第95話 もっとも影響を受けた本 前編


 書き手としてのぼくが、今まで読んだ中で、もっとも影響を受けた小説について語ります。


 ぼくは子供のころはSF好きでしたが、成長するにつれ、いろんなジャンルの小説に手を出すようになりました。推理小説、ホラー小説、時代小説、冒険小説、ノンフィクション、恋愛……、ん? 恋愛は、『イニシエーションラブ』くらいしか読んでないか。


 ちなみに、知らない人のために解説しますと、『イニシエーションラブ』は恋愛小説というより、ミステリー小説としての傑作作品です。

 B店長のお誕生日にこれをプレゼントして、読後、意味が分からないというB店長に、本編に仕組まれたギミックを解説した、あの苦痛は、今でも忘れられません。


 とまあ、前置きが長くなりましたが、ぼくの書き手としてのアイデンティティーを生んだ小説を、今回は紹介します。



 それは、ロバート・ラドラム作『暗殺者』です。いまは絶版かも知れません。


 子供のころから本好きで、初めて文庫本に手を出したのは中学生。小説を書き始めたのも、そのころです。

 そんなぼくが、二十歳すぎに出会ったのが、この『暗殺者』でした。もう衝撃的でした。

 こんな面白い小説があるのか!? ぼくはこのときまで、小説は絶対に映像に敵わないと思っていたのですが、その価値観を木っ端微塵に打ち砕いたのが、この『暗殺者』でした。


 もう面白いなんてものじゃありませんでした。これに追随できる映像なんぞ、ありはしない。そして、達人の描く文章は、映像を凌駕するということを初めて知りました。



 まずは、文庫本の裏表紙にあるあらすじから紹介します。新潮文庫版(山本光伸訳)のあらすじです。



『僕はいったい誰なんだ? 嵐の海から瀕死の重傷で救助された男は、いっさいの過去の記憶をなくしていた。残された僅かな手掛かり──整形手術された顔、コンタクト・レンズの使用痕、頭髪の染色のあと、そして身体に埋めこまれていた銀行の口座番号──は、彼を恐ろしい事実へと導いていく。自分の正体を知るための執拗な彼の努力は、彼の命を狙う者たちをも引き寄せることになった……。』


 以上、抜粋です。




 『暗殺者』は、記憶喪失の男が自分の正体を探して陰謀渦巻く世界に身を投じてゆく冒険小説です。

 記憶のない彼は、わずかな手掛かりから自分の足跡を追うのですが、彼にはいくつも不思議な部分があります。


 彼はいくつもの言語を自在に操り、格闘技の素養があり、記憶がないにも関わらず自動拳銃を数十秒で分解できます。頭もよく、悪知恵が働き、肉屋の店頭で小耳に挟んだ会話から、あっという間に大金をせしめてしまいます。


 やがて、彼は身体に埋めこまれたマイクロフィルムにあった銀行へ行くのですが、巧妙な待ち伏せに会い、殺されて……しまいません。一瞬の機転で危機を抜け出し逃走します。


 もうここから物語はノンストップです。


 記憶喪失の男は、わずかにフラッシュバックする映像と、どこかで身につけた技術、長年の経験からくると思しき危機回避の勘、そして一瞬の機転で、次々と襲ってくる謎の敵から逃れ続け、自分の正体を探ります。


 かすかに見たことあるような高級ホテルへ入り、失われた記憶を頼りにフロントの男に近づくと、ホテルの男が言うのです。


「お久しぶりです」


 その瞬間、彼は心の中で叫びます。


──きみは、ぼくを知っているのか!? 教えてくれ! ぼくはいったい誰なんだ? 知っているのなら、教えてくれ!


 ですが、記憶喪失の男は表情一つ変えずに、ホテルマンにこう返します。


「やあ、ひさしぶり」


 そして、こう告げるのです。


「すまない。手を怪我してしまってね。字が書けない。すまないが、ぼくの代わりに宿帳にサインしてくれないか?」


 ホテルマンをうまく誘導した記憶喪失の男は、そこで初めて自分の名前を知ります。


 J・ボーン。


 これが、ジェーソン・ボーンの伝説の始まりでした。


 『暗殺者』の原題は『ボーン・アイデンティティー』。マット・デイモン主演で映画化されていますが、あれは駄作です。ボーンは、職質してきた警官が横暴だとしても、それを叩きのめすような間抜けなことはしません。そんなドジを踏んで追跡されてしまうような安い暗殺者ではないのです。

 ちょっとした身のこなし、言葉遣いから別人になりすまし、人ごみの中に埋没してしまう彼は、カメレオンの異名をとる凄腕です。


 伝説の暗殺者ジェーソン・ボーンは、格闘技のすごい男ではないのです。彼の最大の武器は、機転の利く頭脳です。その頭の切れる暗殺者がすべての記憶を失って敵中に放り出されていることからくるサスペンス。自分の正体が分からず、敵も味方も分からないまま彼は国家間の陰謀と秘密作戦に巻き込まれてゆく。彼に与えられたものは、身に付けたスキルと頭脳。そして失われてしまった記憶だけです。


 さらに、三人称で書かれているにもかかわらず、文中に強烈に挿入される心理描写。


 ぼくはこの『暗殺者』に強い影響を受け、その文体を真似て長編小説を書きました。

 それが、『誰にでも一作は名作小説が書けます』https://kakuyomu.jp/works/1177354054882971770で語った『AG』です。


 これがあるため、ぼくは長い間、三人称と一人称が混在する文体で小説を書いてきました。おそらく『剣豪戦隊ブゲイジャー』や『ファイナル・ジ・アース』あたりは、その変態三人称で書かれていると思います。ただし、それは拘りですね。執着でした。


