怒りにて、我を失った蛇はうねり、猛り、そして轟音と共に砂塵を巻き上げ確かに傷ついてゆく。

 沈黙の騎士、レイ・フィッチ。

 彼がそう呼ばれる理由が、彼のその本領がそこにある。帝国東方常備軍の将であり、血槍のレンベル、その懐刀である彼。まだ若い彼が喫した敗北は短い生涯においてただの二度。

 1度目はまだ右手があった頃のレンベルに。

 2度目は御前試合で16代、つまり先代のグローリア・グローリアに。

 帝国が誇る、もはや人を超えた英雄達を前に地を舐めた。以来、彼は秀才であった。天才に及ばぬ、凡人の到達点であった。それはレイ・フィッチ自身も認める事実である。


 だが、世界に轟く英傑であることも事実なのだ。特に1対1、決闘においてはその名を知らぬものはいないほどである。そしてそれは何も、対人間に限った話ではない。

 レイ・フィッチ自身は気付いていないが、単純であるが故に彼の異能は、時として人間より獣に有効である。

 それはこの場に置いても、正しく機能していた。

 ここまでは。



 三ツ目の大蛇が後方へと少し、ほんの少し後ずさる。かの騎士を忌々しげに見つめる眼は鋭く、ただの市民などが見れば失禁する程であった。

 目と目の合間、三角状の頭部から滴る血は今どちらが優勢かを如実に表していた。


 しかし、一時の恐怖を忘れた大蛇は、今やバラン大森林の覇者としての威厳、冷静さを取り戻しつつあるのも確かである。


 この大蛇にそこまでをさせて、そこまでの手数があって殺しきれていないのがレイ・フィッチとも言えよう。決定的な一撃を欠いていた。


 彼は柄を強く強く握り締めた。紛れもない焦燥感がそうさせた。手数で出血死を狙っていた訳では無い。己の全てをあの脳天をかち割る事だけに駆使した。

 だが、現実はそレに伴っていない。

 その現実に得もしれぬ違和感を拭いきれない。


 確かに叩き込んだはずなのだ。全ての打撃は1点、初撃を叩き込んだあの眉間へ。だがその全てが僅かにそれ、浅い傷口だけが増えるばかり。

 攻めているはずなのに、精神的優位は全くなかった。いくら敵が獣畜生であるとは言え、何時までも訳ではない。いつしかやつの頭に昇っていた血は落ち着いてしまった。後退し、こちらを伺うアレは本来の賢さの片鱗を見せていた。こうなると苦しくなってくる。だからこそ、早くに決着をつけねばならなかった。


 だが、ここで何を言おうと無駄であるからしてレイ・フィッチは大地を蹴りあげるのだ。

 ただ1点、その頭蓋を粉微塵にすることだけに精神を尖らせる。


 刹那。

 達人が事前に知った上で、集中してようやく、分かるような極微細なブレ。

 それの後にレイ・フィッチは跳躍する。巨体のそれに対して頭部を狙うとはこれほどまでに無防備にならねばならないのだ。

 アダダーラからすればあまりに明確な隙。

 だがそれによってこの体は傷つき、決して少なくはない血が失われたのだ。

 アダダーラはこの時、この戦いにおいて初めてそのあまりに無防備な攻撃を無視した。これを構っていて傷を負ったなら、これは無視すれば良い。そのような単純明快な答えを弾き出した。


 アダダーラはその三つ目を独立して動かす。目の前のこれが斬りかかる時、何が起こっているのか。それを見逃すことのないように。


 数秒にも満たないこの時間。


 この瞬間において明確に流れが変わった。


 結果として。


 この場。


 この戦いの支配者は。


「ーーーーーー!!!!」



 依然として、レイ・フィッチであった。


 跳躍した勢いのままに、自由落下を伴って右上段から大剣を振り抜く。アダダーラの硬い鱗とぶつかり、異様なまでの轟音が響く。レイ・フィッチを見ていた中央の目が鈍痛に歪む。


 アダダーラの脳天に叩き込んだ一撃は正しく渾身のそれ。アダダーラの読み、賭けを、レイ・フィッチの勝負感、そして経験が上回った。


 とった。


 その一撃をもってレイ・フィッチは確かにそう思った。決して油断はしていない。ただ経験からくる直感としてそれを認識した。

 だが、その一撃もまた僅かに狙っていた点からずれているのだ。ここまでくると偶然や己の疲労では済まされない。何かがおかしい。彼は得もしれぬ違和感は確信へと変わった。アダダーラは何かをしている。


 そして、両者が引き下がる。

 アダダーラは困惑と脳に響く痛みから。

 レイ・フィッチは迫りつつある体力と精神の限界、そしてアダダーラの奇妙な何かについて、考える猶予のため。


 前半のような過激さはなりを潜め、何時しかこのような間合いが増えていた。レイ・フィッチにとってそれは好都合であった。もとよりこの騎士、ひいてはこの場の東方常備軍の目的はこの獣共の足止め。穢らわしいグリゴリ教などでは、人類の試練ともされるそれに対する肉壁。無論それを壊滅できればそれに超したことはないが、我が軍の現状を考えるともはやそれも叶わない。木っ端の獣共はもう内地へと、ガーザへと向うだろう。

 ならば、アダダーラを殺す。それが出来ずともできる限りの足止めを行うことこそ、現状の最善手であろう。

 だから。

 だからこそ、アダダーラの…おそらく異能であろうそれを看破出来ねば、我ら東方常備軍は敗軍の屈辱に沈む。それだけは許されない。


 意外にも、アダダーラにとってもこの間は有意義であった。鈍痛が響く頭で、目の前の敵を、先程の一撃を、己の損傷を、背後に感じていた恐怖を、、考え、勘定する。

 そして、答えを導き出す。

 己の獣としての答えを。


 そこからは早かった。


「…貴様ァァッ!!!」


 レイ・フィッチは叫ぶ。己の2つ名に似つかわしくない、喉が焼ききれる程の咆哮であった。


 やはり、全くもってレイ・フィッチとは騎士であったのだ。獣を狩る狩人でも、武の求道者でもなく、誇りと信念からなる騎士であったのだ。


 だからこそ、この死地にあってなお立てたのだ。

 だからこそ、仲間の最後を見届けたのだ。

 その先にある栄誉ある死、ないしは誉れを約束されていたから。



 レイ・フィッチのそれを嘲笑うかのようにアダダーラはバラン大森林へと、その巨体を滑らせる。


 獣としての当然はレイ・フィッチへの最大の侮辱に他ならなかった。

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