狩人

 本能が、濁流のように押し寄せる感情が追えと、あの蛇畜生を殺せと、叫んだ。

 このままでは生き恥に他ならなかった。

 獣共を止められず、アダダーラも逃がし、仲間が死んでなお、己のみが生き残る。

 それは恥辱に他ならない。

 悉くが死ぬか、アダダーラの息の根を止めて初めて我らは英霊となり、海の水底にてまた戦えるのだ。

 私1人でも生き残れば、ただの敗軍に成り下がる。祖国の為に命をとして時間を稼いだ誇り高き軍から畜生どもに踏みにじられ、むざむざと生き残った敗軍となる。ただ一人の生存者があるだけで、生命を賭した彼らの名誉すらも犯される。

 そんなことが許されて良い訳がない。

 民の為に、祖国の為に、家族の為に、死地と分かってなお、轡を並べた誇り高き我らが。

 そのすべてに嬲られる事を許容できる訳が無い。

 ああ全くもって許し難い。


 どちらにせよ、決断は迅速でなければならない。


 騎士であるからこそ、侮辱は許し難く、命を賭して報復せねばならない。それをせねば、私は騎士として死ぬことは今後ないと、そう考えた。

 実際にそうしようと1歩踏み出した。


 ああ、だが。


 奥歯が軋む音がした。


 2歩目は踏み出せなかった。

 例えそれが敗軍の汚名を甘んじて受け入れる事に等しくとも、仲間の死を辱める事であるとしても。

 、帝国の民を守る剣として、陛下に剣で肩を叩いて頂いたあの日から私の命は私のものでない。

 理性が止めるのだ。

 やつが引いたのは何も私を恐れたのでなく、生存本能からなるものだ。やつはもはや体液を撒き散らして内地を目指す生存欲求の具現でなく、獣程度であれど知性をもった生物にほかならない。

 ならば、意識を現に向けたならば、むざむざここで傷を増やす意味も、文字通り命を賭して戦う理由もなくなる。背後に神獣種でもいない限り。

 つまり、やつが引くという事は神獣種最悪の訪れはなく、アダダーラの侵攻もここまで。残る脅威は数だけの木っ端共のみ。無論、完全に脅威が去った訳では無い。

 だが、アダダーラを欠く厄災は、派遣されるであろう狩人、帝国兵、そして各都市の城壁を考慮すると大きく見劣りする。


 そうだ。

 そうなのだ。

 騎士としての、東方常備軍としての栄誉を度外視すれば、これは勝利たり得る。

 たり得てしまうのだ。



 ならば、帝国の守護者として、騎士としてすべきはやつを刺激することでなく、やつの逃避を見届け、木っ端共を狩ることであった。おそらくただ一人であろう生き残りとして、少しでも情報を与える事であった。


 むざむざ帝国の民を危険に晒すことはこれもまた騎士としてできることではなかった。


 こんな事であれば、

 このような屈辱を受けるのであれば、

 いっそアダダーラの臓物に収まる方がいくらかマシだった。

 心から色が抜け落ちる。

 握り締めた柄に赤が染み渡る。



 月明かりさえも、雲で陰りはじめ草原はやがて闇に染まり行く。

 アダダーラの頭部は夜の闇に紛れてしまった。まだ反転しきれていない大蛇の全貌はもはや微かな光では視認できない。


 私はそれを見る事しか出来ない。


 牧師連中にこの悲劇を見せつけてやりたい。

 このような悲劇を産み、なおもただ空を見上げるあのトカゲが、どうして神たりえようかと。


 くだらない。


 気まぐれに救われて、祀りあげて。恥ずかしいとは思わないのか。己が命を得体もしれぬトカゲの気まぐれに委ねるなど。

 おおよそ正気な人間の選択でない。


 ああ、忌々しい。


 どれだけ憎もうと。

 どれだけ蔑もうと。

 あのトカゲにも、アダダーラにもこの情動は理解出来ぬだろう。

 だから奴らは畜生なのだ。


 そして、それに弄ばれる人間は、私は、何と矮小で惨めなのだ。



 騎士でなかったならばとは思わない。


 だが、だがこんな劣等感に苛まれるのならば、凡そ私の人生というものは誤りであっただろう。何処がで致命的に間違えたのだ。それに伴って全ては泡沫のように消えてゆくのだ。大海の水底にてある戦友達を死してなお、辱めることとなったのだ。


 バラン大森林の覇者。

 アダダーラ。

 蛇。

 畜生。

 情を知らぬ生きるだけの屑。

 膨れ上がるばかりの肉袋。



 この生命に賭けて、貴様に怨嗟を。


 アンリルにて、座すばかりのトカゲよ。

 今ばかりは祈ってやる。


 此奴に、苦痛に塗れた死を。

 三ツ目が恐怖と絶望と後悔に染まり、第二の生を拒むほどの死を。

 アレに与えたまえ。






 願いが届いたかは定かではない。


 だが、事実としてアダダーラは完全に静止した。


 静止する直前、突如として加速した巨体は砂塵を巻き上げながら、地面の摩擦で緩やかに減速、その後に静止した。


 一体何が起こったのか。


 それは全くもって夜の闇に紛れて見えない。


 背後からは馬群の轟音が地面を伝い鳴り響く。


 月を隠していた雲が晴れてゆく。


 そこに映っていたのは、


 胴体と分離したアダダーラの頭部。


 そして、その上に立つ何者かであった。


 月明かりのか細い光では詳細は見えず、ただ荒く肩で呼吸をしながら剣に身を預ける。

 アダダーラを両断した英雄にしては酷く不格好であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る