振り、脳内イメージを消し去ろうとした。


「くそっ、色々と考えてたら、なんだか腹が痛くなってきた。今日はもう寝るぞ!」


 悠太は布団をかぶり、そのまま目を閉じた。







 翌日、辺境伯邸に意外な人物の訪問があった。


「アリツェ……。私は戻ってきた」


 ラディムはエリシュカを伴い、屋敷のエントランスに立っていた。


「お兄様! ……ムシュカ伯爵の領軍は、お兄様抜きで大丈夫なんですか!?」


 アリツェは慌ててラディムの下に駆け寄った。


「その点は問題ない。どうせ私は、もともとお飾りだからな」


 ラディムは自嘲した。エリシュカは、「そんなこと、ありません!」と言って、頭を振っている。


「その、何だ……。悪かった、アリツェ。お前の事情をよく考えもせず、随分とひどいことを言った」


 突然ラディムは頭を垂れ、謝罪の弁を述べた。


「お兄様のお気持ちも、十分理解をしておりますわ。わたくしも、マリエ様の件については、思う所がいろいろとありますし……」


 アリツェはすぐにマリエの話だろうとピンときた。


 アリツェはラディムがマリエとのなれそめを、嬉しそうに話していた時を思い出した。


 幼いラディムにとって、ほぼ唯一といってもいい、触れ合うことの許された同年代の子供。しかも、お互いにお互いを尊敬しあえる魔術の能力を持ち、憎からぬ感情を抱きあっていた。


 そんなマリエを、アリツェは知らなかったとはいえ、手にかけた。一生恨まれても仕方がないと、半ばあきらめの気持ちもあった。ラディムは二度と辺境伯家には戻らないかもしれない。ムシュカ伯爵邸で別れてふた月、アリツェはそう思い悩むことも多かった。


「いつまでもいない人間の思いにとらわれていては、皇子としての役割も果たせないしな。マリエを忘れられはしないが、しかし、私は前に進まなければならないのだ」


 以前とは違い、何かを吹っ切ったかのように、ラディムの表情は明るかった。


「お兄様……」


 マリエを殺めたアリツェの罪は消えない。しかし、こうしてラディムが立ち直ってくれて、アリツェは純粋にうれしかった。


 何のきっかけがあったかはわからない。だが、双子の兄が再び、前向きに考えを改めてくれた事実に、アリツェの心は軽くなった。


「エリシュカが、私に教えてくれたよ。私は、私にしかできない使命を果たさなければならないと」


 ラディムは隣に立つエリシュカの腰に手を回し、軽く傍へ引き寄せた。


「殿下……」


 エリシュカは頬を染め、ラディムを見つめた。


 つまりは、そういうことなのだろう。アリツェは悟った。エリシュカの言葉でラディムは立ち直り、二人はそのまま恋仲になったと。


「そこでだ。エリシュカもしばらく辺境伯家で預かってほしいのだが、叔父上はいらっしゃるか?」


 ラディムはきょろきょろと周囲を見回した。一向に姿を見せないフェルディナントに、気を揉んでいるのだろうか。


「叔父様は今、帝国国境沿いの前線で領軍の指揮をしておりますわ」


「そうか……、では、私とエリシュカはいったん、叔父上のところまで顔を出してこよう」


 アリツェがフェルディナントの居場所を告げると、ラディムはうなずいて、エリシュカと腕を組みながら屋敷を出ようとした。


「まだにらみ合いの状況ですから、危険はないと思いますわ。ただ、くれぐれもご注意を」


 ラディムたちの後姿に、アリツェは注意を促す言葉をかけた。


「ああ、ありがとうアリツェ。それと、婚約おめでとう」


 ラディムはいったん立ち止まってアリツェへ振り返ると、微笑みながら祝福の言葉を口にした。


「おめでとうございます! アリツェ様!」


 エリシュカもアリツェへ向き直り、ニッコリと笑った。


「お兄様、エリシュカさん……。ありがとうございますわ!」


 二人の言葉に、アリツェは声を弾ませながら返礼をした。

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