第三者あるいは主演
蛇足
地獄を見た。
その起こりは空をも飲み干す程の大口が壁を破壊した、その時である。
敵襲を知らせる鐘が忙しくなく鳴り響き、絶叫が飛び交う。その巨躯はあまりにも無慈悲であった。質量とは、体積とは、それだけで武器である。矮小な二足歩行の動物が知恵で粋がろうとも、辿り着けぬ純粋な暴力であった。かの蛇は人を虐げようなど微塵も考えてはおらなんだ。
ただ、アレは通っただけなのだろう。事実、かの蛇の通った痕跡は文字通り蛇行しながらも最短経路を駆け抜けていた。
だが、それは結果として人に厄災を齎した。海の水底にて微笑む邪神がそのグラスを傾けたようにじわりじわりと赤が拡散していく。
守衛はよくやったのだ。
あの巨躯がもたらした穴とはあまりに大きい。そこに雪崩込む獣達の量と言えば想像を絶する。防ごうと思っても一都市の守備隊がどうにかできる規模でないのは子供にも分かった。
だから当時、守備隊長であった友人の親を恨むことは考えもしなかった。以前から悪くされてるものでなければあの時あの場にいたほぼ全ての人間同じ考えだとすら思う。
あれはそういうものだった。
だが、嗚呼。
アンリルの龍は我らを見てはいなかった。
あのトカゲはむざむざと僕らを見捨てたのだ。
厄災であると黙示録に書き殴っておきながら。
守衛はよくやったのだ。
守衛はよくやりすぎてしまったのだ。
少女の夢がいつしか覚めるように。
日はいつしか沈むように。
獣達の恐慌もいつしか、終わるのだ。
神獣種によって駆り立てられた恐怖は獣達を大いに走らせた。バラン大森林からか。はたまたさらに遠くからか。1日か2日か、それ以上か。
神獣種の与える影響とは恐ろしい。余波で、獣をそれほどに駆りたてる。だが、いつかは終わるのだ。それはいつか。
命が終わる時だろう。
命が脅かされた時だろう。
神獣種の恐怖から逃げている中途であったとして、目の前に命の危機が迫れば、ほんの一時、そちらを優先する。意識が背後の神獣種という虚構から、現実の刃へと移ろう。
するとどうだ。
いないではないか。
神獣種など。
いるのは高々人間程度である。
そう、気づいてしまったなら。
走り続けたことによる飢えと現実的な命の危機。
それらを解消しようと獣が短絡的に考えたなら。
いや。
そうだったから。
ロドは赤く染まっていったのだろう。
☩
新月の夜空より深い闇で僕らの心を染め上げた。
祝祭の鐘が鳴る。
獣達の祝祭。
恐怖からの解放。
欲望の充足。
僕らはその最中で、盲目的に信じた停滞から急激にすくい上げられた。鳴り響く鐘の音と大人達の怒声で僕らは走り出した。僕らの1歩はどうしてこんなにも小さいのか。僕らは一体どうなるのか。そんな事を小さな頭で考えた。
やがて轟音と共にあの大蛇が背後に現れる。それが僕らの心に焦りを与えた。逃げ惑う人々の中で僕らは涙を流し、荒い呼吸で前へ前へと縋るように走った。
僕らはラルフの家までたどり着いていた。僕らがそこを目指したのは、ただ僕らの中でいちばん近い家がそこだったからだ。家には誰もおらず、ただラルフの部屋で打ち震えていた。
段々と近付く轟音。
地鳴りとともに揺れる家具。
間違いなくソレは近付いていた。
だから仕方なかった。
ラルフが母を求めて部屋を飛び出すのも。
それを止められなかったのも。
仕方ないことだった。
僕らは茫然と立ち尽くしていた。目の前を蛍光の黄緑が過ぎ去っていく。僕らはそれをただただ見ることしかできなかった。
今日はラルフができると豪語した6回の水切りを見るはずであった。ラルフは前日5回しかできていなかった。だから僕とロービィが見て笑い、今日という日は終わるはずであったのだ。
なのに、6回の水切りをみていないのに。彼は潰れてしまった。ロービィは叫んで、叫んで。でもラルフは間に合わなかったのだ。
僕は何も出来なかったのだ。
これは現実では無い気がして、夢なんじゃないかと友達の腸が頬に着くまでぼんやりと考えていたのだ。
しばらくして、ラルフのお母さんがラルフの名を叫びながら帰ってきた。僕らは蹲って泣く事しか出来なかった。
それを見てラルフのお母さんも見たことないほどに泣いていた。その姿が忘れられない。
ラルフのお母さんは泣き腫らした目で僕らを見て言った。
「逃げるよ」
僕らはそれに従った。家に背を向けたラルフのお母さんは肩を震わせていた。僕らは黙って着いて行った。
