20歳、鬱になった。

おにぎり

鬱と私と死ぬということ

死にたいと言うと「死んではいけない」という。

どうしてかと問うと「生きたくても生きられない人がいる」という。


私はそれを見聞きするだけで。まっくろな、わけのわからん、血豆の塊みたいなのが胸にどすんと落ちてくる。吐き気がこみ上げる。具合が悪い。いらいらとして髪の毛をひっ摑んで自分の頭の端から毟り取りたくなる。

「自分のことでも手一杯なのに見知らぬ他人の命まで背負わされるのか」

これを聞いた人たちはきっと私のことを血も涙もない、自分勝手な人間だ!と批判するに違いない。だが、私はもう限界だったのだ。私の「死にたい」という気持ちに。「生きられない人がいるのにどうしてそんなことを」とか、「産んでくれた親に申し訳ないと思わないのか!」と責め立てる、てんで的外れなことを考える人々にうんざりしていた。うんざりだ、嫌とかそういう生ぬるいものではない。


うんざり。なのだ。


私は自分の「死にたい」という、正しく、決死の思いすらも、自分で決めてはならんのかと。「死にたい」というたった一つの願いすらも、「親に申し訳なくないのか」と、ここまで責められなくてはーーならないのかと思うのだ。そもそも、私は両の親に育てられた記憶などは一切ない(いわゆるネグレクトである)ので心の底から侮蔑することはあっても有難いなどとは思うことすらもない。むしろなぜこんな生き地獄に産み落としたのだという気持ちである。であるから。「親に申し訳なくないのか」と言える人物は、きっと暖かい暮らしをしてきたのだろう。

それはいいことである。だが。そうではない人がどう思うかは別問題であると私は思う。

だって申し訳ないと思う必要が欠けらも、一寸もないのだ。鬱になったり死にたいと思うのはどうしようもない。なりたくてなっているわけではない。私だって元の優しかった自分に戻れるのなら戻りたい。死にたいなんて言いたくない。誰のせいか。誰でもない。これは病なのだ。ここは生き地獄なのだ。

私は、私たちが、誰かに申し訳ないと思う必要はない。そう思わなければ、今日も生きられないのだから。


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20歳、鬱になった。 おにぎり @yamamorionigiri

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