第18話 恋する男は眠れない

 その日の夜、レオニードは眠れぬ夜を過ごしていた。

 昨日までならば、ベッドに横になれば数分で睡魔が襲ってくる。

 けれど、今夜はその兆候がまったくない。


 こんなことは今までなかった。

 そもそも、遠征時は野営で横になることもできず、何かがあれば起きなければならないので、騎士にとっては休息することも戦いの一つだ。

 眠れない理由はわかっていた。


 ――――エリザベスと二人で港町。


 考えただけで鼓動が高鳴り、眠りとは正反対の状況になる。


 ――――何を話せば良い? そもそも何をいつも彼女と話している?


 眠れ、と自分に命じて邪念を振り払うも、気づくと彼女のことを考えている。

 初めてこの地に来て、エリザベスに挨拶した日の夜のようだ。

 いや、あれよりもひどい。


「駄目だ……」


 レオニードはバサッとベッドから跳ね起きた。

 もういっそのこと諦めて起きているか?


 ――――何があっても護衛できるように身体を休めるべきだ。


 思考の冷静な部分が命じる。

 今度はベッドで眠ることを諦めて、大剣を手に眠ろうとする。

 愛剣を握れば、いつもは心が落ち着き、任務を忠実に遂行できたはず。


 ――――二人で出かける……。


 剣でも駄目だった。

 やはり、すぐにレオニードはエリザベスのことを考えてしまう。

 口元と頬が勝手にゆるんでくるが、これはなぜだ?


「――――っ!」


 もう眠ることを諦める。

 こうやって葛藤している方が無駄だ。


 ――――悩む時は、別に悩んではいないが、剣を振るに限る!


