第5話 幽世
「えっ、えっ?こ、これどうなって……」
モノクロに近い色素の薄まったような光景が目の前に広がっている。
完全に違う世界に迷い込んだ感覚に混乱して辺りをきょろきょろと見まわしてしまった。
だってそうだろう。
目の前まで迫ってきた男の人がどこかへ掻き消えて、周りはいつもの光景のはずなのに色素が薄くなっているおかげで別の光景にも見える。
隣からの壁を叩く音もなくなり、手をつないでくれている少女と私の二人以外に人がいないとしか思えないほどの静けさが辺りを満たしているのだ。
心なしか普段よりも空気も重いような気がするのは気のせいか否か。
「ここが“
「死後の世界?!確かに音も人の気配もないから寂しい感じはするけれど……。そんな所にいて私達、大丈夫なの……?」
こう、例えば振り返ったらいけない場所があるとか、長く滞在すると魂を狩りそうな存在が徘徊してるとか。
そんなどこかで見た例は置いとくとしても、確かに死後の世界と言われて納得できる程度には、静かすぎて現実味がない空間ではある。
「そう怖がるな。
元の世界が地上とするなら、幽世は境界を隔てた先にある地上の光景を表面に映した水中のようなものに過ぎんよ。見えている光景は元の世界そのままだが、こちらからは干渉できんしな」
そんな空間にこうしていられるのは、目の前の少女の仕業なのだろうか。
ビフロンスを容易くあしらう強さ。この不思議な空間に出入りできる不可思議さ。
一体、彼女はどんな存在か。
ところで、元の世界そのままって事は……この部屋の惨状は現実という事ですかそうですか、それは分かりたくなかった。
「まぁ、我々にとっては他人に見つからないように移動する時に使う通路のようなものだ。
普通に使う分には危険はないと言うけれど、普通じゃない使い方とは?そして何が起こるんだろうとか色々考えたくなるけれども置いとこう。
藪蛇で何が飛び出すか分からないし。知らない方が良い事もあるかもしれないし。
「それなら、あのビフロンスが使ってたような人払いの結界……?みたいなの張って移動すれば安全じゃないの?」
「あれは場所を移動できない上に手間がかかる。
それに効くのは人だけだから、人以外に対してはかなり目立つ。我のように簡単に割って中に入れるしな。こういう移動には向かんよ」
そういえば、この子が助けに入ってくれた時、ガラスが割れるような音が鳴ってたっけ。
窓のガラスは割れてないようだし、あれが結界を割った音なんだろう。
だから割れてしばらくしたから防塵マスクの人も入ってこれたのかもしれない。
「それと……言いたくは無いが結界の類を張るのは我は苦手だ。
ああいうのが得意なのは“魔人”の類でも悪魔や魔女や妖精の類だろう」
苦手というのは多分本当だろう。なんだか悔しそうな顔をしているし。
そして話を聞く限り、“魔人”というのは人以外のよくあるRPGや伝説や映画とかに出てきそうな人外の総称な気がする。確証は後で聞かないと得られないだろうけど。
とすると、目の前の彼女はどんな種類の魔人なのだろうか。
今のところそれらしい特徴は見受けられないから想像するしかないけれど、ぱっと思いつく物がない。
結界は得意じゃないって言ってるから魔女ではないって言ってるようなものだし。
うーんと唸りながら少女の方を見れば、どうした?と怪訝な表情をされたので、なんでもないと視線を外した。
さすがにじっと見続けたら失礼だと思うし、それ以上に気になることができてしまったのだ。
「あ、あれ?……なんか視界が変な感じ?」
さっきからなぜか視界がぶれる様に目の前が揺らいでいるような気がするのである。
色素のある元の世界と色素の薄い幽世、それらが混線するように目の前で明滅し続けている状態。
あまりの視界の不安定さで自分の足でちゃんと立っているはずなのに、足元が不安定でグラグラしている場所にいるような不快さ。
さらに脳が直接揺さぶられているような感覚によって、吐き気を抑えるだけで精一杯。
「うぷ、気持ち悪い……何これ」
「おい、まさか潜る時に目を開け続けたんじゃなかろうな。だから目を閉じていろと言ったというのに」
必死に吐き気をこらえて俯いている私には少女の顔はよく見えなかったけれど、彼女の声色からして呆れているように聞こえる。
「この幽世は本来、人の身では来れない場所。
それゆえに、目が本来の世界と幽世両方を映そうとして脳が混乱しているんだろう。まぁ有体に言えば酔っているようなものか。
ほれ、少ししゃがんで目を瞑っていろ。少し休むぞ」
「う、うぅ……」
少女の解説を余裕がなくて聞き流しながらも、言われた通りに床にしゃがんで目を閉じる。
目を閉じるだけでも視覚から来る不快さや不安定さが無くなって随分と楽になった。
あとは頭のグラグラと吐き気をどうにかできれば歩けるようになるとは思う。
「こういう時は背中を擦るのだったか?吐き気が治まってきたら言うと良い。
その頃には目も慣れてるだろうよ」
そう言って、少女はしゃがむ私を真正面から抱きしめるようにして、私の背中をゆっくりと撫でてくれた。
こみ上げる吐き気も少女の優しい手付きに溶かされていくように徐々に無くなっていくのを感じる。
こうしてあやされるように扱われると ある種の恥ずかしさも感じるけれど、あまり気にする余裕はない。
さらに吐き気が完全に治まってくると別の気になる事が出てきてしまった。
(この子、私より胸あるな……!?)
