第185話 書けば書くほど、下手になる
相沢沙呼さんの『medium メディウム』を読みました。帯に書いてあった「ミステリランキング5冠」とかも気になったのですが、出版のタイミングからおそらくカクヨム運営が第6回カクヨムWeb小説コンテストで「どんでん返し」部門新設!と叫び始めた原因がこれなのかなぁなどと考えたからです。
第6回カクヨムコン募集と「どんでん返し」部門の発表が、2020年9月末。
『medium メディウム』の単行本発売が2019年9月なので、ちょうど一年前。タイミングとしては合っているかな?と思ったんです。
『メディウム』は「霊媒探偵城塚翡翠シリーズ」の1作目になるようです。
探偵役の城塚翡翠は、探偵ではなく霊媒師。すなわち霊能者です。その彼女が、殺人事件を推理小説家の香月史郎とともに捜査するのです。
が、ちょっと面白いのは、探偵が霊媒師であるため、死んだ被害者から真相を聞いたとしても、それでだれかを犯人として逮捕することは全くできないという点。
本作は流行りともいえる連作短編の形式をとっていて、ひとつひとつの短篇のトリックはそれほど複雑でもありません。ただ、そこにホラー要素が加わり、独特の作風となってます。
第7回カクヨム・コンテストでホラーが復活した理由が、ホラー要素を含む作品が多かったからということですが、この『メディウム』の存在が大きかった証左かもしれないです。
ちみなに、出版は講談社です。
で、この『メディウム』。読んだ方いらっしゃいますかね。この作品には4つの短編が含まれています。ぼくはこの第2話の半ばで、作者が仕込んだどんでん返しに気づきました。なるほど、こういう構造かと……。
そして、最後まで読んだのですが。ここから先は、本作を読んだことある方には説明不要でしょう。ええ、まさに、その通りです。文庫本のあとがきにも書いてありますが、感想としてこの作者は凄いな、と。
作者である相沢沙呼さんが、苦悩のすえに選択した方法がほんと素晴らしい。
すこし打ちひしがれました。これがプロの作家の力かと。
が、今回語りたいのは、そこではないのです。
この『メディウム』にあった一文です。こんな文章。
◆◆◆
電車を降りたとたん、初夏の暑さが全身に襲い掛かってくるのを感じて、香月史郎は手の甲で額を拭った。
◆◆◆
以上が『medium メディウム』からの引用です。原文ままです。
なのですが、ここに至る前に、もうちょっと、時を遡らせてください。
少し前の事です。
オレンジ11さんが、エッセイの中でこんなことを語られてました。
◆◆◆
『○○が「……」と言った。』
という言い回しが多用されている。この『言った』を、『答えた』、『宣言した』などと言いかえている。
◆◆◆
こちらはオレンジ11さんのエッセイからの引用ではなく、要約です。
そして、このエッセイに対するぼくのコメントが以下です。
◆◆◆
と、彼は言った。
と、彼女は言った。
と、彼は言った。
と、彼女は言った。
なつかしい。書き始めのころはぼくもそんな感じで書いてましたね。
言った。言う。
の言いかえを考える必要ないですよ。
「で、なんの話?」
彼はうんざりと鼻をほじる。
大事なのは「言った」じゃなくて、「彼は」ですから。
だって、「」で言ったことは分かるから。
◆◆◆
こちらはコメントそのままです。
で、ここから。
すこし進歩させてみました。
こんな文章どうでしょう?
◆◆◆
「もしかして、あなたはわたしが犯人であると疑っているのですか?」
無意識に彼は手首の引っ搔き傷を隠した。
◆◆◆
すこし進歩させてみました。
ぼくがたまに語っている行動描写解説です。キャラクターの行動によって、いろいろなものを解説したり、描写したりするやり方ですね。
上記の2文では、探偵が容疑者の一人を犯人であると疑っていること。そして「彼」が真犯人であり、その証拠が手首の引っ搔き傷であることが描写によって解説されています。
が、「無意識に彼は手首の引っ搔き傷を隠す。」という一文だけとると、文章としてかなり欠落がある気がします。
「無意識に彼は手首の引っ搔き傷を隠す。」
この一文だけで完成させようとすると、もっと単語が必要です。
「無意識な仕草で、彼は左手首の引っ搔き傷を右手で覆って、私の視線から隠した。」
とかなんとか。
ここで、話は『メディウム』からの引用にもどります。
「香月史郎は手の甲で額を拭った。」
この部分です。
この文章、小説を書く趣味のある人だと、ふつうはこんな風に書かないでしょうか?
「彼は手の甲で額の汗を拭った。」
ここからちょっと曖昧な話をさせてください。どうにも思い出せないのですが、むかし読んだ小説の書き方の本にこんなエピソードが紹介されていました。
ある小説家が有名な小説家に、小説の書き方を教わるんです。
この、教えた作家、もしくは教えられたほうの作家かはわからないのですが、どちらかがアレクサンドル・デュマだった気がします。
原稿を有名作家に送り添削してもらうと、あちこちに赤が入っていました。「赤い花瓶」の「赤い」という余計な形容詞がとにかく削られていたそうです。
文章は書きなれれば書きなれるほど、書かなければならないことが見えてきて、余計な単語や形容詞が増えて行きます。ひとつの文章として、必要なことをきちんと明記しようとすると、情報量が増えて読みにくくなります。
が、それは、本当に必要な単語でしょうか?
小説上書かなくてもいい表現や説明が、かなり含まれているのではないでしょうか?
なにしろ、小説には文脈というものがあります。その一文で完成させているわけではなく、つらなる複数の文章で表現されているわけです。
同じような話で、ぼくは戦闘描写解説のエッセイで、「右」と「左」を書くなと語りました。また、余計な文字を削除して、読者の脳への入力コマンドを減らせ、とも。
もしかしたら、小説の文体は戦闘描写に限らず、極力余計なコマンドを排して、書きなれた人には必要と思える部分をばっさり切った方がいいのかもしれない。
小説は書きなれれば書きなれるほど、もしかしたら下手になるのかもしれない。そんなことを考えました。もっともっと舌ったらずでいいのではないのか?
たとえば、京極夏彦さんの『京極堂シリーズ』。
第一作の『姑獲鳥の夏』とか二作目の『魍魎の匣』とかは異様に面白かったです。もう文章を読んでいるだけで楽しい。読むという行為が、なにか美味しいものでも食べているような感覚で楽しめました。
ですが、ぼくは八作目『陰摩羅鬼の瑕』の冒頭を読み、なぜかあまりにもつまらなく感じて読むのをやめてしまいました。
先日書店へ、このシリーズの冒頭の文章を比較しにいってきました。
『姑獲鳥の夏』ではほぼ短文で書かれているのに、『陰摩羅鬼の瑕』では複文が多用されているのに気づきます。
文章は書けば書くほどうまくなります。
が、文章が上手くなればなるほど、小説の文章は駄目になるのではないでしょうか。上手くなってはいけないのかもしれません。
小説の文章が上手くなるということは、じつは思っていたのとちがうのではないか。
ディティールや捻った表現ではなく、自身の執筆感覚としてはもっともっと砕けたもの、シンプルなものである必要があるのかもしれません。
細かく、写実的になればなるほど、小説の文章は駄目になる。
もしかしたら、ピカソの絵のように、がちゃがちゃと壊れたようなもの、すなわち書きなれた書き手目線では、駄目な文章、足りていない文章こそが、小説の文体としては魅力的なのかもしれません。
なーんてことを考えつつ、いまは新しいSF小説を書いています。
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