逃げた先では剣を構えた大人達が、怯える子供達が、泣いている街のみんながいた。金木犀の雫の飴をくれるお姉さんは血だらけで寝そべっていた。
ラルフのお母さんははずれの倉まで来るとここに残るように言った。魚の干物で酷い匂いだったが、外にいるよりはマシだった。
僕らはそれに従った。
もう間違えたくはなかったから。
ただ呆然と、木枠から未だ抜けきらぬ大蛇の尾を眺めた。
何時しか獣が剣を構えた大人達に襲いかかるようになっていた。時として何匹か内側に入り込み、子供や怪我した大人を殺して回った。僕らは倉の箱の中で息を殺してそれが過ぎ去るのを待っていた。
ドアが音を立てて開けられた時、不思議と恐怖は無かった。もう死ぬのだなと冷静に悟り、目から涙が伝った。
だが、開けたのはラルフのお母さんだった。ラルフのお母さんは頭から血を流していた。持っている木の枝のようなものにはべっとりと血がついていた。
見開かれた目はいつもの優しい姿とはかけ離れていて、目を合わせられなかった。
でも。
「おいで」
そう言う声はいつも通りで優しかった。僕らはその言葉に従った。
外にあったのは獣と人の死体ばかりで、血腥い匂いで吐きそうだった。
ラルフのお母さんは足を引き摺って、僕らの前を歩いた。
その先にあったのは獣の死体の山だった。その合間からこちらを覗く子供の顔。その中には見知った顔が沢山あった。周りには獣に食い荒らさせた、母親達の姿があった。
そこで僕らは吐いた。胃の中全部をすっからかんにするくらい吐き出した。そんな僕らをラルフのお母さんは引き摺った。
優しい声で「ごめんね」と狂ったように繰り返していた。
そして僕らはその中に閉じ込められた。
「出てきちゃダメよ」
そう言われて、2人で抱き合うようにして縮こまった。周りの子達と目が合わないように。
何度かドスン、ドスンと音が響いた。
そう言えば、ラルフのお母さん以外にもう人は、生きている人は見かけなかった。
そして、獣の足音に怯え、周りの子達の視線に耐え、ただ言われた通り、出ないことを守り続けた。
どれだけそうしただろうか。
実際には3時間程度だったかもしれないし、3日もたっていたかもしれない。
ともかく、僕らにとっては酷く長い間そうしていたように感じた。
だから再び夕の光が僕らに届いた時、僕らは何が起きているのか何も分からなかった。
酷く悲しい顔をした大人の男の人に抱きしめられて、そこで初めて生き延びたのだという事を実感した。
ラルフの死を思い出した。
右足に響く鈍痛を思い出した。
ラルフのお母さんの優しさを思い出した。
僕らはそれらを思い起こして、よく分からない感情を抱いた。
僕らはその感情をどう処理したらいいのか分からなかった。
だから僕らは泣いた。
全部全部涙で表現した。
ぐちゃぐちゃの心をめいいっぱい。
男の人はただ黙って受け止めてくれた。
それでいいんだよと慰めてくれるみたいに。
怖い目をした黒い馬。
ロービィがどうかは分からない。
でも僕は怖くなかった。
襲ってきた獣達と何が違ったのだろうか。
ただ、僕らの背中に擦り付けてくる頭からは確かに温みを感じていた。
僕らはその温みに身体を委ねて意識を手放した。
そして、絶叫で目を覚ますのだった。
泣き崩れる僕らの英雄と絶え絶えの息で倒れ伏すかの黒馬。
嫌だ。
もう、失うのは嫌だ。
そう思うと僕は駆け出していた。
それで僕らの英雄の隣でわんわん泣いた。
黒馬は勝手に殺すなと言わんばかりに嘶いた。
それで僕らは、英雄様と僕とロービィは余計に泣いた。
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ここまで読んでいただいてありがとうございます。
これで1章で書きたかったことは書ききれた気がします。分かりづらい点があればご指摘頂けると幸いです。
また、ここまでのヒンツァルトくん虐めを好んでみてくださっている方々には申し訳ないですが、2章以降は少し毛色が変わり、それなりに王道を走るつもりです。
こればかりは私の読みたい話を書いてるだけなのでご容赦ください。
それでも良いと言う心の広い御方はもうしばしお付き合いください。何年かかるかは知りませんが5章で完結しますので気長にお待ち頂けると作者が喜びます。
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