悟りの境地へ


 仏教で言うところの『悟りの境地』というものが、私にはどうにも理解できなかった。

『悟りの境地』とは、あらゆる煩悩を克服して苦悩のない安らかな心境に達することである。


 しかし、そうは言っても食べなければ腹は減る。

 怪我をすれば痛い。

 病気になれば苦しい。


 どのような境地に達したところで、そうした事実には何の変わりもない。

 いついかなる時も安らかな心境でいられる人間など存在し得るのか?


 どれだけ考えても、私には不可能としか思えない。

 自我がある限り、人は苦痛を無視することはできないはずだ。


 では、自我がなくなれば良いのか?

 虫や植物のように何も考えず、ただ生きれば良いのか?


 そうかもしれない。

 いや、それしかない。


 考えるから悩むのだ。

 悩むから苦痛なのだ。

 ならば、何も考えなければ苦痛はない。


 しかし、人は意図して思考を放棄することはできない。

 たった一つの方法を除いては。

 

 それすなわち、死。

 

 死こそが悟りの境地へと至る唯一の方法なのだ。


 その証拠に、今の私には何の苦痛も悩みもない。

 とても安らかだよ。

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