心からの『ありがとう』をあなたに贈ろう
和希
成瀬礼は進路が決まらない
第1章【1】
「何してんだっ!」
見知らぬ女子高生が、俺に向かって声を荒らげている。
「何してんだって聞いてるの! 答えなさい!」
六月上旬。初夏の明るい陽光が窓から差しこむ放課後の生徒会室。
俺は誰もいないこの部屋で、静かな午後のひと時をまったりと過ごすはずだった。
こいつが現れるまでは。
謎の美少女は身を前に乗り出すと、ばんっ! と俺の前の長机を強く叩く。その勢いで、ゴムで結ったポニーテールが大きく揺れた。
「何って……」
椅子に座っている俺は驚いた顔で見上げる。思考が追いつかず、返す言葉がまとまらない。
こいつはなぜこんなにも怒っているのか?
そもそも、こいつは誰なんだ?
色が白く形がきれいな額。怒りに震える勝気な瞳と、吊り上げた眉。不服そうに尖らせた唇。丸い小顔と、すらりとした細い身体。なかなかの美少女で、不覚にも目を奪われてしまう。
何も答えない俺に苛立ったのか、彼女は細い腕をしなやかに伸ばすと、俺の手からスマートフォンをかっさらった。
画面には、白いビキニ姿のグラビアアイドルの画像が大きく映し出されていた。
「あーっ! こんないやらしいものを見て! お母さんが見たら泣くぞ!」
「親に見せるわけないだろ」
俺はようやく反論する。
俺だって毎回この手の画像を眺めているわけじゃない。クラスメイトの田島海斗に教わって、偶然目にしていただけだ。なんでも写真集の売れ行きが好調らしく、ネットでも注目を集めている話題のグラビアアイドルなんだとか。俺はその手の話には疎くて、教わるまでまったく知らなかった。
それなのに、いきなり生徒会室に飛びこんできて、いきなり怒り出して、その上不名誉なレッテルまで貼られそうになっている。ひどい話だ。
目の前に立つ少女は怒ったように腕を組み、不信感たっぷりな眼差しで俺を見下ろしている。
「じゃあ何をしていたの?」
再び問われ、俺はわが身を振り返る。
俺はここ生徒会室で、真宮天華が来るのを待っていた。
しかしなかなか来ないので、課題のプリントを机の上に出し、空欄を埋めようとした。
けれどもペンが思うように動かず、けっきょくスマートフォンに手を伸ばし、つい魔が差して教わったグラビアアイドルの画像を検索してしまった。
それだけだった。
事実を打ち明けてもまったく面白くないだろうから、簡潔に答える。
「スマホいじってた」
「でしょうね! 馬鹿っ!」
罵声が飛んできた。
「アタシには勉強しろ、時間を有効に使えってうるさいくせに、あなたはぜんぜん勉強してないじゃん。あの言葉は何だったわけ?」
きょとんとする俺。そんなことを言った覚えは少しもない。
しばらくして、俺はぽん、と右の拳で左の手のひらを軽く叩いた。
そうか、ようやく合点がいった。こいつは俺と他の誰かとを混同しているのだ。
「それなら人違いだ。いったい誰だか知らんが、少なくとも俺ではない。何ならそいつがどの教室にいるか調べてやるよ」
幸いこの生徒会室には全校生徒の名簿がある。名前が分かれば、何年何組の生徒なのかすぐに割り出せるだろう。俺は立ち上がり、棚にあった名簿一覧を手に取った。
「で、誰なんだ? お前にそんなことを言った奴は」
「成瀬礼」
少女は恨めしい目で頬をふくらませ、ふてくされたように答える。
「ふーん……」
間違いなく俺の名前だった。
この学校に俺と同姓同名の生徒はいない。つまり、彼女は確信をもって俺に不平不満をぶつけているのだった。
