廃墟の街 ロド
ズチャリ。
ズチャリ。
何で濡れたかすら分からない大地を、愛馬が踏み締める度にその音が耳に刺さる。
ズチャリ。
グチャ。
ズチャリ。
ズチャリ。
バキッ。
ズチャリ。
赤い泥と土埃の感触が心を蝕む。
「また、来るといい」
そう言った、心優しい男の事を思い出した。
「ラルフ!!!」
そう叫び、我が子を抱く母の事を思い出した。
「本当?!母ちゃん怒んない?!」
そう言って、目を輝かせた少年を思い出した。
眼前に広がる石造りの壁。
堅牢であるはずのそれはUの字に崩落していた。
その先にあるはずの平穏は夕陽と共に土煙で覆われた。
あれだけ穏やかだったオレンジ色の空が紅蓮に染まる。
ズチャリ。
ズチャリ。
ポクポク太郎は2日も走り続けた。
こんな芸当は他のどんな騎獣でも無理だろう。
事実上、最短で走り抜けた。
恐らく、エインリッヒに言われたあの時から最善を尽くした。
だが、それでは不十分なのだろう。
ぽっかりと空いた穴を埋めるには才能が、情報が、人脈が、あるいは全てが足りなかった。
活気のあった都市、ロドはもうそこには無い。
分かっている。
今これだけ近付いて尚、地面とも言い難い、この血肉の平原を踏む音しか聞こえない。
劈くような悲鳴も獣の雄叫びも何もない。
煌々と燃え盛る炎は灰色の腕を天高く伸ばす。
真っ直ぐ、それでいてゆらゆらと弱々しく、伸ばし続ける。
もはや急ぐ意味など無いのでは無いか。
そんな考えが一瞬過ぎる。
だが、直ぐに捨て去った。
それは英雄の所業とは言い難い。
手綱を強く、握り締める。
しかし、身体は悲鳴をあげている。疲労と寝不足から来る無重力感が意識を彼方へと捨てさろうとする。
腰の小袋から取り出した小瓶。
これで二本目だった。
覚醒作用のあるどろりとした液体を飲み干す。
本来なら眠気も疲労感も、一時的に無いものとしてくれるそれですら、気休めにしかならなかった。
小瓶を捨てようと、開きかけた手を止める。揺れる馬上で、小瓶を見つめる。
そこに写るのは汗と泥と血にまみれ、獣のように固まった黒毛のヒト、そして散乱する光。
どろりと濁った目が此方を覗く。
実際にはほんの少しだったろうが、俺は凄く長い間そうしていたように思う。徐に瓶を鞄にしまった。割ってしまわないように、気をつけながら。
俺はもう1つの小瓶を開けて飲み干した。
明らかに身体を蝕むその味と嚥下したときの不快感で身震いが起きる。
もう目を背けるのは嫌だ。
何度も何度も折れ、迷い、そして、逃げてきた。
だが、もういいだろう。
その為の誓いだった。
逃げるための小手先でも、自暴自棄になってやった訳でもない。
己を律し、英雄として正しく生きる為であった。
誓いに背を向け、陰を行こうとしたその時、アンリルの龍、その供物として終わる為であった。
アンリルの龍が我が道を照らし続ける限り、走る為であった。
夕陽に燃え、獣共に嬲られ、微かな生命の灯火すらも泥に塗れ消えゆく都市、ロド。
ポクポク太郎がその崩れた壁の上を飛び越える。
すまない。
あの喧騒も、あの暖かさも、あの地での食事も、全てはこの身に、刻みこもう。
この静寂を、この孤独を、この砂埃の食感をこの心の礎としよう。
鼻腔にまとわりつく煙が、圧死した少女の亡骸の足跡が、脳漿を撒き散らす鉄の塊が、ただ一直線に向かう蛇行した跡が、背中から囁く。
「お前のせいだ」
誰かが殺した獣も、獣に殺された人も丁寧に、丁寧に避けながら走りゆく。
目的地はもはやロドでなく、この跡の先にある。
だから俺はまだ走らねばならない。
そんな時だった。
目が合った。
地に伏し、両の眼をこちらに向け、半開きの口から血を垂らすその姿は悲痛なもので、込み上げてくるモノがある。
何より、その女性には見覚えがあった。
その口が微かに動いた瞬間に相棒から飛び降りていた。かなりの速度で走る相棒から宙に浮いた身体は当然枯れ草のように転がり、粉塵を撒き散らす。
投げやりな受け身で無理矢理身体を起こして走り寄る。
その女性の体に右の腕はなく、滴る血で周囲は赤く染まる。ゆっくりと身体を起こす。
「エリィさん!エリィさん!しっかり!!」
彼女の顔にはもはやあの優しげな表情はなく、苦痛に塗れた酷く不気味なものだった。
虚ろな目はもはや俺の目を捉えておらず、赤く滲んだ空を見るばかり。口も微かに動かすばかりで呼吸なのか、はたまた何かを伝えようとしているのか、それすら判別がつかない。
彼女は小刻みに震える左手で獣の死体でできた山を指さした。その後にまた微かに唇が動くが、それよりも先に虚を映す目から鮮やかさが奪われた。
エリィさんを静かに横たえると、獣の死体の山へと走った。急に止まることが出来なかったポクポク太郎も歩いて戻ってきていた。相棒は静かにエリィさんの亡骸を見つめていた。
獣固有の香ばしい匂いに血と腐敗した何かの匂いが混ざり、気を抜くと吐きそうな悪臭が立ち込めるそれは恐らく、守衛達の抵抗の証であろう。
1箇所不自然に盛りあがるそれ。
狼に似た獣の骸を退けるとその正体が顕となる。
同時に耐え難い悪臭に拍車がかかる。思わずえづき、その口を手で抑える
「エリィさん…」
それは子供達の骸であった。
この悪臭に耐えかねて吐いてしまった子や失禁してしまった子それが重なり、おぞましい塊となっていた。
ここの人々はもはや逃げることも出来ず、また隠れることも困難であったのだろう。だからこの醜悪な山に全てを託したのだろう。獣の死体の中であればもしかしたらと愛する子を閉じ込めたのだろう。
出来れば、その際に子供達の骸は使われなかったと信じたい。死して、子供達の死が冒涜されるなどあって欲しくない。まして、それで生き延びた命があった時、彼等は歪な英雄となるのだろう。このような小さな身体にはそれはあまりに大きな荷物であり、そのようなものを持っていてはアンリルの太陽の元へと飛び立つことは出来ないだろう。
だが、現実は非情であるのかもしれない。
ただ2人のみ生きていた。
子供達の骸の奥底で、虚ろな目で抱き合い、ただ震えるばかりの小さな、命であった。
生き延びた、それが幸であるか不幸であるかは分からない。
だが、このような最後を良しとする事は出来なかった。
この死のゆりかごから2人をそっと抱き抱え、しばらくそうしていた。
悪臭も、子供達の服にかかった汚物も何も気にせずそうしていた。
両の肩から嗚咽が漏れた時。
心の底から安堵した。
これが地獄であること。
悲しいことであると理解出来る、その感性もまだ生きていた。
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