 なんで自分は、その文体に拘っているのだろう。カクヨムで書いていて、どこかでふいにその拘り、もちろん悪い意味としての拘りですが、それに気づきました。今現在はその拘りは捨て、逆に、読者を楽しませることが出来るのなら、手段を択ばないスタイルを模索しています。当然、目的のためには手段を選ばず、三人称中にも一人称をぶち込む覚悟はあります。


 さて、『暗殺者』についてもう少し語りましょう。

 ジェーソン・ボーンは、暴力を振るうことにまったく躊躇がありません。犯罪行為も顔色ひとつ変えずに遂行する冷血な男です。


 彼は逃亡のため、カナダ人経済学者のマリー・サンジャックを人質にして、彼女を引き回します。逃げようとする彼女を躊躇なく平手打ちにもします。

 が、敵の周到な包囲に捉えられ、ボーンとマリーは別々の車に乗せられます。ボーンは腕をつぶされ、マリーは殺されて川に捨てられることに。が、ボーンは機転を利かせ、敵を倒して逃走。そして……。


 みなさん、ボーンは何をすると思いますか? この謎と陰謀と暴力に満ち溢れた作品世界で、このときのボーンは、みなさんの期待通りことをします。彼は、マリーを全力で助けに行きます。




 日本ではあまり知名度のない『暗殺者』(1980年)ですが、各界にようような影響を与えました。



 まず、テレビ映画にて『暗殺者』は、リチャード・チェンバレン主演で映像化されています。こちらはかなり原作通りで、出来も良かったです。少なくともマット・デイモン版よりは遥かに。

 聞いた話では、リチャード・チェンバレンは原作の大ファンだったそうです。



 また、『暗殺者』のボーンを女性にしただけの、ほぼパクリにちかい脚本で作られたのが、映画『ロング・キス・グッドナイト』(1996年)。その脚本料、なんと当時史上最高の四百万ドル。いやそれ、『暗殺者』のパクリなんですけど……。



 そして、もうひとつ。映画『ダイハード』。

 当時のアクション映画の主流は、スタローンやシュワルツェネッガーみたいにマッチョな男が、顔色ひとつ変えずにマシンガンを撃ちまくる物でした。

 が、そこに、ちょっと頼りなくて人の好さそうなブルース・ウィリスが、ひーひー悲鳴を上げながらドンパチやる『タイハード』(1988年)が登場して、大人気になります。

 その『ダイハード』の中のあるシーン。


 高層ビルがテロリストに占拠されたことを知ったマクレーン刑事が、屋上で自らを叱咤します。


「考えろ! 考えるんだ! 何か方法があるはずだ!」


 これぞ、まさしく、『暗殺者』で使われた表現方法です。

 『ダイハード』は原作小説があるのですが、これは『暗殺者』よりも前です。

 原作の文庫が発売されたとき、すでに映画は11月公開が決まっており、ぼくは「あ、この映画、見よう」と決めたのですが、残念ながら原作小説は読まずじまいでした。いまでも、ちょっと気になります。

 ちなみに、映画の公開は、翌年2月に伸びました。



 さて、ネタバレにはなりますが、ここで『暗殺者』の最後の一文を紹介させてください。これを知っても全くもってネタバレにはなりませんし、ほぼ本編とは関係ない情報ですので、ご心配なく。いえ、それ以上に『暗殺者』は、絶版ですしね。


 それでも気になる方は飛ばして読んでください。●と●の間にネタバレを書きます。















 『暗殺者』の最後のセリフです。ボーンは果たして記憶を取り戻したのでしょうか? じつはよく分かりません。ただし、最後に彼はこういうのです。

「ぼくの名前はデービットだ」

 これを聞いて、ぴんときた方、いると思います。そうです。このセリフ、ゲーム『メタルギア・ソリッド』のラストの、スネークのセリフです。ご丁寧に名前までおんなじです。















 ネタバレ終わりました。



 『暗殺者』には続編があります。『殺戮のオデッセイ』と『最後の暗殺者』です。どちらも正直あまり面白くありません。で、この続編、『暗殺者』は新潮文庫から出ているのに、続編はなぜか角川文庫から出ていました。


 また、ボーン・シリーズは、ラドラムの没後、別の作家が書いているようです。面白いんでしょうか。

 また、『トレッドストーン』というテレビ・ドラマがあるようてすが、このトレッド・ストーンは『暗殺者』に出てくる謎の会社です。


 と、ここまで語ってきましたが、たぶん語り続けたらキリがないので、ここらで終わりにします。


 最後に、新潮文庫版、下巻のあとがきに収録されたアンソニー・ショー氏のコラム『真夜中の電話』を要約して紹介させていただいて終了とさせていただきます。コラムを要約するのはどうかと思いますが、全文掲載もまずいだろうと、だいたいのお話で。




 アメリカ東海岸で開催される医師会に出席するため、飛行機に乗ったショー氏は、機内で読むためにラドラムの新作ペーパーバックを購入し、いつもの習慣で見開きに名前と住所を書き込み、離陸と同時に物語世界に没頭する。着陸までに読み切るつもりだったが、どうしてもあと13ページ残ってしまう。読み終えた522ページを持ち歩くのは重いのでやめ、読んでいない13ページを破いてポケットにつっこみ、残りは機内に残し、ホテルに向かうタクシーの中でラストの13ページを読み終える。

 そして、ロサンゼルスの自宅にもどってほっと一息ついたとき、電話が鳴ったそうだ。時刻は午前一時。

「ショー先生ですね」男の声は緊迫していた。「こんな時間にすみません。いまニューオリンズは午前3時です。迷惑だとは承知ですが、ぜひ、教えてください。あの本の続きがどうなったかを!」






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