 レオニードは立ち上がると、剣を手にして家の外に出た。


「夜明けまで鍛錬して待てばいい」


 まずは剣の形<かた>から入る。

 少し腰を落とし、剣を正面に構える。

 そのまま少し体勢を維持すると、素早く横に短く薙ぐ。

 ヒュッと空気を裂く音が辺りに響く。

 続けて、剣を上段に構えると思い切り振る。

 そのまま下から上へ斜めに振り上げた。

 中断から横に切り、上段から縦に切り、下段から斜めに切る――――その三つの動作を連続して繋げていく。

 そして、最後に大剣を思い切り突き出した。


 この剣は本来突くものではないが、形の練習としてはいいし、稀に相手の意表をつくため使える。

 一連の動作は繰り返すたびに鋭さを増して、速くなっていく。

 ビュッビュッビュ、シュッと夜の闇に剣の音が響いた。


 ――――やはり鍛錬が一番精神集中できる。


 先ほどまでの焦燥はなくなっていた。

 剣に集中できている。


「……!?」


 その時になって近くを通る人の気配にレオニードは気づいた。

 何物かが、森の中を掛けている。

 しかも足音を殺しているので、微かにタッタッタとしか聞こえない。

 意識を集中していなかったら、気づかなかっただろう。


 ――――盗賊か……。


 鎧などの金属音がしないこと。

 木の枝を避けて通るような、足音が通常よりも小さいこと。

 真夜中なのに、明かりを持っていないこと。

 以上の三つの理由から、レオニードは相手が十中八九、盗賊だと判断した。

 おそらくはミサの日に取り逃がしたあの男達だろう。

 盗賊同士にも縄張り争いがあるので、同じ場所に複数の盗賊団がいるとは考えにくい。


 ――――今度は逃がさない。


 レオニードは迷うことなく、彼らの足音を追って森へと入った。




※※※




 しばらく真夜中に走る者の後を追うと、やはりノルティア教会の前に出た。

 ミサの日にいた三人がまさに木の陰に隠れて、辺りを確認している。

 こちらに気づく様子はまったく見られない。


「こっちの家はたいしたことない。教会からにしよう」

「シスターを人質にしたら、領主の家からもぶんどれないか」

「とにかく、金目のものがある部屋から――――」


 あまり統制が取れているとは思えない会話をして、さっそくどこから手をつけるか揉めている。

 だが、レオニードは二つ目の会話を聞いて、すぐに鞘を投げ捨てた。


「どこを襲う気だ? 誰を襲う気だ!」


 怒りに任せて三人のいる前に剣を突き立てる。

 ドーンと大きな地響きがして、盗賊達はふらついた。


「なっ、なんだ……おまえ……」

「聞いているのはこっちだ!」


 ブンと大剣を横に薙ぐ。


「ぎゃああっ!」


 三人はまとめて、大剣で吹っ飛ばされた。

 寸前で刃を縦にしたので、刀身の部分にぶつかっただけで、真っ二つにすることは避けられた。

 けれど、相当な重量の大剣で殴られ、三人のうち二人は白目を剥いている。


「こ、こいつなんだ? とにかくやべぇ」


 一人だけが、慌てて立ち上がると森の中へ逃げ出す。


 ――――しまった。一人ずつ捕まえるつもりが……。


 シスターを襲うと聞いて、ついカッとなってしまった。


 ――――だが、ちょうど良く一人残ったとも言える。


 自分の考えに頷くと、気を失っている二人を素早く縛り上げ、森に逃げ込んだ奴を追いかける。

 全力ではなく、見失わないようにだけ注意しながら走る。


「はっ、はっ、くそ……っ! しつこい! なんで村に騎士がいるんだよっ」


 逃げる盗賊が息を乱しながら呟く。

 このぐらいの距離で、鍛錬が足らなすぎる。

 今度はゆっくりと速度を落とすと、気配を消す。


「撒<ま>いたか? あぶなかった……」


 盗賊も速度を落とすと足を止める。

 そして、安堵の息を吐くと方向を変えて再び音を立てないように走り出す。


 ――――残念だったな。撒いてはいない。逃がしてやっただけだ。


 レオニードは、ぴったりと距離を取りながら盗賊の後を追いかけた。




※※※




 たどり着いたのは村からかなり遠くにある朽ちたあばら屋だった。

 数年前から廃墟となっていた元羊飼いの家で、そこをアジトにしていたようだ。


 生き延びた盗賊の一人が慌てて逃げ込んでいく。

 思ったよりも盗賊のアジトは遠かった。

 すでに明け方に差し掛かり、辺りはうっすらと明るくなり始めている。

 盗賊をのして縛り上げ、領主の兵に引き渡し、クリストハルトには一応適当に報告をして……。


 ――――約束は朝五時だったな……間に合う……のか?


