死刑には反対である(論理的考察)

@shinwood

第1話

私はかつて死刑肯定派でした。ただ何となく極刑は犯罪を減らすと思っていた。しかしある人が言った言葉で疑問を感じ、考え直してみて私は死刑反対派になった。


その言葉とは「犯人はあんな極悪人になりたいと思って生まれてきたのだろうか? 子供のころ彼は犯罪人になりたいと思っていたのだろうか?」というものである。




彼だけを悪者にして処刑する、それだけで本当に良いのか?


本当に彼だけに責任があるのか、彼があんな風に育ったのは親の育て方にも責任があるのではないのか。ボクシングの亀田兄弟は非常に礼儀知らずで傲慢な人たちであった。それはあの、やくざのような親に育てられたからではないだろうか。違う親なら、あんな風には育たなかったのではないだろうか。




また、そのような犯罪人を育てた社会にも責任があるだろうと考える。日教組のように道徳なんて教えなくていい、個性こそが大事だ、個性を大切にしろ、おててつないでゴールイン、日本人は世界に多大な迷惑をかけてきた悪い国である、恥ずかしい国であると教えている。こんな教育で、まともな人間が育つはずはない。そして我々の社会も個人主義の蔓延で他人が何をやろうがあまり関心も示さなくなった。そんな社会を容認し作ってきたのは我々日本人である。我々にも責任があるのではないのか。また財政の失敗で不景気になれば犯罪は増えるのだ。犯罪が増えるのは社会のあり方とおおいに関係があるだろう。




あのような犯罪人ができたのは親の責任であり、社会の責任であり、もちろん本人の責任でもある。責任の割合としては親が2割、社会が2割、犯人が6割くらいではないのか。


その責任のすべてを犯罪人に押し付け死刑にして自分たちの責任は一切考えない。それは本当に正しい事なのだろうか。正しいはずは絶対ない。




責任をすべて犯人に負わせ死刑にするのではなく、親、社会にも責任があると反省することこそ、犯罪の減少につながるのではないだろうか。




我々が犯罪に対して反省し改革してこそ、犯罪人を生まないより良い社会になるのではないだろうか。


現在では極悪人は処刑してそれで終わりである。なぜあのような犯罪者が出たのか、何が悪いのかと反省し研究しているだろうか。




もし親や社会にも、それ相応の責任があるとするならば、犯人を極刑にはできないだろう。犯人を極刑にするならば、親も数年懲役とか国民やその代表も何らかの罰を受けなければならなくなる。しかし現実的にそんなことはできない。そうであるならば極刑はやめて、極悪人は最高で終身刑にすべきであろう。日本にも終身刑を設けるべきである。


それでは金がかかり過ぎると言うかもしれないが、犯人だけでなく我々にも責任があるのだ。その負債は社会全体で負うべきであろう。




死刑問題において 絶対的に正しいことは凶悪犯罪の減少であろう。社会の安寧秩序であろう。そうであるならば親の責任、社会の責任を明確にして犯罪が減少するように社会を改革していくべきなのである。


私は現在の死刑制度は犯罪の減少、社会の進歩に合致しないから死刑制度には反対である。


ですが、オーム真理教など国家を転覆させようとする大きな犯罪や国家を裏切るスパイ行為に対しては死刑もやむを得ないと考えています。

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