第110話 彼女の主
ベータたちの前に舞い降りた影は、ロングコートを靡かせて漆黒の刀を抜く。
「てめぇは――!」
「ぬしは――!」
「――シャドウ様!」
ベータは歓喜に震えた。
彼女の主は、これまでどんな強大な敵を相手にしても打ち破ってきた。彼女たちがまだ幼く、弱かったころからずっと、主は彼女たちの前で戦い続けてきた。ベータはその背中を見て育ったのだ。
だからベータには、主に対する絶対の信頼がある。
たとえ何があろうと、主がいれば大丈夫。
その信頼と安心感からか、それとも主を久しぶりに見たからなのか、ベータの目には主の姿がいつもより一回り以上大きく見えた。
しかし、誰もがベータと同じようにシャドウを見ていたわけではない。
「やめとけ、てめぇでも無理だ」
「シャドウはん、気を付けなんし」
ジャガノートは不満そうに、ユキメは不安そうにシャドウを見ていた。
失礼な!
ベータはキッと二人を睨む。
主に任せていれば大丈夫なのだ。
そうこうしているうちに、シャドウと『血の女王』の間の空気が張り詰めていった。
シャドウは漆黒の刀を構え、『血の女王』は赤き触手を展開する。
その時、ベータは気づいた。
『血の女王』の圧力が増大していることに。
「底なしかよ、化物が」
「まだ全力ではなかったの……」
ジャガノートとユキメも気づいたようだ。『血の女王』はクレアと戦った時よりさらに力を増している。
彼女の瞳は赤い宝石のように輝き、その身に纏う血のドレスもより鮮やかに生き生きと蠢く。
シャドウと『血の女王』の緊張がさらに高まり――血の触手と、漆黒の刀が交わった。
数え切れないほどの触手がシャドウを襲い、シャドウはそれを斬り落とす。
紅と漆黒の軌跡が幾度となく衝突し、両者の凄まじい速さに音が追い付かない。
しかし、二人にとってそれは牽制でしかなかった。
ふと、『血の女王』の姿が揺らいだかと思うと、彼女は突然シャドウの背後に現れた。
赤い爪が、シャドウを背後から襲う。
だが、今度はシャドウの姿が揺らいだ。
爪が空振り、『血の女王』の胸を背後から漆黒の刀が貫いた。
バシャッと。
水が零れるような音と共に『血の女王』が弾け、辺りに血の鏃を撒き散らす。
シャドウはそれを刀で弾き、『血の女王』は最初にいた場所に立っていた。
二人は振り出しに戻ったかのように対峙する。
「嘘だろ……」
「まさか、これほどとは……」
とても目で追えない高速戦闘に、誰もが驚愕し、ベータは歓喜した。
これが、彼女の主なのだ。
しかし、同時にベータは言葉では言い表せない違和感に気づいた。それが何なのか分かる前に、『血の女王』が動いた。
彼女は自分の触手を二本切り離し、その血で二体の分身を作り上げたのだ。
「これが、エリザベート様が最強の始祖と呼ばれる理由です。エリザベート様は血で分身を作り意のままに操ることができるのです」
三人の『血の女王』を相手に、再び戦いが始まった。
触手の牽制を、漆黒の刀が弾く。
先ほどと同じ光景が繰り返される。
しかし違うのは、三人の『血の女王』が奇襲してくることだ。
彼女らは触手の間に突然現れて、背後から、頭上から、横から、次々とシャドウに襲い掛かる。
だが、シャドウは三人の奇襲を巧みに躱していく。
それは、まるで永遠に続くかのように拮抗した戦いに見えた。
だが、ベータは最初の違和感が次第に大きくなっていることに気づいた。
それが、何なのか――。
果たして、彼女の知っている主がこれほど長い間、切り結ぶことがあっただろうか。
否。
何かが違う。
いつもの主とは、何かが違う。
ベータの心に、急に不安が押し寄せてきた。
ベータは不安の種を探すかのように戦いを注視する。
赤い触手の群れがシャドウを襲い、三人の『血の女王』が奇襲する。
その繰り返しの中で、ついにベータは気づいた。
シャドウは『血の女王』の攻撃を巧みに防いでいるが、その後の反撃に繋がっていないのだ。
どれほど守りがうまくても、攻撃しなければ敵は倒せない。
なぜ、シャドウは反撃しないのか。いや、できないのか。
シャドウは四方から絶え間なく襲い掛かる触手に動きを封じられ、さらに『血の女王』の奇襲によって完全に後手に回っている。
なぜ、このようなことが起きるのか。
それは――シャドウの足が止まっているからだ。
ベータの知っている普段の主なら、敵の攻撃を最小限の動きで躱し即座に反撃に移る。しかし今は、爪や触手を主に刀で弾いていた。刀で弾けば、反撃はワンテンポ遅れる。その間に二人目三人目の『血の女王』が襲い掛かり、反撃の機会を失うのだ。
なぜ――。
なぜ躱さないのですか、主様――?
主の足が重い。主の動きが固い。
触手を弾き、その場に立ちふさがるその戦い方は、まるで――何か大切なものを守るかのようだった。
「――ッ!?」
その瞬間、ついにベータは気づいたのだ。
シャドウの背後に、ベータがいることに。
さらにベータの背後には傷ついた664番と665番が、それを守るかのように立つ666番が、そして気を失った主の姉が倒れていた……。
「あ、ぁぁ……」
ベータの声が震えた。
主は、ずっと彼女たちを守りながら戦っていたのだ。
大切なものを……。
そして――戦いの均衡が破れた。
ついに、シャドウは倒れたのだ。
赤き触手が彼を弾き、さらに三人の『血の女王』が追撃を加え、シャドウは壁を突き破り倒れた。
「シャ、シャドウ様ァァァァアア――!!」
ベータは未だ痛む身体を無視して、這うように崩れた壁へと進む。
「だから言っただろ、てめぇでも無理だってよ……」
「シャドウはんでもダメでありんしたか……」
違う!
背後にベータたちがいなければ、足手まといがいなければ、主の力はこの程度ではないのだ。
「シャドウ様、シャドウ様ッ!!」
必死で這い進みベータが崩れた壁に辿り着いた、その時。
青紫の魔力が、そこから溢れ出した。
「なッ――!?」
「なにがッ――!?」
その圧倒的な力に、大気が震え、瓦礫が浮き上がる。
赤い月の光を、青紫の魔力が染め変える。
そして、壁の向こうからシャドウが現れた。
「シャドウ様!」
ベータの顔が歓喜に染まる。
なぜなら、そこにいたのは、彼女が知る普段通りの主だった。
青紫の魔力を纏い、なぜか一回り小さくなったようにも見える主の姿には、力が漲っていた。
彼は、美しき青紫の魔力を刀身に込めて、再度『血の女王』と対峙する。
「少し、本気を出してやろう……」
その深淵から響くような声を聞き、ベータの身体が興奮に震える。
もう不安は無い。
この姿こそ、彼女の主なのだ。
「ん?」
その時ふと、視界の端で何かが光り、ベータは壁の裏を見る。
そこになぜか大量の金貨が落ちていた。
ベータは首を傾げる。
なぜこんなところに……まぁ、いいか。
「シャドウ様がんばれぇ~~~~!!」
そして、ベータの声援を合図に戦いが再開する。
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