 一瞬、エリザベスとの待ち合わせを優先しそうになって、首を振る。

 彼女に危害を加えようとする輩を放置することは断じてできない。


「二人掴まった! 解散だ、逃げろ」


 中にはさらに二人の盗賊が残っていた。

 教会を襲う件については、居残り組だったらしい。

 少しだけ手加減してやろう。

 逃げ帰ったこいつは――――知らん。


「お、お、お、お、おま、おまえ……」


 ヌッと音もなく、逃げ帰った盗賊の後ろに立ったレオニードに居残りの一人が気づく。


「早くしろ! 聞こえてないのか!」

「だ、だから……そこ……そこに……」

「後ろ……?」


 おそるおそる盗賊が振り向く。

 そして顔を上に向ける。


「逃がすと思うか?」

「ぎゃぁぁ! 出た――――!」


 その日、ノルティア村には日の出とともに、盗賊の悲鳴が響き渡った。




※※※




 早朝、エリザベスは朝の仕事を済ませると部屋に戻り、港に行く準備を始めた。


 シスターの朝は元々かなり早いので、辛くはない。

 いつも日の出とともに起きると、まずは礼拝。

 その後は畑の水やりをしながら収穫し、皆の朝食を作る大仕事をする。

 洗濯や裁縫を他のシスターと分担して、ちょこちょこ畑仕事もして、昼前に少し落ち着くという、それなりにやることのあるスローライフ。

 今日はバザーのための用事があるので、朝食の支度だけであとは免除されている。


 令嬢だった時は全般的に遅かったので、始めはそのリズムの違いに戸惑ったけれど、慣れてしまえば、なんてことはない。

 朝早いぶん、夜早いだけのこと。

 日が出たら起きて、日が沈んだらすぐに寝る。

 蝋燭代が掛からなくて良い。


「えっと……ここに……」


 エリザベスはベッドの下に置かれた収納箱から、久しぶりに外出着を取り出した。

 シスター服を脱ぐと、地味なワンピースに着替えて、髪にリボンを付ける。

 もちろん令嬢時代のドレスと装飾品ではない。

 それらはすべて売り払って、外出のために村で買った物。

 服は綺麗な染め方が気に入っているし、リボンは小さく派手すぎないのが良い。

 一着しか持っていないけれど、お気に入り。


「んー……」


 教会の厨房にある裏口から外に出ると背伸びをする。

 朝のひんやりとした澄んだ空気は、好きだ。


「荷馬車の準備をしよう」


 教会では一頭だけ老いたロバを飼っている。

 急ぎの用事や連絡がある時にはロバがいると便利だし、遠くに買い出しに行く時にも助かる。

 だから、お金に余裕のある時に小さな荷馬車とロバを買ったらしい。


 村の人達にも頼まれて貸すこともあり、わりと活躍の場は多い。

 元々、引退する旅商人から買ったロバなのでかなり老いていて、あまり無理はさせられないので、草原を駆けたりはできないのだけれど。


「今日はよろしくね」


 ロバのたてがみを撫でると、にんじんを差し出す。

 若いロバだと歯を鳴らしてパクッと行かれるけれど、この子はもっそりモグモグと食べる。

 たっぷりの水を飲ませてからロバに荷車をつけ、門の前まで連れていく。


「あれ……?」


 ロバを連れて教会の門に着いたエリザベスは、きょろきょろと辺りを見回した。


 ――――遅刻とか絶対しないようなタイプだと思ったけど……。


 てっきり門の前でいつもどおり何を考えているのかわからない仏頂面で待っていると思っていたレオニードの姿はどこにもなかった。


「寝坊? なわけないと思うけど……まあもう少し待とうかな」


 ロバも肯定するように首を縦に振る。

 そもそも五時と言ったけれど、時計は貴重だ。

 教会は鐘を鳴らす必要があるので時計があるからわかるけれど、レオニードがわかるとは限らない。

 それを見越して早く来ているのかと思ったのだけれど……。


「来ない……」


 待つこと、たぶん一時間半ぐらい。

 日がさらに昇って辺りを眩しく照らすようになっても、まだレオニードは現れなかった。


 ――――あっ! 先に行っちゃえばよかったんだ。


 たっぷり待ったところで、今さらエリザベスは気づいた。

 元々港へは一人で行こうとしたのに、レオニードが一緒に来ると強引に言ってきたのだった。

 約束を守ることに意識が向いていて、付いてこない方が、気が楽だということをすっかり忘れていた。


 ――――今から出ちゃえば良いんだけど……。


 気づくのが遅すぎた。

 十五分ぐらい待って「はい、時間切れ。出発ー!」となっていればすっきり出られたのだけれど。

 ここまで待ったら、来るまで意地でも待ってやるって気になる。

 来たときに一言、びしっと文句を言いたい。

 遅れてきた彼に「なんだ、待っていなかったか」なんて思わせたくない。


「ほんと、損で、めんどくさい性格だって、わかってます!」


 独り言を呟く隣で、やはり肯定するように隣のロバが首をうんうんと縦に振っていた。




※※※




 日が完全に登り始めた頃――――。


「うーん……くすぐったい……ふふふ」


 エリザベスはロバに寄りかかったまま、器用に立って眠っていた。

 揺れる通勤の電車の中でつり革に掴まって眠ることに比べれば、難しくはない。

 そもそも待ち続けてから四時間以上が経っていたので、眠くならないわけがなかった。


「くすぐったい……くすぐったいって……ひゃっ!」


 何かがスリスリとしてきてくすぐったい。

 最後にざらっとした感触を覚えて、エリザベスは飛び起きた。


「……どうしたの?」


 目を開けると、一緒に待っていたロバが「ヒヒィン」と鳴いて、エリザベスを鼻先で突いていた。

 頭の良い子なので、何かを知らせようとしてくれたみたいだけれど……


「……蹄の音!?」


 やがて遠くから地響きのような音が聞こえてくる。


 ――――これって……。


 前にも同じような地響きと足音を聞いた記憶があった。

 やがて凄まじい勢いで、彼の愛馬フロレスターノが駆けてくる。

 完全に得物を追う速度。

 門までくると、フロレスターノが止まれずにエリザベスの横を駆け抜けた。

 レオニードはその寸前に馬から飛び降り、地面に片膝をつく。


「大遅刻です!」


 ――――あと、どんな派手な登場ですか!?


