「濡れた炎」2

 時間のみが過ぎていく。


 剣を突き立て佇む男とただその双眸のみが揺らめく焔の獣。


 交錯する視線に耐えかねたのは獣であった。


 これから逃げる事は叶わない。


 創成より幾万の歳月を戦いに費した獣の本能がそう告げた。


 幾許かの逡巡を経て、出た答えは正面からの力の行使であった。


 無駄な策は必要ない。


 その巨躯に起因するエネルギーを持ってすれば、それは計り知れない力となる。


 それを獣は知っていた。


 ☩


 異変には気付いていた。


 その四肢に集まった炎は数分前のそれと比べ物にならない。


 奴は俺を殺しにかかるだろう。


 ふつふつと湧き上がる恐怖を剣の柄共々きつく握り締める。


 この先起こるのはコンマ数秒、それ以下での命のやり取り。


 瞬きが、汗が、怯えがそのまま地獄への片道切符に変わる世界。



 それでも。


 俺は剣を向けてはならない。


 命を刈り取る意志を疑いようも無く確認するその時まで、こいつはただの獣だ。


 それまでに何人殺そうと、何人を救おうと。


 俺の前では等しくただの獣だ。


 俺の敵か、そうでないか。


 それだけで十分だ。




 この思考の間にも獣は迫る。


 その狂爪の行方はまだ分からない。



 これは俺の傲慢だ。


 此奴を殺せる。


 そう確信しているからこそ俺は俺の矜恃を捨てていない。


 これは俺の弱さだ。


 此奴を殺してしまう。


 そう確信しているからこそ俺は俺の矜恃に縋るしかない。



 獣はその巨躯に見合わない速度で迫りくる。


 仄かに暑さを感じると同時に息苦しさが襲ってくる。


 服が僅かに焦げ付き、濡れ、灰汁となり、地面に滴る。


 緑があれだけ広がっていた平原はもはや跡形もなく、ただ不快な汚泥が炎と共にあるのみであった。



 その炎爪は確かに俺の目の前にあった。


 その先に見える剥き出しになった燃えさかる牙が禍々しい。


 そこで理解する。



 は害獣だと。



 ☩


 地に突き立てていた剣を引き抜き、力任せにそのまま振り抜く。


 切っ先は半円を描き、確かに獣の左前肢、首を通過した。


 それは剣の達人から見ればあまりにも拙い薙ぎ。


 だが恐るべくはその速度、その角度、その体捌き。


 眼下に迫る脅威を自らの命を確かに奪えるものと判断し、左前へ半歩。


 最小の動きで命を繋ぎ、そして剣、左前肢、首が重なるその瞬間を逃さず振り切る。


 確実に致命の一撃であったと確信していた。



 獣は慣性に従い、後方へと転がっていく。


 弾け飛んだ泥と炎が視界を遮る。


 炎が揺れ動き、拡散していく。


 やがて大きな炎が1つ浮かび上がる。






「…今ので死んでくれよ。畜生が」



 獣の身体には首も左前肢もしっかりと繋がっている。その事を見せつけるように地を踏み締め、首を揺らす。


 そして、ヒンツァルトは左手に握りしめた柄に気付く。


 獣を捉えた部分が根こそぎ消えていた。


 足元には先程まで剣だったモノが錆として散らばっていた。


 ならばと、右の剣帯からエルローに渡された剣を抜く。


 だが、迂闊に振ると錆を増やすだけ。


 そんなことは当然彼も理解していた。



 彼はほんの僅かに逡巡する。


 何故、奴は生きている。


 何故、剣は錆と化した。


 何故、奴は沼のようなこの場を縦横無尽に駆け回れる。


 しかしそれもつかの間。


 獣が一瞬のその隙を逃す訳もない。


 迫り来る巨躯に彼は迷いを捨てる。


 泥濘に足をとられながらの彼とは対照的に、軽快な動きを見せる獣。


 それを知ってか知らずか獣は先程の一撃に賭けた攻撃を止め、その狂牙を、その迅爪を絶え間無く振るい続ける。


 必然的に苦しいのはヒンツァルトだった。


 反撃すら出来ず、必死に身体を動かすが泥を撒き散らすのみで、躱すこともままならず、1つまた1つと火傷の痕がその身に刻まれていく。


 じわじわと追い詰められていく。


 獣はそれを楽しむ様子すらあった。


 この時点で獣は警戒する事は間違いではないが、この程度であれば脅威としては過大評価であったとすら考えていた。


 所詮は''長''の小間使いに過ぎないと。


 ヒンツァルトは十二分に努力し、素晴らしい身のこなしを見せただが、ついに限界だった。


 獣の爪が背中を捉えた。


 今までで最も深く、最も重い一撃。


「ッあああああああ」


 背の衣服は燃え尽き、じゅくじゅくと灰汁が傷口を刺激する。


 その激痛に耐えかねてヒンツァルトは膝をつく。


 そして、顕になった背中に現れるのは無数に刻まれた爪痕だった。


 それを見た獣は若干の畏怖を抱く。


 これだけの傷を受けてなお生きているこいつは何者だ。


 しかし考える必要もここまで来るとなかった。


 不気味ではある。


 だがこの状況でこの小さな生き物に何が出来る。


 不安なら一切の油断を捨て殺すのみであった。



「ッ!…クソがッ!」


 確かな死を齎さんとするその炎爪に対してヒンツァルトが出来たのは悪態をつきながら泥を投げつける程度。


 無慈悲にも泥は獣のはるか上空へと飛び去って行く。



 膝をつきそれでも剣を構える彼を侮辱出来るものが果たしているだろうか。


 獣すらその気高さにある程度理解を示した。


 振り下ろされる右前肢は責めてもの慈悲であり、これ以上の苦痛を与えまいとするものだった。









 ビチャ。



 その音はその右前肢振り下ろされる直前に確かに響いた。


 振り下ろされた一撃による轟音によりかき消されたその音の意味を知る事が出来たのはただ一人。


「どこ狙ってんだよニャンコ。俺はここだぜ」


 獣にはその声は確かに目の前から聞こえた。


 獣は慌てて左前肢を横に薙ぐ。


 しかしそれも空を切る。


「んなとこ居ねえよ、この





 獣は認識を変えた。


 先程までの気配とはまるで違う。


 逃げ惑うエサではない。


 コレは確かに己を殺し得る。

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