必然、この格好だと彼女の胸元に頭を埋める形になるのだけれど、気持ちに余裕ができると頭部のあちこちで分かる感触から、身長の高い私より発育が良ろしいのではなかろうかという疑惑が持ち上がってきたのだ。
少女の顔立ちは西洋風な感じだし、やっぱり外国の子は発育が良いのだろうなぁなどと謎の敗北感を得てしまうのは致し方ない事であっただろう。
だ、大丈夫。私も平均くらいはあるし。多分、きっと、おそらく、めいびー。
「も、もう大丈夫だから!ありがとう、背中さすってくれて」
「そうか。だが、気にするな。
吐き気も酔いも治まったなら移動するぞ。このまま手は繋いでな」
その謎の敗北感を振り払うように顔を上げて立ち上がろうとすれば、彼女の方も立ち上がって移動を促してくる。
私の感情を知ってか知らずか。治ったならそれでいいと言うようにやはり淡々としていながら、まだ少し本調子に戻ってない私に気を遣ってくれたのか、手を繋いで先導してくれるようだ。
確かに、私としても目の前の家具やら部屋が荒らされた状態を長く見ていたくはないし、移動するのに異存はない。
まったく……視界のブレが無くなると同時にいっそ目の前の惨状も無くなればいいのに。そうすれば(家に戻るまでは)心の平穏が保てそうだし。
「ところで場所を移動ってどこに……どうやって?」
「向かう先は我のねぐらだ。安心しろ、徒歩だがそこまで遠くはない。
町外れに小高い山があるであろう?そこにある」
言われた場所は、あぁあそこかぁと思えるくらいには地元でも分かりやすい所。
確か私有地として山をまるまる買い取って住んでる物好きがいるとかなんとかって噂をいつだか誰かから聞いた覚えもある。
昔はその辺りで幼馴染達と遊んだ事もあったっけ、なんて事も思い出した。
少女に促されるまま玄関で靴を履いて、蹴破られた扉はなるべく見ないようにしながら外へと出た。
そういえば、ドアが蹴破られていなかったら、幽世ではこの扉を開けられなかったのだろうか。
その場合、外に出るなら窓からベランダに出て飛び降りたりしないとと考えれば、良かったのか悪かったのか。
いや、悪いな。物的被害があるし、ベランダからでも頑張れば降りられなくもないし。
それにしても、やはり外の景色も色素の薄い光景が続いているのは何とも言えない気分になれる。
ただ、部屋の中と違うのは。
「うわぁ……真っ赤な月」
部屋の中からは気付かなかったけれど、空に浮かんでいる月は赤く染まっていて、色素の薄いこの世界では不気味さや異様さを際立たせているようにも思える。
他にも、うっすらと光を放つ拳大の靄みたいな物の塊が、空中でいくつもふわふわと漂っているのが見えた。
なんだろうと思って それの一つに触れてみれば、静かに弾けて何も残さずに消えていってしまう。
「それは死んでいった者の残留思念や魂だった物の残りカスのようなものだ。
触れれば簡単に壊れるからな。あまり触れてやるなよ」
「え、あ、いや、これはわざとじゃなく、なんだろうと思って触れたらこうなったわけで……」
触れて壊してしまった事を咎められたのかと思って慌てて弁解するも、少女の方はキョトンとした表情をした後、ニヤリと笑みを浮かべた。
「案ずるな。もともとそれらに何かを為したり害を与えるような意志は無い。一つや二つどうこうしたところで問題はないはずだ」
そう言った後は、彼女はまた前を向いてしまった。
もしかして今のはからかわれたのだろうか。
こう、初対面の相手だと、どうにもその辺りの冗談とそれ以外の境界が分かりづらい。なんにせよ友好的であると見て良いのだろうか。さっきも助けてくれたのだし。
そういえばと、ずっと彼女と手を繋ぎっぱなしになっているのを思い出す。
繋いだ手を軽く引っ張るように少女が先導して、私は少し後ろを同じ速度でついていく形。