 腰に両手を当て、言葉と心の中とで同時に突っ込む。


「すまない」


 立ち上がると、レオニードは素直に謝った。

 次の言葉、主に言い訳を待ったけれど、何も言ってこない。


「……う、ま、まあ……過ごしやすい明け方は、二度寝したくなるものですから」

「…………」


 沈黙に耐えきれなくなって、エリザベスが口を開く。

 けれど、彼は肯定も否定もしなかった。


 ――――言い訳ぐらいすればいいのに。


 むっとして、エリザベスは頬を膨らませた。


「……待っていてくれたのか?」


 こっちは怒っているというのに、レオニードは待っていた事実を確認したいみたいだ。

 さらに彼の好感度が落ちていく。


 ――――元々最低レベルでしたけど!


「約束しましたから、ええ、そりゃもう……私は、約束は守りますよ」


 ついつい言葉がきつくなってしまう。

 言ってから、すぐに自己嫌悪。

 心なしか、レオニードの顔もしょんぼりとしている。


「仕方ないです。誰にでも間違いはありますし、気にしないで下さい」


 エリザベスは自分へ言い聞かせるように呟くと、深呼吸して心を落ち着かせた。


「ですが、朝市はもう終わっていますし、昼市も今からだと終わり間際になってしまうので買い出しは、また日を改め――――っ!?」


 言い終わる前にレオニードがエリザベスの腕を掴んでぐっと引いた。


「乗れ、昼には着く」


 どうやら彼の愛馬で行けば、まだ市には間に合うと言いたいみたい。

 引き寄せると、そのままエリザベスを持ち上げてフロレスターノに乗せる勢いだったので、腰やお尻には触らせまいと、さっとその手から逃れて彼と対峙する。


「フーノなら確かに間に合うかもしれませんけど、港で買った荷物が詰めません」


 するとレオニードはフロレスターノを呼び、下げた大きなポーチに手を掛けた。


「なにをして……」


 ポーチから出てきたものを次々荷馬車に置く。

 傷薬、解毒薬、短剣に地図、コップなどの食器、火打ち石、厚めの敷布、あとは携帯用の食料と水が山ほど出てくる。

 このまま数日は余裕で野営が出来る量だった。

 元々生存能力高そうだし、いつもこの装備ならどこでも生きて行けそう。


「これでも足りなければ、俺が背負う」


 フロレスターノが、背負っていた物が荷馬車にこんもりと山になっていた。

 これだけの物を背負っていた、あの疾走って何?


「……わかりました。行きます」


 仕方なく返事をすると、また腕を掴もうとする。

 今度は躱すと、エリザベスはフロレスターノのあぶみに足を掛けた。


「自分で乗れます。引っ張らないで」


 フロレスターノの後ろ側に座ると、レオニードが手綱を手にエリザベスの前へ跨がる。


「行くぞ」

「ちょっ、待って! 全速力は……きゃん――――!」


 全速力はまずいので、少しは手加減してと言おうとしたけれど遅かった。

 舌をかまないように急いで口をぎゅっと結ぶ。

 振り落とされないようにするのが精一杯で、気づけばレオニードの背中にしがみついていた。




 フロレスターノとレオニードの疾走は、突風のようだった。

 景色が流れていくというか、溶けて、残像が飴のように伸びていくかのよう。


 村の外側の道を抜けると、森と街道という変わらない景色が続いていく。

 そこでエリザベスは必死にレオニードへ抱きついていることに気づいた。

 手を放したいけれど、放せない。

 何かに掴まっていないと、風圧で上半身が飛ばされて、落馬してしまう。

 他に頼れるものを探して、もぞもぞと動いたけれど、それらしきものは目の前の巨躯以外なさそうだった。

 動いているエリザベスに気づいて、レオニードがやや顔を斜めに向ける。


「こ、これは……その……」


 言い訳しようとするも、馬にのって後ろでもぞもぞする恥ずかしくない理由が思いつかなかった。


「……落ちないようにきちんと掴まっていろ。しゃべると舌を噛む!」


 叱られてしまい、しゅんとする。

 たしかにレオニードの言うとおりだ。掴まっていないと危ない。

 後ろから抱きつくのは恥ずかしいけれど、命には代えられない。

 彼の胴にしっかりと腕を回すと、ぎゅっと抱きつく――――もとい、掴まる!

