賢しき者

 また、やってしまった。

 ヒトと生きると決めたあの時から、長い長い月日が経った今でもまた、こうして人の夢を踏み躙っている。

 何とも皮肉な話だ。

 かつて変化を拒み、個を軽視したと私の間に寸分の違いなどなかった。

 目の前の彼の悲痛な叫びは鋭いナイフように、私の心を抉る。紡がれる全ての訴えが私にとっての凶器に等しく、それから逃れることは決して許されていなかった。


 いつからだ。

 私はいつから人の痛みを仕方の無いものだと割り切るようなヒトになってしまったのだろう。


 ああ、教えて欲しい。

 誰でもいい。

 誰か私に教えてくれないか。


 私はどうすべきだったのだ。

 私はどうあれば良かったのだ。


 分からない。

 答えが出ない。


 それは当然かもしれない。


 私は、私は確かに感情ではこれまでの行為に後悔しているのだ。だが、それでも理性の部分では間違ってないと、最善であったのではないかとそう、納得しているのだ。


 王は彼の存在を公にする事を良しとしない。それも一理ある。帝国は人道的配慮やら経済制裁やらを盾に神獣種対策を王国にぶん投げて来るに違いない。そして連合国かラフラーリア王国との戦争を再開するのだろう。

 それらはヒッツも望んでいるわけもなく、彼も大暴れしながらも最終的に理性で条件を呑んだ。


 そして、今回を含め6度の神獣種の進行を防いだのだ。十分英雄に相応しい功績であり、王も褒め讃えた。報酬も弾んだ。側室の娘すら下賜された。名声に変わる全てを私達は彼に与えてきた。


 だが、彼の顔が晴れることは無かった。それどころか第二王子のボケが発言してからは憔悴仕切っていた。

 その状態を改善すべく、彼の居住地を用意し、彼には今まで以上の報酬を与え、彼の買えないもの全ての提供も行った。


 本当に名声以外ならば彼は全てを手に入れたと言っても過言ではなかった。しかし、彼は仕事の度に傷付き、閉じこもるようになった。さすがに不味いと判断した私達は事情を知る貴族達に根回しして彼を公表する手筈を整えていた。


 そんな中での逃亡劇だ。


 遅かったことは認めるが私にこれ以上何が出来たというのだ。貴族に大してならまだしも一般大衆の行動全てを制限など出来るはずも無い。噂を本気で消そうとする行為自体かなり無理がある。そもそも彼等を傷付けることは私もヒッツも、大衆も全員が不幸になることだった。

 だから、本当に出来る手は尽くしたのだ。それは紛れもなく彼の為に、身を粉にしたのだ。

 文句があると言うならば背中でもさすれば良かったとでも言うのか、あの英雄に。

 そう、叫びたくなる。全てを投げ出して、彼に吐き散らかせたら、どんなに良かっただろう。


 当然そんな事は出来ない。

 感情で判断する時、人は後悔する。

 だが、理性で判断する時は全てと言わずとも正しさがそこにある。どちらを優先すべきか、私には明白で、それ故に私は全てを飲み干すのだ。


 彼にはいてもらわなければならないのだ。

 私にだって愛する人達がいる。

 もう随分大きくなったが子供も居る。

 孫だってもうすぐ見れるやもしれない。


 どうしようもないバカもいるけれど、それすらも守ろうとするのが私の仕事であった。



 彼の眠る地を守らねばならなかった。


 そのためには。


 彼へのこれまでの態度、彼の心理的、進退的負担、私への不満は尽きないだろう。それくらいは流石に理解していた。同時に多少の好意も、理解していた。


「…ねえ、ヒッツ」


 もはや私が彼に与えられるものもそう多くはない。


「私にどうして欲しい?」


 私はこの国の狩人組合の長で、神獣種に対する最高責任者で。

 この国を守る責務があった。

 心から守りたいとも思っていた。

 だから。


「何だってするわ。それで貴方が残ってくれるなら」



 この身を捧げることすら厭わない。



 ☩


「何だってするわ。それで貴方が残ってくれるなら」


 何を言っているのだろう。この女は。


「…名前の公表だって、少しずつ目処が立ってきたの。だから、本当にあと少し、少しでいいの。耐えられない?」


 こいつは俺の何を聞いていたのだろう。


「そのためなら本当に何だってするわ。その、あんまり人道的出ないものは難しいかもしれないけれど…」


 思考が溶けてゆく。

 どろどろになったそれでは何も考えられなかった。


「…なあ、本当に何でもするのか…?」


 目の前の女は何かを耐え忍ぶようにゆっくりと呼吸する。右肩を掴む左手は小刻みに震え、頬は固い。







「…じゃあ」


 その言葉に奴は目を閉じた。

 信頼が熔けてゆく。












「俺の目を見ろよ、ガルラード…」


 その声に目を見開いたガルラードは徐に目を合わせた。怯えきった目をこちらに向けた。


「正直に言ってくれ、ガルラード」


 困惑と覚悟と恐怖と、綯い交ぜになった彼女の心中を察することなど出来はしなかった。出来ていたらこうならなかったのだろう。


 まるで怪物の生贄となったような彼女に問う。





「俺が怖いか?」


 もう嫌だ。

 何度目だ。何度涸れたと思えども、これが溢れることを知らない。これが俺がこの8年間で得たものなのか。

 あまりに空虚だ。

 悲劇だよ。


 まるで俺が悪者じゃないか。

 どうしてなんだよ。

 やってる事が間違ってるのか?

 馬鹿言うなよ。これ以上どうしろってんだよ。


「ねえ!違うのヒッツ!!」


 その言葉に思わず笑ってしまった。

 ぐしゃぐしゃに笑ってしまった。


「何も違わねえよ、ガルラード」


「何も、何もだ」


 ガルラードが何かを叫ぶ。

 何を言ってるのかはもはや頭に入ってこなかった。もう彼女の言葉を信じることが出来なかった。


 ただただ、外へと繋がる扉に歩みを進めた。


「ヒッツ!!ごめんなさい!ごめんなさい!!でも貴方を助けたい思いもホントなのよ!!」


 裾を掴まれても止まる事はしなかった。


「ヒッツ!!ねえ、ヒッツ!!!」


 抱き止められても歩み続けた。


「お願いよ…この国を守って…」


 啜り泣くその声で歩みを止めた。


 もはや止めることを諦め、項垂れる1人のか弱い女のその声に歩みを止めた。

 もう扉は開かれている。

 澄んだ秋の晴れ空が青々しい。







「守るよ」


「守るさ」




「それが英雄ヒーローなんだから」



 扉の前にもう。


 ヒンツァルトはいなかった。

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