俺は手にした名簿を広げ、今さらながら問いただす。
「ところでお前、名前は?」
「ん? 何これ?」
彼女は頭上に疑問符を浮かべると、スマートフォンを置き、代わりに机上にあった俺のプリントを勝手に取り上げた。聞いちゃいない。
彼女は興味深そうにプリントをのぞきこみ、冒頭に書かれた文字を口にした。
「『進路希望調査』?」
「こら、勝手に見るな」
それは高校二年生になって初めてのホームルームで出された課題だった。
担任は進路の大切さを熱を入れて語り、クラスの連中もこの時ばかりは真剣に話を聞いていた。それまで和やかだった教室の空気が進路の話になった途端に一変し、緊張の色がにわかに走ったのを誰もが感じ取ったはずだ。
とはいえ。
俺の『進路希望調査』には何も書かれていない。まっさらな白紙のままだ。
「こんなのさっさと書けばいいじゃん」
彼女は指でつまんだプリントをぺらぺらと宙に遊ばせ、さも簡単そうに言う。
そりゃあ進路が決まっている奴らにとっては簡単だろう。なにしろ自分が希望する分野の名称をただ一言書けばいいのだから。
しかし、その簡単なことが俺にはできずにいる。
なぜなら、俺には将来やりたいことなんて何もないのだから。
「いいだろ、返せ」
俺は不服そうに立ち上がり、腕を伸ばした。
しかし彼女は俺の手をするりとかわし、プリントを返す気配はない。
彼女は俺の態度から何かを察したのか、馬鹿にしたように吐き捨てた。
「あっきれた。何も書けないわけ? いい? 人生は一度きりなんだよ。未来があるってのは素晴らしいことなの。それなのに、あなたはこの先のことを何も考えていないわけ?」
「うっさい」
別に何も考えていないわけではない。考えた結果、したいことが何もなかっただけだ。
「いいわ。それならアタシが書いてあげる」
彼女は「この私に任せなさい!」とでも言いたげに胸を張ると、俺のペンを取り上げ、空欄に勢いよく文字を書きこんでいく。
「これでどう?」
そして得意満面の笑みでプリントを俺の眼前に突きつける。
第一希望 『医者』。
第二希望 『医者』。
第三希望 『医者』。
俺はぐうの音も出ない。
現れた時からとんでもない奴だと思っていたが、まさかここまで非常識だとは思わなかった。『医者』なんて俺にはハードルが高すぎるし、そもそも同じ単語を三つも並べて書いたりはしない。
「これで決心がついたでしょ? 頑張りたまえ」
「お心遣い感謝します……とでも言うと思うか?」
俺はようやくプリントを取り上げ、文字を消そうとした。あっ、これ油性ペンじゃないか。
「アタシが勝手に決めたんじゃない。これはあなたの意志なの」
今度は俺の意志まで決めてかかってきた。
相手に無理強いしておいて、自分の意志でやったことだと信じこませ責任逃れをする。新手の宗教か、はたまた世に聞くブラック企業か。どちらにせよ、俺はその手に乗る気はない。
「俺の意志は俺のものだ。お前が決めるんじゃない」
俺は彼女に食ってかかり、そして、思わず息をのんだ。
彼女の表情が、今にも泣き出しそうに切なげだったから――。
「きっと今は分からないでしょうけど、そのうち分かる。あなたは医者になるべきなんだ。そうじゃないと、後ですごく後悔する」
勝気な瞳を涙でにじませ、怒ったようににらみながら、真にそう訴えかけてくる。
演技……ではないんだよな? 彼女はあまりに真剣で、嘘や冗談を言っているようには思えない。彼女の心からの忠告なのだ。
だが俺にとってはあまりに唐突で、どう受け止めていいか分からない。ちょっと大げさ過ぎやしないか?
