濡れゆく炎

 それが思考を始めた時、眼前に広がっていたのは常闇であり、それこそがかの獣にとって全てであった。

 幾重にも重なった闇は思考も行動も、生物としての自覚さえも無為であると嘲笑った。

 時間は進行、あるいは後退し、無価値な停滞に揺蕩うそれに、憐憫を抱くのを人は傲慢と呼ぶだろうか。


 暗い。


 見えない。


 聞こえない。


 触れない。


 常人なら発狂するその中にいてそれはただ生きていた。それ以上もそれ以下もなくただ生存していた。何も感じない。それが当たり前なのだから狂う気等初めからなかった。


 それはある時突然現れた。今まで知りもしなかった刺激。それを視覚情報と捉えられたのは彼がある意味で生物の枠組みから外れているからであろう。


 光を見た。


 全てを照らす光ではない。ほんの僅かに見えるはるか遠方の光源だ。


 欲しい。


 なぜ私はアレを持たない。


 なぜ私は見えない。


 初めて生じた思考。

 それが欲望であった。


 己が持たざる者であるという事実を知ったその時、全身に初めて血が巡るような感覚を覚えた。

 心臓の鼓動を聞いた。

 飽くなき心の渇きを覚えた。

 気付けば光に向かってもがいていた。

 辿々しく、無様なそれは泳ぎとも歩行とも言い難いものであった。

 全身を動かすことの難しさを初めて知った。

 だが、今はそんな事はどうでもよかった。

 あの光を、あの水を手に入れなければ、この渇きは満たされない。


 その姿は正しく生物であり、獣であった。


 永遠に続く光への進行はある時、唐突いや、必然的に終わった。

 それにどれだけの月日がかかったかは誰も、かの獣でさえも知らず、また知る必要も無いだろう。

 手に入れるまで続けるのだから。


 獣は手に入れた光をもってして、乞い願う。


 照らせ。


 この重苦しい闇を。


 照らせ。


 我が身を。


 照らせ。


 己の存在を。


 1つの光によって生み出された欲望を、生命であるが故の業を、満たして見せよ。


 それは幕開けであった。


 それは大それたものでなく、ありふれたもの。

 この世界はありふれたものでありふれている。


 この世に特殊なものはあまりに少ない。

 それはかの獣とてそうだ。


 その光を求めてやまぬ獣は、たったそれだけに励起された命はあまりに多い。


 照らされたのはあまりに醜くあさましき有象無象。たかが光それを愚直に求め続けその命を燃やし尽くさんとする度し難い木っ端。


 その光景を見て頬の肉が皺を作る。歯茎が、犬歯が露わとなる。細くなった目に持たざる者達が映る。


 心の底から震え上がる。如何なるものにも変え難い多幸感に身を窶す。マトモな生命であったなら一種のオーガズムと呼称する事もできた。


 この塵芥共は、欲望の始点を久遠に置いてきたこの下愚共はただの一つの例外もなく敗北者であり、

 勝者はこの身に違いなかった。


 自らのそれまでがそうであったようにこれらは文字通り命をかけてこの光を追い求めた。だが今やその光はこの身の一部。


 水底深く、深く沈むような絶望を感じたものもいただろう。ただそれだけしか知らぬ獣であるからして、ただ目の前の事象に理解の追いつかないものもいただろう。

 その全ての絶望が須らくかの獣の悦であった。


 勝者


 その甘美な響きに脳髄までが摂動する。


 そして理解する。


 負けたものがどうなるか。


 勝ったものがどうなるか。


 光を手に入れたかの獣になおも牙を剥くものをその光が包み込む。


 燃え上がる屍で閉ざされた海底が僅かに広がりゆく。

 その様子を見て切り裂かれたように口角が広がりゆく。




 燃え盛る屍。それはかの獣における松明に他ならない。光を求める薄鈍を己の軌跡として常夜を破り捨てた。


 敗北の恐怖に耐え忍び、勝者の悦に浸る。


 それを追い求めた。

 その欲望に、その光に誘われるがままに追い続けた。

 何一つ変わらない事に気付かぬ畜生はその焔を、我欲を身に纏い、獅子となる。肥大化した獣欲に包まれるようにして。



 そして、知る。


 愚者を嘲笑った己のように、己を嘲笑う何かも存在する事を。


 全てはありふれている。



 震え脅え嘆き悲しみ絶望し、逃げ惑う。


 あるいは意地汚く己の生存を賭けて何処までも貪欲に死合うのだ。


 その奔流から逃れることは当然彼も許されなかった。


 どこまでも醜く足掻き、その屈辱を雪ぐようにまた醜く顔を歪めるのだった。


 深い恐怖と逃れられぬ快楽に沈殿した。




 それはやがて冥点から迷い出る、あるいは冥天から濾過される。


 必然だったのかもしれない。


 光を追い求めた獣が日輪を、神光を求めだしたのは。




 そしてそれは地を踏みしめ、己の纏う欲にかかる重力を知るのだ。


 そしてそれは低次元の存在に阻まれ、魂の重力を知るのだ。


 己の棄てられた炎の在り方にさえ、気付けぬ些末な命に神光は過ぎたものと知れたなら、それは獣ではなかったかもしれない。

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