まるで引率されてるようなのと、子供みたいにあやされた先ほどの事を思い出して気恥ずかしさがぶり返してきた。
そうなると調子も戻ってきたし、できればこの手は離して欲しくなるわけで。
「えーっと、手はもう繋がなくても大丈夫。ほら、道は知ってるし、先導して案内してもらわなくても大丈夫だって」
そう言って軽く握ってくる彼女の手からすり抜けるように自分の手を離した時だった。
「バカ、今手を離すと……!」
目に映ったのは振り返り、驚きで月と同じ赤で輝く目を見開いた少女の顔。
そして……次の瞬間には彼女自身が何かを言いかけたまま掻き消えてしまった。
「え、なんで急にいなくなって……幻だったとか……?」
それならそれで、周りの色を失った世界と天井に輝く真っ赤な月も元に戻っていて欲しいものだけれども、そちらには元に戻るような変化が見受けられない。
不気味な静けさを保つ世界は今も私の周りに存在している。
「いや、いやいやいや、これ、もしかして私が手を離したから、だよね?」
なんで目の前にいたあの子がいなくなったのか。詳しい理由は分からないけれど、今とてつもなく不味い状況になっていそうなのは直感でわかる。
もしかしたら、いなくなったのは
さらにまずそうなのは、周りの光景の色がさらに失われていってるように見える事だ。
もうしばらくすれば完全に周りはモノクロの世界になってしまうんじゃないだろうかと予想できるほどに、その変化は顕著で早い。
そんな中でも、天上の月は不気味に赤く輝いていてさらに現状の異質さを際立たせている。
「と、とにかく!目的地は外れの山だったから、そこにつけばいいはず……!きっと……」
自信はない。確証もない。だけど、このままじっとしているには不安が大きすぎた。とにかく動いてないと その不安で押しつぶされそうなくらいには。
例え、それで状況がより悪くなるかもしれないって考えが頭をよぎったとしても。
まずは走る。目的地の町外れまで。ペースは息切れしきらないランニングくらいの速さで。
これくらいのスピードなら、たどり着くまでペースダウンせずに行けるはず。
そう思って百メートルほどまで走った頃だった。
「はぁ……はぁ……。そんなに、走ってない、はず、なのに……」
息切れが止まらない。普段ならこの距離よりもっと長く走ってもこんなに息切れはしないはず。
止まらない息切れだけでなく、走る体も重く感じて、だんだんと動きも鈍くなっていってしまっている。
「はぁ……はぁ……まだ、全然、走って、ないのに……もう、あ……え?」
気付けば自分の足が止まっていた。体が重いだけじゃない。もっと大きな変化を目の当たりにして、驚きで身がすくんでしまったのだ。
なんと世界が黒く染まり始めていた。
モノクロの世界だった光景が迅速に刻々と黒に染まっていく。
天上も漆黒に塗りつぶされていき、赤く輝いていた月もその輪郭だけ赤く染めて全て黒に変わっていった。
気付けば辺りは黒一色の世界。
明かりは月の輪郭から漏れる赤い光と、時折空中を漂っているいくつかの小さな光の靄のみ。
その光景だけでも不気味な物であったが、それ以上に悪寒を感じさせる事がさらに起こった。
(何かに……見られてる?)
ぞっとするような誰か、いや
それは助けてくれた少女のものでも、襲ってきたビフロンスのものでも、今まで出会った人々とも違う。
もっと無機質で底冷えしそうな圧力さえ感じるほどの視線。
脚が震える。多分動かなくちゃダメなのに、体が重い。
空気が、視線が、絡みつくように私の体全体を縛ってきているように感じる。
何か、巨大な気配が近づいてきている。
ズリズリと、大きなものを引きずるような音を立てて、徐々に、徐々に、後ろから。
振り返りたい。でも振り返れない。多分、
それほどまでに、近づいてくる気配は異質で圧倒的だった。
(あぁ、もう!なんでこう軽率な事したかな私……!)