「どうしてそう言い切れる?」
俺はためらいがちに疑問を口にする。
「詳しい事情は話せない。でも、アタシには分かるんだ。お願い、アタシを信じて」
「すると何か? お前には未来を予見する特別な能力があるとでもいうのか?」
「まあ、そんなとこ。だからお願い。今からでも遅くない。アタシの言う通りにして」
どうやら相手は重度の中二病らしい。自分には特別な能力があると妄信して、どうしても俺を思い通りに従わせたいようだ。
俺は再び椅子に座りこみ、背もたれに寄りかかった。彼女もまた素直に向かいの席に腰を下ろした。
「『言う通りにして』って。実際何をすればいいんだ?」
俺が呆れたようにたずねると、
「医者を目指して一心不乱に勉強して。一分たりとも無駄にせず、呼吸するように問題を解いて。大丈夫、食事とお風呂とお手洗いの時間くらいは大目に見るから。とにかくアタシがいいって言うまで机にかじりついて猛勉強して」
むちゃくちゃな注文が返ってきた。
俺は面倒くさそうに机に伏し、顔だけ彼女に向けた。
「やなこった。俺は省エネ主義なんだ。だいたい何で俺が医者を目指さなくちゃならないんだ」
「すべこべ言わないっ! 天華さんと結ばれたくないの? 好きなんでしょう、天華さんのこと」
彼女が苛立たしげに抗議する。
俺は弾かれたように身を前に乗り出した。
「……どうしてそれを知っている?」
俺はひそかに真宮天華に想いを寄せていた。だから俺は生徒会に入ったし、今もこうして天華を待ち続けている。
だがその事実を知っているのは、ごく限られた少人数のはず。そんな秘めた俺の思いを、なぜ見ず知らずのこの女子が知っているんだ?
俺の心を見透かしたかのように、彼女の瞳に得意の色が輝き、口元に小悪魔的な微笑が浮かぶ。立場が優位だと感じているのか、悦に入った実に悪い顔をしている。
「ふふっ。言ったでしょう、アタシには分かるって。あなたが天華さんのことが好きってことも、そのくせマイペースで面倒がりで執着心に欠けるから今まで何の進展もないことも、みーんなお見通しなんだから」
俺はぐっと声を飲みこむ。文句の一つも言ってやりたいが、実際その通りなので何も言い返せない。
彼女はそう断言すると腰を浮かせ、身を乗り出し、俺の面前まで迫ってきた。
「いい? 真宮総合病院の一人娘である天華さんと結ばれたかったら、あなたは医者になるしかないの。まあ、たとえ本当になれたところで、天華さんと対等な立場になれるとも思わないけど。でもね、とにかく諦めないこと! 『点滴石をうがつ』って言うでしょ。こつこつと努力を重ねていれば、いつか大きな成功をつかめるんだから。だから、あなたの想いが届くと信じて、とにかく頑張りなさい。分かった?」
まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるかのように、人差し指を立て、強い口調できっぱりと言い切る。
たしかに俺はまだ子供には違いないのだが、俺たち同年代だよな? なのにどうしてこいつはこうも一貫して上から目線なのだろう。もしかして俺より学年が一つ上なのか?
あれこれ疑問が浮かぶ中、俺は一つだけたずねた。
「……もしかして応援してくれているのか? 俺のこと」
彼女は俺に『諦めないこと!』とアドバイスしてくれた。それはつまり、天華への恋に進めと言ってくれているのと同じだ。
「まあね。あなたと天華さんが結ばれてくれないと、こっちも困るわけだし」
それから彼女は俺から目をそらし、髪を指先でいじりながらぼそっと言う。
「あーあ、天華さんはどうしてこんな人を選んだんだろう? アタシだったら絶~っ対違う人にするけどなあ」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん、何でもない。こっちの話」
慌てたように両手を忙しく振ってごまかす謎の女子高生。あからさまに怪しい。が、あえて突っこまないでおく。
それよりも、俺がこいつに言うべきことは――。
「ありがとう」
彼女が目をぱちくりする。
「どうしたの? 急にかしこまって」
「いや、俺を励ましてくれているみたいだったから」
俺は窓の方を見やりながら、ぽつりと告げる。
無遠慮だし非常識だし強引だし、こいつがやって来てから呆れることばかりだ。
でも、こいつは俺に進路を示し、希望を持たせ、前へ前へと進ませようと躍起になってくれている。さらに真宮天華に対する俺の恋心まで応援してくれている。
なぜ彼女がこうも俺に肩入れしてくれるのかは分からない。でも、せめてお礼くらいはちゃんと言っておかないといけない気がする。
二人だけの生徒会室に、沈黙が流れる。
それから少しの間があって、ぷっ、と彼女が吹き出した。
「アハハッ。素直でたいへんよろしい!」
さもご満悦といった顔で、うんうん、と大きくうなずく。俺はなんだか気恥ずかしくなってきた。
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