対岸

 僕は泳げない。


 ラルフは良く僕の事を川の中から呼んだ。

 気持ちいいよ。ロービィもおいでよ。

 そう言った。

 僕はどうしても泳げないから。

 だからあの子に水切りを教えた。

 そうすれば、もう川の中に呼ばれることはないと思って。


 でも水切りを覚えたラルフはまた言った。

 ロービィ!あっちで見てよ!反対側まで届かせるからさ!


 あの時、微かにだけど怒りを覚えた。

 僕は泳げないことを恥ずかしく思っていたから。僕だって当時は練習していた。ずっと、ずっとだ。

 それなのにちっとも泳げない僕に対してラルフはわざと、言ってるんじゃないか、恥をかかせるために言ってるんじゃないか。

 そう、思ってしまった。

 だから僕はあの日言ったんだ。


 ラルフ。ラルフは3回までしか成功してないだろう?この川を見てみなよ。広いだろ?今のままじゃ届きっこないよ。せめて今の倍の6回はできなくっちゃね。


 ラルフという少年は。

 実に素直で、実に単純で。

 あの日から彼は愚直に水切りを練習しだしたのだ。

 もちろん僕らが飽きて水掛けをすることもあった。でも彼は夕陽が落ちて暗くなることすら厭わずに、石を投げた。


 その光景を見るのが嫌だった。

 腹立たしくて、煩わしかった。

 素直に言えば嫉妬したのだろう。

 僕は果たしてこれ程までに泳ぎの練習をしていただろうか、と。


 遂に5回の水切りを達成した彼は6回もできると豪語した。

 だから僕は翌日対岸まで泳がねばならなかった。

 普通に考えれば、橋で渡ればいい話なのだが、子供の僕は崖っぷちにいるような気持ちだった。

 明日僕は恥をかき、6回の水切りを成功させたラルフに笑われるのだ。

 謎めいた確信を持っていた。


 だからジリジリと近付いてくる朝に、一際恐れを抱きながら、ベットで泣きじゃくった。


 明日など来なければ良い。

 どうか、明日が来ないでくれ。


 僕はそこで初めてアンリルの龍に祈った。


 その結果についてはもういいだろう。


 帝国の分厚い法典を隅から隅まで見ても、僕に罪はなかった。

 僕のせいであんなことが起きたというのはただの思い上がりである。


 でも、忘れられない罪悪感がある。


 遠い遠い対岸へと行ってしまったラルフ。


 あの時、飛び出したラルフに気づくのが遅れたのは、ひたむきな彼の目を僕が避けていたからではないかと僕の心の棘が囁くのだ。




 その事を僕は思い出していた。





 無理矢理着いてきて、情けない姿を晒した僕ら。

 師匠は多分僕らの虚勢に気付いていた。

 僕らは剣を取る事が出来なかった。

 獣人騎士のリノアさんは構えていた。


 どれだけ史上最年少の第2位階だなんだと持て囃されようとも、このザマでは立つ瀬もなにもなかった。


 やつが迫っていたあの瞬間。

 僕らは狩人ではなかったのだ。


 だが、あろうことか師匠はそんな僕らを褒めた。


 成長したと。


 これの。


 これの!


 これの!!!


 何たる屈辱か!!!!!!!






 師に対して不敬であるかもしれない。


 だがこの煮えたぎる溶岩のようなこの思いは隠せない程に肥大化していた。

 端から僕らに期待などしていなかったような態度、お前達には無理だろうとでも言いたげ謎の表情に。


 僕は。


 僕らは耐え難い屈辱と恥辱を味わった。


 でも同時に。


 遠い。


 そう思ったのだ。


 それは恐らくリーラもだった。

 悔しさから拳を握りしめるのは彼女の癖だ。

 俺たちの足元まで血が押し寄せる。

 リーラは髪でその表情を隠しながら、それを見つめていた。


 彼女は僕の視線に気付くと、口角を上げるだけのぎこちない笑顔を浮かべた。


 俺は、こんな笑顔をさせたいわけじゃなかった。


 なあ、ラルフ。


 俺は向こうまで泳げるだろうか。


 ☩


 恐らく間違えた。


 その実感を持っていた。


 何故か。


 簡単だ。


 この重苦しい空気にある。


 人を褒めることが間違いになることがあるのか。


 やはり俺は師匠なんて柄じゃない。


 1年で彼らもかなり力をつけた。

 それこそ恐らく1級に届く水準ではあるだろう。

 アダダーラとまでは行かないが、2人でなら恐らく今のポクポク太郎といい勝負をするだろう。


 だが、それだけだった。

 多分彼らの才覚ならば、俺でなくとも良かった。

 こと強さだけで言うならば、フィッチさんに仕込んでもらって騎士になった方が良かっただろう。

 その方が精神的にも彼らは成長出来たはずだ。


 俺では彼らの心の闇を晴らすことも、この先を示すことも出来なかった。


 彼らの健やかな未来を守りたい。

 たったそれだけなのに。




 火は音を立てて燃え盛る。


 時折火の粉が降り、服に穴を作った。


 煙は曇天へと同化していく。

 鼻腔をつく焦げ臭い匂いで、目の前の現実に少し引き戻される。

 周りを見ればロービィもリーラも、あの騎士もただ火を見つめていた。



 両手を前に突き出して、ゆっくりと肘を手前に曲げる。肘から先が太陽を刺すように真っ直ぐに止める。


 どうか彼らに安らかな眠りを。



「……ヒトは死者を弔う時、そうするのですか?」


 あの騎士が遠慮がちにそう尋ねてきた。

 賎しい耳も倒れ、赤の目もこちらの目を捉えようとしない。

 そんな状態でも聞いてきたのはこの重苦しい空気に耐えかねたからだろう。

 他愛もないその話題は少しだけありがたかった。



「俺の故郷の方法だ。他ではどうか知らない」


 でもうちに燻るチリチリとした拒絶心がぶっきらぼうにそう答えさせた。

 その答えに少しびくりとした彼女はそうですかと、小さく囁いた。




「名前は?」


「へ?」


「お前の名前。俺は知らない」


 彼女は俺からの問いかけに驚きを隠そうともしなかった。

 俺が自分のことを、獣人のことを聞くことなんて無いだろうとそう思っていたんだろう。

 どうせ、エインリッヒがベラベラと余計な事を吹き込んだに違いない。

 実際俺は獣人が嫌いだし、俺の与り知らぬところで絶滅してしまえばいいと思っている。


 だが、ロービィとリーラを庇うように構えた彼女を俺は少し見直していた。


 だからこれは本当に気まぐれでしかない。

 重苦しい空気と彼女の行動が生み出した囁かな偶然でしかない。



「リノア、リノア・ウォルフです。」


 その偶然を恨むことになるとは思わなかったが。

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