第127話 至高の暗号

 澄んだ冷たい空気の中で満月が輝いている。


 そんな冬の夜、ベータは彼女の主の下に定期報告に来ていた。


 いつものようにシャドウガーデンの活動報告が終わり、話がミツゴシ商会の活動報告へと移ったときだった。


 普段は基本的にシャドウガーデンの活動報告しかしない。ミツゴシ商会はシャドウガーデンの付属物に過ぎず、そんなことに彼の手を煩わせるわけにはいかないからだ。


 だが、現在ミツゴシ商会は窮地に立たされている。


 そんな空気を彼も察したのだろう。


「ふむ」「ふむ?」と頷くだけの主の空気が変わった。


 主は姿勢を正すと懐からメモ帳を取り出し、ベータの報告を聞きながらメモを取りだしたのだ。


 そして――。


「なるほど、それで?」


「――ッ!?」


 主が定期報告で「ふむ」以外の言葉を発した。 


 驚愕でベータの言葉が一瞬詰まった。


「し、失礼しました。流通している偽札の量は――」


 ベータは報告を聞きながら主の鋭い視線を感じ嬉しくなった。


 主が本気になっている。


 彼女の主は普段から忙しく、ベータたちの活動に手を煩わすことはまずない。彼の力と時間は大いなる目的のために使われているのだ。


 その主が本気になっているということは、今回の事件はそれだけ重要だということを意味する。


 事実、このまま偽札が流入し続ければ、ミツゴシ商会は存続の危機に立たされるといっても過言ではない。


 デルタの件もあって、シャドウガーデン全体が重たい空気に包まれていた。しかし、主が本気になっているのだとしたら――この窮地は必ず乗り越えられる。


 ベータの胸に熱いものがこみ上げてきた。


「流通する通貨の総量が増えたことで物価の上昇も始まっており、その上昇率は……」


「少し、分からないな……」


「――ッ!?」


 主は今、少し分からないと言った。


 当然、それは言葉通りの意味ではない。彼女の主はすべてを理解しているのだから。ならばその発言が意味するところは――報告内容の誤りだ。なぜそのような愚かな間違いを犯すのか理解できないと、彼は言ったのだ。


 上昇率を間違えたのか、それとも元となる思考が違っていたのか、とにかく彼は彼女の報告の誤りを一瞬で見破り指摘したのだ。


「す、すぐに調査と解析をやり直させます」


 本気になった主の前で失態を曝してしまった。ベータの顔が悔しさと羞恥に赤くなる。


「分からないが、まぁそのまま書くか」


「は。申し訳ありませんでした」


 そして定期報告は、終わった。


 だが、今日はまだ報告しなければならないことがある。


 メモを閉じようとする主を見つめて、ベータは重い口を開いた。


「本日はもう一つ報告があります」


「……聞こう」


 その静かで、どこか眠そうにも見える彼の瞳を見て、ベータは理解した。


 彼は、これから彼女が話すことを察している。考えてみれば当然だ。主が知らないほうがおかしいのだ。


 だが、それでも彼女は報告しなければならない。


 大切な仲間の死を……。


 それが仲間を死なせてしまった彼女たちの義務だから。


「ジョン・スミスを追わせていたデルタの消息が途絶えました。状況から見て、デルタの命はもう……」


 ベータの声が震える。デルタは、彼女にとっても大切な仲間だった。手のかかるところもあるけれど、いつもベータの心を和ませてくれる可愛い妹分だったのだ。


「デルタが……」


 ベータの報告を聞いた彼は首を傾げ、少しの間何かを考えこんでいた。


「いや、待て。デルタは少し遠いところに行っただけだ」


 そして主はそう言った。


 その言葉の裏にある優しさに、ベータは涙を堪えることができなかった。


「そう……ですね。わかりました。デルタは少し遠いところに行ってしまったのですね……」


 ベータの頬にとめどなく涙が流れていく。


 主の不器用な優しさが嬉しかった。


「そうか、分かったのなら問題ない」


 主は頷いてそう言った。


「ジョン・スミスは相当な手練れだと推測されます。もし可能ならば、シャドウ様に手伝っていただきたいのですが……」


「すまないがこちらにもやることがある」


「いえ、ご無理を言って申し訳ありませんでした」


 仕方がないことだ。だが主は既に別の方向から動き出しているのだろう。


 そしてそれは必ずミツゴシ商会にとって、そしてシャドウガーデンにとって必要なことなのだ。


「では、今日はこれで失礼しますが……その前に」


 報告はすべて終わり、ベータはすぐ次の任務へ動かなければいけないが、その前にどうしても確認しておきたいことがあった。


「あの、シャドウ様、大変申し訳ありませんがそのメモ……」


「メモ?」


「はい、そのメモなのですが、機密文書はすぐに処分するか暗号化しなければならない規則がありますので……」


 当然、彼はこんなことは理解しているだろう。念のため、確認だ。


 主は一瞬だけ動きを止めて、それからベータにメモを渡した。


「読んでみろ」


「こ、これは……!」


 そこに書かれていた文字を見てベータは驚愕した。


「ひらがな、カタカナ、漢字、アラビア数字、ローマ字、独自に開発した五つの言語を用いて書かれた暗号文だ」


「こ、これをシャドウ様お一人で!?」


「ああ」


 そこにある文字はただでたらめに書かれているわけではない。シンプルでありながら規則性を持ち、複雑でありながら無秩序だ。


 複雑に混じりあった五つの言語を解読するのは困難だろう。


 これをたった一人で作ったという主を、ベータは尊敬の眼差しで見つめた。


「あ、あの、もしよろしければこの暗号を教えていただきたいのですが……」


「ふむ……まだ早い」


「そ、そうですか……」


 ベータはがっくりと肩を落とした。


「だが、そうだな……」


 主はそう言ってメモ帳にスラスラと何かを書いて、そのページを破ってベータに渡した。


「これは……?」


「その意味が分かったら教えてやろう」


 そこに書かれていたのは五つの言語が混ざった文章だった。


「あ、ありがとうございます!」


 ベータはメモの切れ端を胸の谷間に大事に収めて、すぐに研究室に送って解析させることにした。

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