濡れた炎3

 そこから先は一方的であった。


 炎獅子の狂爪が彼の身を切り裂くことは無く、鋭牙がその身を突き刺すことも無い。


 つい先程まで泥に塗れ、血に塗れ、怯え、平伏す弱者の姿はついぞ無く。


 ただその海より青く、風より鋭い剣を身体の一部であるかのように操る狩人があった。


 その動きは海流のように、時に激しく獣の身を削り、時に優しく彼の身を包み、時に荒々しくうねり、時に悠然としてみせた。


 それは懐かしいようで恐ろしい、炎獅子の母たる海そのもののようで地獄の様相と寸分違うものでは無かった。


 ああ、またこれだ。


 大いなる流れに逆らうことは出来ず、ただ流され、出会うものたちと死合う。


 互いの生存以外の意思が介在しない純然たる生存競走。


 その原始的で退廃的な在り方。


 その渦の一部であった時に感じた感情と同じ。


 これを畏れと呼ぶのだろう。


 今、確信する。


 私はあの海に最早戻ることは出来ない。


 この畏れを持ってしてどうしてあの奔流に身をやつす事ができようか。




 しかし。



 しかし、嗚呼、無情なるはこの世かな。


 母なる奔流をその身に宿し、振るいたる刃は陽光が如し。


 その姿は正に羅刹と呼ぶに相応しく。



 ―――なれば


 我が命、ここで張らねば何とする。


 我等は天の下に2つと無し。


 互いの死を持って己が生を得る畜生の身。


 これより先は死地に違わず。


 命を焚べよ。


 命を呑み込め。


 その大火こそ我が命に相応しい。




 ☩


 人間を殺したことは無い。


 だからこれはあくまで俺の想像だ。


 多分この世で最も恐ろしい生物は「死を覚悟した神獣種」だ。


 その神から与えられたような特権を、争いの輪廻で磨かれた才覚を、獣としての本能を遺憾無く発揮する状態、それは正しく神の如き獣という名に恥じぬ様相だ。


 だからこその一撃。


 俺はそれに文字通りの命をかけてきた。


 その一撃も、此奴には通用しなかった。


 焦り、自らの一太刀への誇り、畏怖、様々な感情が俺の心を掻き乱した。

 だが、そんなことばかりも言っていられない。


 奴は人に仇なす害獣で、俺は狩人。

 ならば、俺のやる事は決まっていた。


 もう何年も前に叩き斬った亀のようなナニカ。

 その甲羅から作った剣を剣帯から引き抜く。


 その剣は俺にしか使えなかった。


 別に俺が特別という訳ではなく、あの亀より強い、そういう化け物が相手でないとこの剣はなまくらに等しく豚の肉すらマトモに切れない。


 だが対神獣種という状況に限っては異常な鋭利さ、高度を誇る。


 だからこの剣は俺しか、亀以上の化け物とやり合う俺にしか使えない。


 今日は十分な硬度がある。


 それだけ強いということだが、この剣が使えるアドバンテージは確かに存在する。




 しかし、その剣でもう一度同じように首を斬れば殺せるかと聞かれれば否と答える。



 それもそうだ。


 此奴の本体は尾の付け根の部分にある。


 それ以外は炎による幻影のようなもの。


 当然幻影を切ろうと死ぬわけが無い。


 よく見てみれば簡単だった。

 撥ねた泥が身体を貫通し、時折、ある1点でのみ静止した。


 炎が質量を伴っていることや炎が濡れていることの謎は分からないままであったが、それで問題はなかった。


 その謎を考えるとすれば、己の命に危機がある時か、奴の首を斬れない時だけ。



 慢心と思うかもしれない。



 しかし。


 8年。


 奴らを殺してきて、理解した事は2つ。

 1つは神獣種の権能を人間が理解することは出来ないという事。


 原理、過程を考え続けてイカれちまった学者様もいる。


 頭のいい学者様でそんなんだ。

 算術も怪しい俺に分かるわけが無い。



 そしてもう1つは結果だけが俺に道を与えてくれるという事。


 どうなってるかは知らないが、奴の体を両断すると剣がダメになる。


 何でかは知らないが本体っぽいのがケツの方にある。


 どういう仕組みか知らんけど此奴の炎爪は剣でいなせる。


 上等だよ。


 そんだけ分かりゃ十二分。




 確実に一太刀にて鎮めてみせる。







 時に、聞かれることがある。


 斬ったとして、奴等は怪物に違いなく死ななかったならばどうすると。


 俺はいつもその質問にこう答えた。


「首を切って死なないってんなら、もうそれは生き物じゃねえよ。どうしようもない」


「その先ってのは正しく神のみぞ知るって奴だろ」



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