あの時、少女の手を離さなければ おそらくこんな事にはなっていないだろうと思うと、後悔で涙が出そうになる。
手を繋いでいくと彼女が言ったのは手を繋いでないとダメという事だったのだ。
普通の人間は幽世に本来 来られない。つまり、今の私はイレギュラーで、私一人では何が起こってもおかしくなかったのだ。
正直、このまま後悔と疲労で
(とにかく……今はここから逃げ出さない、と……!)
足が動かないなら、意地でも動かす。強張る足を前へと上へと動かして一歩。
腕が動かないなら、気合いで動かす。腕と一緒に体ごと引っ張るように一歩。
大丈夫、何とか動く。一度動き出せれば、あとは流れ作業のように体を動かしてとにかく前へと進んでいく。
問題は、近づいてくる後ろの気配の方が速そうな事なのだけれど。
(せめて、どこまで逃げれば助かるとかあれば……)
ゴールが見えない事が体力的にも気力的にもかなり辛い。
終わりのない捕まったら終わるであろう鬼ごっこは正直御免被る。
「……けた……い、手を……せ!」
息を切らせ、緊張と疲労から来る汗を流しながら、走り未満歩き以上の速度で移動していると、聞こえてきたのはあの少女の声。
途切れ途切れの声ではあるけれど、この余計な音のない空間で聞き間違えるわけがない。
が、足は止めないようにして声の主を探してみるが見つからない。
声が途切れ途切れなのも関係あるのだろうか。
「どこに、どこに……いますか!」
「聞こえて……か……とにかく、手をの……せ、声の……る方向に!引き……る!」
さっきよりも聞こえるようにはなってきた。
手を……伸ばす?声のする方向に?かなと予想しつつも、声のする方向ってどこだという壁にぶつかった。少なくとも後ろではなさそうで良かったけれど。
もう一度同じような声が聞こえたけれども、どうにも判断できかねる。その間も後ろの気配は刻一刻と近づいてきている気がする。
(こうなったら声が聞こえてきた時に目を閉じて声に集中すれば……)
我ながら無謀というか後先考えない行動だとは思うけれど、何度聞いても声のする方向が分からないから、どうにかするなら現状の手段を変えるしかない。
希望を見出しながらも不安に駆られ、心持ち移動する速度を上げつつ次のチャンスを待つ。
そしてまた少女の声が聞こえた時、目を閉じて声の聞こえる方向を探ってみるが。
(駄目、やっぱり分からない……!)
目を閉じて集中しても、周りから聞こえてくるような、頭に直接聞こえてくるような、そんな曖昧な感じで方向どころか距離すらも定まらない。
それで声のする方に手を伸ばすなんて無理な話だったのかもしれない。
それでも諦めずに目を閉じたまま、闇雲にでも手を伸ばし続ける。どれか、声をかけてくる彼女に届けばいいと願いながら。しかし。
「あっ……」
目を閉じながら移動すれば、どうしたって足元がお留守になる。
そうすれば、道端の何かに足を引っかけてしまうのも道理だろう。
そして今の私は巨大な気配との鬼ごっこの最中である。
もしここで転んでしまえば、今より確実に距離は詰められてしまうだろう。下手をしたらそのまま捕まってしまうかもしれない。
そして捕まってしまえば……、あまり想像したくない未来が待っていそうなのは予想できる程度には危険感知能力はあるつもりだ。
「翠!こっちだ!手をのばせ!」
その時、一際はっきりと少女の声が聞こえた気がした。
相変わらず、方向や距離が判別できなかったけれど、なぜだかその時だけはどこから声が聞こえたのか感じ取ることができた。
(――そこっ!)
転びそうになっている不安定な体勢で、目を開いて精一杯そこへと向けて手を伸ばす。
伸ばした先は何も無いはずの空間。ちょうど転びそうになっている先で助かったかもしれない。
垂らされた蜘蛛の糸に捕まるような分の悪い賭けだったかもしれないけれども……確かにつかめた。
ここに落ちてくるまでずっと繋いでいたあの手の感触。
「引き上げるぞ……!」
先ほどよりもはっきりと聞こえる彼女の声。
その声と共に、この空間から引っ張り上げられるような感覚を得て、助かったと確信しながら私は気を失った。
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