信念が為に
「そうか」
エインリッヒはポツリとそう呟いた。
どこか哀愁を漂わせ、小さく笑って。
まるで少年のようなその顔に少し罪悪感すら覚えそうになる。
少しの間沈黙が停滞し、エインリッヒはただ空を見上げていた。彼は良く困ると空を見上げる。その理由を聞くと下を見るのは僕の仕事じゃないからねと訳の分からん答えを返した。
長いため息の後に、ようやく彼はその口を開いた。
「はあ、まったく…。アンリルの龍にまで、誓いを立てられたら僕にはどうにも出来ないじゃあないか」
「そのためにやったんだからな」
エインリッヒはやれやれとでも言わんばかりに溜息をつく。俯くその顔は見えない。
こいつにはしてやられてばかりだった。だからこそ少しいい気分だった。
そんな和やかですらあったその場の空気は、エインリッヒが顔をあげることで一変した。
「ヒンツァルト」
その一言とその表情だけだ。
変わったのは。
それだけで空気が張り詰める。
喉の奥がきゅうっと狭まる。
こいつは、馬鹿だ。
クソ野郎だ。
俺のストーカーもどきだ。
だが一国の王族であり、ヒトの上に立つ、その資格を有する人間でもある。
それを確かに感じさせる様な威圧感であった。
「もはや説明すら惜しい」
「帝国が都市。ロドへ行け」
その言葉には困惑しか無かった。
何故ロドなんだ。
異国の地である以上、エインリッヒが何がすることも難しいだろう。
こいつが意味もないことを言うことは…割とあるけれど今はそういう雰囲気じゃない。
一体何故。
数秒の硬直を彼は許さなかった。
荒げることなく、ただ重さだけを増したその声で言うのだ。
「貴様が立てた誓い。それが偽りで無いというならば行け」
その言葉で理解し、走り出す。
「分かった。ありがとう」
最後の方は聞こえてたかは分からない。
エインリッヒの傍を走り抜けながらの言葉だったから、多分聞こえてないだろう。
だが、感謝は後でもいい。
俺の事も後回しにしやがったアイツを優先することは無い。
この後ぬくぬくとアフタヌーンティーと洒落込むであろうあいつよりも。
救わねばならないヒトがロドにいるのだろう。
だから駆けるのだ。
ヒトの為に。
俺の為に。
☩
街の裏路地にはそぐわない男が1人佇む。
ほうっとつく息の音すら聞こえてくるかのような、そんな静けさの中で、喜びのような、悲しみのような、そんなどうとでも取れる表情のまま。
「…ありがとうか」
噛み締めるようにそうポツリと呟いた。
幾許かの静寂が訪れる。
この場に彼の静寂に水を差す者もなく、彼がそれを嚥下するまではその場の時は凍りついたままだった。
当然、その静寂を破るのも彼であった。
口角を吊り上げ、ふふっと声を漏らす。
笑顔と言うには些か邪気のあるそれを彼の英雄が見たらなんというだろうか。
罵声である事だけは議論するまでもない。
それを気にしてか彼は左手で口元を覆う。
そして、彼は動き出す。
コツコツと品のいい音を立てて裏路地の奥に進んでいく。
家や店の裏であるから、ゴミ袋やら使い古した家具やらが散乱している。その中から時折、虫や鼠が音を立てて逃げていく。
そんなものにも気を止めず彼は歩いた。
石で舗装された道でありながらも、掃除が行き届いていないからか、品の良い黒革の靴が土に塗れ、薄汚れる。
それすらも気付かず彼は歩いた。
上機嫌であるのか、はたまたこの程度で取り乱す程、矮小な器では無いのか。
一際大きな影が、目の前に投棄された棚から現れる。それは棚の影から出ることはなく、目の前の彼に、見向きもしない彼にただ告げた。
「王がお呼びです」
彼が次の一歩を踏みしめる時にはその影はもうそこにはなかった。
彼は立ち止まり、その影をただただ見つめていた。
しかしそこには、腐食の始まった棚と苔でまばらな緑となった地面があるだけ。繰り返すがそこには虫一匹いない。ただの物陰である。
見下ろす形であったからか、不意に薄汚れてしまった自身の靴が視界に写る。
だが、写っただけ。
また1歩。
さらに1歩と歩み始める。
彼の脳裏に汚れた靴が浮かぶ。
しかし、眼前にはまだ裏路地が続く上に、王城へと繋がる地下通路も綺麗な道とは言い難い。
ここで綺麗にしたとして、無駄である。
そんな事は分かっていた。
しかし彼は蹲り、左のポケットから純白のハンカチを取り出し、その土を拭った。
艶やかな黒が顔を出す。
少し満足気な顔をした彼はハンカチを払い土で汚れぬように内にくるむようにしてポケットにしまう。
そして、歩き出す。
☩
「おいおい、こりゃ一体…」
男が家の裏で目撃したのは、固まった地面、ゴミ、鼠、野良犬。裏路地にある全てが静止した静寂の世界であった。
今は秋である上に、この環境が生まれるような寒さになることはなく、まして今日は肌寒い程度。
明らかに異質であった。
男は呆然とし、ある種の恐怖すら抱いた。
だが、同時に幸運だとも感じていた。
この光景を作り出せる魔術師はこの国にただ一人。
傍若無人。
傲岸不遜。
高貴なる血に愛され、神の寵愛を受け、それでもなお満ちぬ強欲の人。
飢渇のエインリッヒ。
彼の魔術は何もかもを奪う。
命も、熱も。
「ああ、やっぱり」
男がが手に取るのは裏口のノブに張り付いた50ガロン紙幣。
固まった大地は放っておけばよく、ゴミは元から捨てるもの。強いていえば鼠と野良犬の亡骸の始末のために役場に連絡する。その程度のことに対しての謝罪金にしては多い。
むしろ、路地裏の畜生共を片付けてくれたともとれる。
上機嫌となるのも無理はない。
彼の奇行は珍しくない。
王としての器ではないと誰しもがそう考える。
だが、民草には愛されている。
興味を抱くもの、気に触るもの。
彼にとってのそれらになるという事は確かに災厄である。
だが、その一方で彼はそれら以外には慈悲深い。
おそらく、後日彼はここにやってくる。
そして、悪かったな、怪我をしたものはないかと笑うのだ。
故に民草はこう答えるのだ。
「まあ、こんくらいなら別に構わんさ」
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