 すると、姿勢が安定して余裕ができてきた。


 元々馬で走るのは好きなこと。

 自分で操るよりもずっと速い。風を受けるのが気持ちいい。

 エリザベスはレオニードの背中から顔を出して、風を感じた。


「フーノ、速い! 偉い! もっと速く!」


 レオニードかフロレスターノか、はたまたその両方だろうか。

 エリザベスへ応えるように、さらに走る速度を上げていく。

 海が見えてくるのは、あっという間のことだった。




 ノルティア村から最も近い港町――――。

 そこは大勢の人で賑わっていた。


 大きな川が流れ込む入り江にあること、島々に近いことなどから、リマイザ王国の中でもそれなりには大きな港の一つで、国内だけでなく、他国との貿易も盛んな場所だった。

 日用品から野菜や果物、布や装飾品まで、ありとあらゆるものが露天に並ぶ。

 この港が近くになければ、エリザベスの料理研究は何度も頓挫していたかもしれない。


「わぁぁ……相変わらず賑わってる、賑わっている」


 活気みたいなものを感じて、エリザベスも頬を上気させた。

 前世では人で賑わらせることを仕事にしていたので、人で溢れるのを見るのは好きだ。

 レオニードが遅刻してきたことなど、綺麗さっぱり忘れてしまった。

 入り口の厩でフロレスターノを預けると、レオニードと歩いて見て回る。


「よかった、お店まだ沢山やってる」


 露天は、当然仕入れた物がすべて売れれば店じまい。

 心配していたけれど、この客足でもまだ閉じている店は少ないみたい。

「あそこ、良さそう! すみませーん」

 頭の中の買い物リストにある品を露天で見つけると、エリザベスは次々店主に声を掛け、購入していく。

 自然とエリザベスが前に、後ろからレオニードがついてくることになった。

 そして、彼は無言で買った物を取り上げる。

 すべて持ってくれるつもりらしい。

 申し訳ないけれど、甘えることにした。


 ――――今は買い物に集中したいし!


 レオニードの腕の中には、小ぶりなりんごやら、水飴やらが積まれていく。

 ただし、小麦だけは見るだけで中々買わない。

 調理してみないと分からない食材だけれど、材料に占める割合が大きく、味を左右しやすいのでどうしても慎重になってしまう。


「これ、質がいいですね」


 小麦を売る六件目の露天で、やっと質の良いものを見つけた。

 混ざりものが少なく、色も香りもいいし、挽き方も丁寧。


「あんた見る目があるじゃないか。これはうちの亭主が足を使って探してきた特別もんさ。どこの、とは言えないがね。商売上の秘密ってやつさ」


 恰幅の良い女性が捲し立てると、がははっと豪快に笑う。

 気持ちの良さそうな人。経験上、こういう人は信頼できた。


「じゃあ、五袋ください」

「そんなにかい!? まいど……強そうな護衛も連れているみたいだし、あんた貴族のお抱え商人かなにかかい?」


 普通では買わない量に、店の女性が驚いて尋ねる。


「俺は護衛じゃない」


 ――――見張りですよね。

 レオニードの返答にエリザベスはふふっと笑みをこぼした。

 いつもは嫌だなぁという気分になるけれど、何だか今日は悪い気がしない。


「私の正体は……商売上の秘密です」


 ――――なんて、単なる元悪役令嬢のシスターですけどね。


 人差し指を唇に当てて、意味深に言ってみる。

 店の女性と目を合わせ、ハハハッと一緒に笑った。


「……そうかい、そうかい。今後もご贔屓にしてくれるとうれしいねぇ」

「ぜひ! また機会があったら見に来ますね」


 店の人に見送られながら、小麦の露天から離れる。

 すると、またエリザベスが抱えた小麦の布袋へレオニードが手を伸ばす。


「こ、これぐらいは自分で持つので」

「…………」


 彼は手を止めることなく、エリザベスが小麦の袋を取り上げていく。


 ――――少しは優しいところがあるのかな?


 そこでハッとして、ぶんぶんと顔を振る。


 ――――品物を持てば、私が逃げられないとか思ってる?


 確かにあんなに大量に買ったものを放置して逃げることは、エリザベスにできない……たぶん。


 ――――うーん、まあどっちでもいいか。


 大量の買い物に自分でもわかるぐらい機嫌がいいので、細かいことは気にならない。

 今は荷物持ちを名乗り出たレオニードに感謝しておくことにした。


「次はどこだ?」


 尋ねられ、エリザベスはすべてバザーに必要な物は買い終えていたことに気づいた。

 市も大体は見て回れたはず。


「ええと、露天はおしまいで、次は……商会かな」


 エリザベスは苦笑いして答えると、気合いを入れた。

 商会でしか買えないものがあるのだけれど、どう考えても一筋縄でいくはずがなかったから。

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