ヒトの守り手

 あの部屋から出て、俺は歩き慣れた裏路地を密かに歩いていた。息を殺して、自分を消して、裏路地の薄暗さに溶け込んだ。


 あの瞬間、なけなしの信頼が融解したあの瞬間。俺はあの瞬間が来ることを何処か知っていたのだろうか。そう考えるくらいには、心が落ち着いていた。


 ガルラードに対する、煮えた欲望も怨恨も怒りもなければ、エンディに対する憎悪も嫉妬もなかった。神獣種に相対していた恐怖も死の淵にしがみつく絶望も何もかも無いでいた。


 ほうっと息を着く。

 息はまだ白くならない。

 まだ、冬は来ない。


 通路の脇で何かが死んでいた。

 もう既にカラスが啄んだ後で何かは分からない。

 それを見て、可哀想だなと思った。

 少し、気分が落ち込む。

 こいつは餓死したのだろうか。

 それとも酔っ払いに蹴り飛ばされたのか。

 誰にも見られない路地裏でひっそりと一生を終えたこいつは幸せだっただろうか。

 そんな事を少しだけ考えて、視線を外し、前を歩いた。


 少し歩いて後悔した。

 だから俺は救われないのだと気付いて、自嘲気味に少し笑った。


 俺は所詮ヒトなのだ。

 俺の心は、思想は、ヒトなのだ。


 そこにあるのは子供じみた滑稽とすら形容しがたい目標、いや願望であって、獣よりも度し難い、傀儡とも言うべき有様である。


 あの旅も何とも短くくだらない旅路であった。駄々を捏ねる子供のように飛び出し、叱られ、恐れられ。


 何とも、何とも馬鹿馬鹿しい。


 子供の家出の方が死者が出ない分まだマシだ。


 何時からだ。

 何時からこんなにも息苦しくなったんだ。

 藻掻いても藻掻いても、一人、二人、三人と俺の足を掴んだ。

 その手を蹴ることも出来ず、水面から落とされる石に耐え、藻掻いて、藻掻いて。


 誰も教えてはくれなかった。

 その手を蹴落とさねば死ぬと。

 石を投げ返さねば降り注ぐと。


 誰に言われずとも知っていた。

 英雄はその手を引き上げると。

 英雄はその意思すら抱えて浮かび上がると。


 ならば俺は死ぬしか無かった。

 英雄にもなれない、ヒトにもなりたくない俺は狭間で揺蕩う泡沫のように呆気なく消えるだけであった。そうあるのが正しかった。そうであるならば幾分か「幸せ」でもあったのやもしれない。


 だが俺は逃げて、悪戯に時間を浪費して、また沈みゆく。こんな喜劇があっていいのだろうか。


 ただし、ただ一つ。

 この旅路が無駄では無かったことを証明するものがあった。それを「幸せ」と呼ぶかは分からない。絶対的ならば不幸である様に感じるし、相対的ならば充分前より幸福であるだろう。

 もはやただ一点、曇りなきただ一点それだけが残った事を俺は紛れもない意義のように思った。そう、思い込んだ。


 高く、ただひたすら高く聳え立つ塔から、俺の中の大切な何かが音を立てて落下したのだ。

 それがどうなったのかは俺にも分からない。

 ただ、全てが元に戻る事はないのだろう。





 日陰ゆえの湿度と底冷えする寒さに不快感を抱きながら物音一つ立てず、茶色に塗られた大きな商館へと歩いた。

 この真っ昼間にわざわざこんな路地を歩く奴なんて疚しい事があるやつか俺ぐらいなのだ。だけれども、俺はただ一つを警戒していた。


「やあ、ヒンツァルト」


 ああ、そう。この男を。


 物陰から声を掛けるその男は金の刺繍が入った黒のスーツを身に纏い、爽やかに笑って見せた。その笑顔や軽く挙げる手、佇まい。その全てが計算されているようなそんな不気味な美しさがあった。

 それを俺は本能で拒絶していた。

 凪いだはずの心においても不快だった。

 この湿度より、寒さより、獣より。


「何の用だ。エインリッヒ」


 その銀の髪、青い目。

 高貴なるものに与えられる福音。

 この国においてほぼ全てを与えられた男。

 それでなお、全てを手に入れんとする男。

 エインリッヒ・ヴォー・ガルデモ・アルモンテ。

 またの名を。

 飢渇のエインリッヒ。

 この国の王位継承権第二位たる第二王子その人である。


「冷たいじゃないか。門出を祝いに来たのに」


 内心の焦りを、驚きを努めて隠した。

 これだから嫌なんだ。

 こいつと話すのも、関わるのも。

 どうせ全てが筒抜けであると分かっていても、こいつの思い通りに動くことが嫌だった。


「帰ってきたのに門出って。何においても一足遅いからお前はダメなんだよ」


 そんな精一杯の皮肉をぶつけようとも顔色一つ崩さない。それどころか笑みは深くなるばかりであった。


「ふふ。ごめんね、ずっと傍に居られたら良かったんだけど」


「そうすればティエリーと喧嘩もしなかったかも」


「抜かせ」


 吐き捨てた言葉も睨みつける眼光も彼の思考すら乱すことは出来ない。ただ薄ら寒い笑みを深めるばかりであった。


「ヒンツァルト。僕の英雄。」


 そう言ってにこやかに俺の前へとゆっくりと歩み寄る。右手で剣を握るのも当然であった。

 それを見て満足そうに頷くこいつがたまらなく気持ち悪く、後退りする気持ちが抑えきれない。

 近付くに連れて、彼の眼光の奥底で冷たく鈍い何かが光るのが見える。

 一歩。

 また一歩と踏み締める。

 それだけの事なのに目の前の少年は迫力を増していく。

 一歩。

 また一歩と近付く度に体の横を冷たい風が撫ぜる。西に傾く太陽が彼の背に隠れてゆく。


 太陽が、光が奴を照らし、俺から隠れた時、その歩みは止まる。


「我が剣となることを許そう」


 もはや俺から彼の表情は見えない。

 冷たく光る青い眼のみがこちらを突き刺す。


「我が剣となれ、ヒンツァルト」


 一瞬鋭くこちらを見据えたその目に気圧される。

 俺と奴とで身長の差はほとんどない。

 にも関わらず、この場で下は俺で上は奴だった。


「貴様の道を私が照らそう」


「ヒンツァルト、ヒトを守護する者、虚構を狩る者、稀代の英雄」


「私と共に来い」


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