「濡れた炎」1

 ソレは前方に門を捉えた。


 自らの外形と同等程度の大きさの門。


 突如現れたそれに驚きはあった。

 しかし恐怖は無かった。


 何も難しい理由がある訳では無い。

 ソレはその門を幾度となく見てきた。


 ただそれだけの事。


 少し逡巡する。


 ₣£₠₤₰共が何匹来ようと物の数ではない。

 しかし、ここはどこよりも浅い場所。

 我等の頂が住まう場所。

 無警戒でいて良いものか。


 門の常闇が揺らぎを見せる。


 ソレはその身に纏う蒼い焔を逆立てる。


 その四肢から滾る焔が燎原を築き上げる。


 本能でそれを感じ取った。


 あの門から出でる何かはソレの敵であると。


 ☩


 常闇の中を歩く。


 どの向きが正しいのか、どちらが上なのか。

 それは恐らく誰にも分からない。


 しかし、この門での移動も慣れてしまえば差程の問題も無かった。


 認識しようとするから恐れが生まれる。

 理解しようとするから怯えが生まれる。


 認識しようとするのも、理解しようとするのも誤りではない。


 ただ、必要ではない。


 そもそも、人間がこの現実の次元を逸脱する事が出来ないなら、理解出来る範囲は人間の脳ではたかが知れてる。


 その限界に挑むのはそれを無茶と知り、無謀も知り、その上でなお覚悟があるものだけだ。


 そしてそれを人は狂人と呼ぶ。





 どれほど時間が経っただろうか。


 目を閉じる。


 それはある種儀式だった。


 歩みは絶やさず、ただ感ずるままに。


 すると、やがて誰かが俺の手を引く。


 その導きに従い進む。


 右へ。


 右へ。


 左へ。


 前へ。


 左へ。


 前へ。


 手が離れる。


「後ろへ」


 その声を無視して前へ進む。


 ただひたすらに前へ。







「お待ちしておりました」


 その声で徐に目を開ける。


 眼下に広がるのは嵐が過ぎ去ったかのような平野。そこに本来の緑はなく、あるのは灰汁を含んだ泥濘。


 そしてそれほど遠くない所に立ちすくむ四肢の獣。


 煌々と燃え盛るその蒼き炎は言い知れぬ艶美さを携え、下顎から伸びた炎の牙は天を穿つが如く鋭く、そして美しい。

 獅子のような、虎のようなその獣は低く構えたまま動かない。


 そっちがそうならこっちも焦る必要は無い。

 後ろに立つ壮年の男は門の傍に立ち、動かない。


 いや違うな。こいつはいつだって言われなきゃ動けない。そういうやつだ。


「エルロー、剣」


 そう言えばあの外道の息子とは思えないほど素直に剣をよこす。


 こいつのそういう所が無性に腹が立つ。


 受け取った剣を右の剣帯に差す。


 これを使うかは正直な所分からない。


「今の時点で分かっていることを教えろ」


「現在確認できているのはアレが炎を使うこと。その炎に触れると燃えること。そして燃えたあとの物体が。それだけです」


「…チッ。使えねえな」


 吐き捨てた言葉にエルローの身体が小さな反応を見せた。

 普段文句なんて言ってこなかった。

 そのせいだろう。


 水が燃えているのか、濡れたまま燃やせるのか。

 何も分かってない。

 結局はいつも通り戦いながら考えなければならない、そういう事だった。


 アレの双眸は揺らめきながらも俺を捉えて離そうとしない。




「邪魔だよ。死にたくねえなら下がれ」


 エルローは何も言わず去っていく。

 やつの視界に門が映らなければ門は消える。

 門は数少ない獣共から確実に逃げられる唯一の方法だからあいつは門が見えるギリギリの何処かに潜む。そして、俺の戦いの顛末を見届ける。


 いつも通り。


 エンディが俺を呼び出して。


 エルローに剣を渡され、監視されて。


 俺はヤツらを殺す。


 何と公平な役割分担だろう。

 誰が見ても反吐が出る。


 エルローとエンディは常に俺の戦いの傍らにいた。それでも仲間などという感情は萌えることは無かった。俺にとってあいつらは移送役であり、監視役で、死ぬほど憎い奴らの筆頭格だ。


 正直、何度も殺してやりたいと思った。


 何度も、


 何度も、


 何度も何度も、


 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も


 それをしなかったのは俺にそれだけの勇気と覚悟がなかっただけだ。理性だとかそんな大層なもんじゃない。


 殺して、その罪悪感にも、責任にも、耐えられる気がしなかっただけだ。


 こんなに憎いと思って、こんなに殺したいと思って、俺はそれでも「人を一人殺めた」という事実を受け止められるとは思えない。


 考えても考えても、そこに理由は必要ない。


 いや、分かりたくない。


 考えつきたくないんだ。


 どんなに憎くとも、どんなに殺したくとも、人を殺す事が正しいなんて事を俺が受けいれたくないんだ。


 人を殺める正しい理由なんてあってはならない。


 そう信じたいんだ。



 じゃあこの憎しみをどうしろと。

 この怒りを何にぶつければいいんだ。




 その答えだけはずっと前から知っている。






「よお、デカブツ。言葉が分かるなら今すぐ引き返せ。でなけりゃその首ともお別れだ」

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