悪夢

 目を覚ますと、見慣れた天井が広がっていた。

 床に脱ぎ散らかした衣服と角に溜まった埃、空きっぱなしのクローゼット。その全てに嫌な見覚えがあった。


 ゆっくりと柔らかなベッドから身を起こす。身を包む毛布は冷え始めたこの季節に相応しい穏やかな温みで、少し離れがたくもあったが、仕方なく隅に追いやる。


 頬を風が掠める。その冷たさで少し身震いする。

 ふと思い出して、身体を見回すと至って健康体であった。あの光は過程こそおぞましいが、効果だけは確かだ。だからこそタチが悪い。


 ベッドに腰掛けるようにして座ると、いつのかも分からないシャツを踏んでしまった。

 ぼおっとそれを見る。

 ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと息を吐く。

 まだ白くならない吐息は埃だけを吹き飛ばす。


 歯がガタガタと震え出す。

 あの時確かにあった全能感はもう既になく、ただ現実がそこにあった。


 足をベッドに上げて、毛布を頭から被った。

 そこは孤独の世界。


 誰の目にも触れず、誰にも責められない暗闇の世界。ここだけは恐怖も怒りも憎しみも流し出すことが許されていた。


 この世界には俺しかいないから、英雄だって必要なかった。


 息苦しさと目から溢れ出た塩味だけが自分の生を肯定して、それ以外の全てが自分の生を否定した。いや、全ての生を否定していた。


 そうしてどれほどの時間が経ったろう。

 繭から羽化する蝶のように、努めて健全である風を装って毛布を投げやると、空きっぱなしの戸から人影が見えた。


 整ったはずの身体がドロドロに融解する感覚に襲われた。意味もなく拳を握りしめてしまう。頬を伝う汗は感情をよく表現した。


 寝室から見えるリビングの椅子に腰掛けていたそいつは秋風に銀の髪を靡かせ、物憂げに紐に括られた紙束を捲る。


 俺は焦燥感と羞恥心に駆られながらも、その光景を美しいと思ってしまった。

 異種族とのハーフで偏見も多いものの、彼女の白百合のような儚い美しさは周知の事実である。そんな彼女の何気ない日常の一部分。

 揺れる銀の煌めき。

 白磁のような指先。

 薄く開いた翡翠の眼。

 絵画のようなその穏やかな光景を俺は見蕩れてしまった。

 だが、それは耐え難い屈辱でもあった。劣等感と醜い嫉妬に俺の心は腐りきった果実のようにドロドロと崩れ落ちていく。


この女にどんな扱いをされてきた。ああ、思い返すだけで吐き気がする。

なのに彼女のその外見に、少しでも絆される自分が果てしなく俗物的で、惨めだった。そして、何よりも傍に居てくれたのかなんて。少しでも思ってしまうのがたまらなく嫌だった。孤独と己の醜悪さを露呈していた。


 そんな自分が嫌だった。


 1度深呼吸して、寝間着の裾で汚れた顔を乱雑に拭う。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて、ゆっくり、ゆっくりリビングへと歩みを進めた。



「…人の家で何してんだよ」


 彼女は一瞬だけ資料から目を離し、彼の目を見た。


「その前に組合の寮よ。それにヒッツ、貴方辞表出してるじゃない。だからここは私の管理下で、貴方はお客さん」


 そう言って彼女ははらりはらりと紙を捲る。

 ぐうの音も出ない正論だった。

 愚鈍な頭脳は一切の返答を導くことが出来なかったただバツの悪い表情を浮かべ、床を見るばかりで、ただ、そよ風が凪いでいく。


 沈黙をやぶったのは当然だが、ガルラードだった。紙の束を置いて、湯気の立つマグカップを傾ける。そして、ゆっくりと息を吐くように語り出す。


「…冗談よ。辞められたら困るのはこっち。これ、破いてもいいかしら」


 そう言って俺が受付嬢に渡した辞表を取り出した。丁寧に管理されていたのかシワ一つ増えていない。それで一つの結論に達する。


 ああ、そうか。


 ガルラードはその中身を見もしなかったのか。


 それが絶対に帰ってくるという俺への信頼なのか。はたまた、絶対に連れ戻すという決意だったのか。その真相は俺には分からない。


 何れにせよ、俺をまだ活用する気なのだ。

 俺の環境も、俺の辞表も何一つ変わらずこの王都に存在していた。


 ガルラードが辞表を破けば、俺はまた彼女の元で働くのだろう。

 人々を救い、貶され、文句を言う。

 バケモン倒して、王に褒められて、時々暗殺されかけて、時々感謝されて。

 客観的に見てそれは良い人間だった。

 自己の犠牲により、他者を救い、誹りを受けようとも他者を傷付けず、ただ善行に勤しむ。

 最高ではないけれども、高い標準で模範的英雄であった。

 そして、俺は英雄になりたかった。

 確かに俺はあの獣とやってそれを再認識した。

 人生を捧げてもいいほどの夢だと、自分でわかっていた。

 だから俺は多分、それを破いて欲しかった。


「……だめだ」


 でも、口はそう動いた。

 本能が拒否した。

 社会的な人間としてではなく、個人としての欲望も通り越したもっと低い次元。生命を繋ぐための根源的な欲望が俺の身体を突き動かした。


 そこからはもう止まらなかった。


 塞いできた英雄に相応しくない言葉が溢れていく。


「もう…無理だよ…」


「もう…俺にはもう出来ない」


「分かってるよ。俺がしなくちゃ誰かが死ぬんだ。俺だってそんなの嫌だ」


「だけど、だけど!!!!」


「お前だって見ただろ!!あの焔を!!訳が分からない!!傷口ができたと思えば火傷もしていて!!目眩がするほどの湿度と高温に絶えて!!泥を噛み締めて!!!」


「何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も死ぬかもしれないと思いながらそれでも!!!」


「殺したところで俺の身体はボロボロで!!!その後生きる為にまた激痛に絶えて!!!」


「獲られるのはなんだ!!使い道のない金と!!クソみてえなボケジジイの一言二言だぞ!!??」


「助けてもあのバカ共は知りもしないで俺を罵るんだぞ!?」


「そんなの!!」


「…そんなの…おかしいだろ…なあ…」


「お前らはさ…いいよな…。どんだけヤバくても、どんだけきつくても」


「…瞬間移動するやつに背後から噛みつかれて死にかけることも、訳分からんくらい硬い奴に潰されそうになることも、ないんだし」


「…ぶん投げて逃げようってなっても、見知らぬ誰かの断末魔に苛まれることもないんだし」



 ガルラードはまっすぐ俺の目を射抜いていた。彼女は黙って俺の嘆きを、憤りを聞いた。


 その誠実さが妬ましい。


 少しずつ少しずつ、仄暗い感情が蠢いていく。


 秋風よりもずっと冷えた心はささくれて、触わられるだけで痛かった。


「なあ、教えてくれよ…。俺が何したってんだよ…」


英雄ヒーローになりたいよ…。なりたいんだよ…」


「なんで俺は…」


 ああそっか。


 ここまで紡いできた言葉たちが教えてくれた。

 こいつらのやってる事は多分正しい。

 王も、エンディも、ガルラードも。

 人を護るために。

 国を護るために。

 誇りを護るために。

 彼らは正しい道を歩んだのだろう。


 でも、それに従った時俺は。


 俺の望むような英雄ヒーローには。


「…英雄ヒーローになれないんだよ…」




 

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