第112話 右手が疼いたからしょうがない

 朝日に照らされた黒塗りの豪華な馬車を眺めながら、僕は欠伸をした。馬車の窓は分厚いカーテンで遮られて見えないが、中では姉さんと吸血鬼のお友達がお別れ会をしているはずだ。


 透き通った秋の空気が気持ちいい。


 いろいろあったけど、本物の真祖の吸血鬼イベントは終わった。途中、予期せぬトラブルのせいで苦労したけど、最終的にはリカバリーできたわけだし、終わりよければ全てよしでしょ。


 ただ、全ての金貨がリカバリーできたわけではない。最盛期は金貨三千枚でウハウハだったのに、いろいろあったせいで最終的に持ち出せたのは五百枚だった。


 金貨五百枚、つまり五千万ゼニー。一生暮らすには全然足りない。


 でも、よくよく考えたらこれで十分なことに僕は気づいた。


 なぜなら無法都市はかわらずそこにあって、塔もまだ二本も残っている。


 金に困ったらまた来ればいいのだ。


 そう、無法都市は僕の貯金箱なのだから。


 しばらくして、馬車の扉が開き姉さんが出てきた。


 姉さんなんだけど、実は大変なことになってしまった。


 事件は昨夜、宿泊先の宿で起きた。


 今回の吸血鬼イベントに姉さんは僕を探したせいで巻き込まれてしまったらしい。だから一応謝っておこうかなと、僕は姉さんの部屋の扉を開けた。


 その時、僕は目撃してしまったのだ。


 姉さんの右手にカッコイイ魔法陣が描かれていて、姉さんがそこに包帯を巻いて隠している瞬間を。


 さらに姉さんは「右手が疼く……私には特別な力が……」と呟いたのだ。


 僕は何も言わずにそっと扉を閉じた。


 魔法陣、包帯で隠す、特別な力のトリプルコンボだ。


 そう、姉さんもそういう年頃になってしまったのだ……。


 黒塗りの馬車から出た姉さんは、どこか陰のある微笑みで歩いてくる。


 僕はできるだけ普段通り声をかけた。


「もういいの?」


「ええ、行きましょう」


 僕らは二人で歩き出す。


 と、その時。


「シド……」


 突然、僕は後ろから抱きしめられた。


「……どうしたの?」


「なんでも、ない……やっぱり、ある……実は私……」


 来た……!


「特別な力が眠っているの……」


 カミングアウトイベントである。


 ここで否定してはいけない。安易な否定から子供は非行に走るのだ。


「わかってる。僕も姉さんは特別だと思ってた」


「やっぱりシドは信じてくれるのね……」


 姉さんの腕に力がこもる。


「私はこの力の謎を解かなきゃいけない。そして、彼は何者なのか、この力で私は何を成せばいいのか……」


「うん、姉さんならきっと大丈夫さ。僕は姉さんがどんな道へ進んでも応援するよ」


「シド……」


 この先、様々な苦難が姉さんを待ち受けるだろう。悩み、苦しみ、現実に直面するはずだ。でも、右手が疼いてしまったのだから仕方ない。人はこうして大人になっていくのだ。


 最終的に彼女がどの道を歩もうとも、僕は彼女の選択を尊重しようと思う。なぜなら彼女が歩む道は、かつて僕が歩んだ道でもあるのだから……。


 その時、背後から視線を感じて、僕は少し振り返った。


 黒塗りの馬車の前に、黒い大きな日傘をさした女性が立っていた。


 日傘に隠れて顔は見えなかったが、美しい真紅の髪が秋の風に揺れていた。


 彼女はそこで、優雅に一礼した。




 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




『妖狐』ユキメは『白の塔』の最上階で待っていた。


 外からは白い月の光が差し込み、蝋燭の火が卓上に置かれた豪勢な食事を照らす。


 その時、薄闇の中に黒い影が現れた。


「来んしたか……」


 いつの間にか、襖の前に漆黒のロングコートを纏ったシャドウが立っていた。


「シャドウはん、お待ちしていんした」


 すると大胆な着物を着た美女が二人、シャドウを案内する。


 シャドウはユキメの向かいに腰かけた。


「要件は……?」


 そして深淵から響くかのような声で言った。


「先日はまことにお世話になりんした。わっちの命があるのもシャドウはんのおかげどす」


 ユキメはペコリと頭を下げた。


 大胆に開けた着物の胸元で、二つのふくらみが揺れた。


「お礼、受け取ってくれますか? ナツ、カナ」


 そして、妖しく微笑んだ。


 ナツとカナと呼ばれた二人の美女が、着物を開けてシャドウに歩み寄る。


「言ったはずだ。助けたつもりなどない、と……」


「こういうのはお嫌いどすか……? 残念でありんすが、仲良うなってからにしんしょうか」


 ユキメの合図で、ナツとカナは部屋を去っていった。


 ユキメはシャドウの隣にぴったりと寄り添って、酌をする。


「最高級の和酒どす」


 しかしシャドウは手を付けようとしない。


「要件を言えと言ったはずだ……」


「わっちはシャドウはんと仲良うなりたいだけどす……」


 と耳元で囁くように言って、小さく笑った。


「けど、仲良うなるには時間をかけんしょう。代わり言うてはなんどすけど、お礼にええ話をお持ちしんした」


 ユキメは二つのふくらみを押し付けて話し出す。


「ミツゴシ商会包囲網って、知ってますか。ミツゴシ商会の躍進に焦った商会たちが手ぇ組んで、ミツゴシ商会を潰そうと企てとるんどす。わっちも外では健全な商会を経営しとりんす。ずいぶん、大きいどすえ……」


 ユキメは最後の言葉を意味深に言って、艶やかに微笑んだ。


「ミツゴシ商会か、商会連合か……どちらが勝つにせよこの辺の商の天下分け目の戦いになりんす。わっちは今のとこ商会連合に入ってますが、勝つのはミツゴシ商会でも商会連合でもありんせん」


 シャドウの耳に触れそうなほど、ユキメは唇を近づけた。


「勝つのはわっちと、シャドウはんどす……。わっちらで手ぇ組んでおいしいとこ全部いただきんしょう」


 そしてフッと吐息を吹きかけて、シャドウの肩に頭をのせる。


「わっちとシャドウはんで、世界の商を支配する陰の大組織を作りんせんか……?」


 ユキメの誘惑に微動だにしなかったシャドウの耳が、この瞬間ピクリと動いた。

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