第109話 血の女王
腕の中のクレアが突然立ち上がる。ミリアはそのヴァイオレットの瞳を見て、息を呑んだ。
「クレア、あなた瞳の色が……」
変化は瞳の色だけでなかった。クレアの雰囲気がどこか大人びて、魔力の質も違っているように見えた。
そして、何よりの違いは……彼女の傷口が塞がっていることだ。
お腹の大きな傷は血で染まっているが、その血が蠢き一つの大きな血の塊となって宙に浮かぶ。
それは『血の女王』のものと同じだった。
「さて、どの程度まで耐えられるかしらね……」
クレアが呟く。その声は静かで落ち着き、喋り方までまるで別人のようだった。
「あなた本当にクレアなの……?」
ミリアがそう問いかけた瞬間、『血の女王』の血塊が弾けた。
それは飛沫を鏃に変え、回避不能な絶望的なまでの密度と速度で迫る。
誰一人動けずに、その絶望を見ていることしかできない。
そう……彼女以外は。
「残念。オリジナルは私……」
クレアはそう呟き、自分の血塊を弾いた。
その血塊は小さな小さな血の粒となって飛散する。それはまるで血の霧だった。
飛来する血の鏃に、血の霧が付着する。
「え?」
声を漏らしたのはミリアだけだった。しかし、その場にいた誰もが目を疑った。
血の鏃が突然勢いを無くし、ポタポタと地に落ちたのだ。
「身体から離れた血の制御を奪うのは難しいことじゃない。完全に奪うことはできなかったようだけど……」
妖艶に微笑むクレアの視線の先には、血の鏃が数本刺さった『血の女王』の姿があった。
クレアは血の霧で鏃の制御を奪い、それを反転したのだ。だが、そこまでできたのはほんの数本だけ。他は地に落とすことしかできなかった。
しかしその力は人の範疇を越えていた。
まるで『血の女王』が2人いるかのような戦いに誰もが言葉を失う。
「飛び道具で私は倒せない。つまりあなたが取るべき手段は一つしかないの」
クレアは唇に付着した血を舐める。唇が鮮やかな血の紅で染まる。
『血の女王』が動いた。
彼女は血の鏃で受けた傷を瞬時に直し、血のドレスを変形させる。
血のドレスから、血の触手が生えた。
それは瞬く間に数を増やしていく。
「そう、それが正解……」
クレアは呟いて、その身体から血の触手を生やす。それは『血の女王』と同じだった。
赤き触手が、互いに威嚇しあうかのように広がっていく。
そして、一斉に戦いが始まった。
槍の穂先のように鋭い先端が、敵を目指し突き進む。
ある触手は床下から、ある触手は天井から、空間を埋め尽くすほどの赤き触手の群れが四方から両者に迫る。
触手同士が潰し合い、目標に辿り着けるのはほんの僅かだ。
迫り来る血の触手を見て、クレアは赤き大鎌を構え、『血の女王』は赤き爪を伸ばす。
そして、互いに一太刀で切り裂いた。
触手が舞い踊り、潰し合い、切り裂かれ、鮮やかな紅に空間が染まる。天井に空いた穴から赤き月の光が差し込み、美しい二人の女性を照らす。
それは、目で追いきれないほどの速度で繰り広げられる、人外の戦い。
美しく苛烈なその戦いに、誰もが見入っていた。
「凄い……」
「なんて戦いでありんしょう……」
二人の力は互角だろうか。
はた目には優劣の判断すら付けられない。
ただ分かるのは、決定打はまだ一つも無いことだ。
赤き触手の乱舞はしばし続き、クレアがため息を吐いた。
「きりがないわね……。でも、もう十分かしら?」
そして彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「もう十分……血の霧を吸い込んだでしょう?」
次の瞬間、『血の女王』が跪いた。
彼女は血を吐き、目から血の涙を流す。『血の女王』の身体の穴という穴から血が噴き出していた。
「ゴホッ……」
『血の女王』が初めて苦しげに呻いた。
「吸い込んだら、ちゃんと制御を奪わなきゃダメよ」
跪いた『血の女王』にクレアの触手が殺到する。
『血の女王』の触手も抵抗するが、圧倒的な質量により潰されていった。
視界を埋め尽くすほどの触手が『血の女王』を覆い隠し――大量の血が飛び散った。
そして、後には赤い血だけが残った。
「全力には程遠いけれど、こんなところかしら」
大人びた態度と謎めいた微笑み、そして人を超越した戦闘力とヴァイオレットの瞳。
腕を組み佇むクレアは、ミリアの知っている少女とは全くの別人だった。
「クレア、あなたはいったい……?」
クレアはミリアをちらりと見て、少しだけ困ったように笑った。その微笑みにどこかクレアの面影を感じた。
しかし、次の瞬間ヴァイオレットの瞳に警戒の色が戻る。
辺りに濃厚な血の霧が立ち込める。それはやがて、人の形に集まっていく。
「来たわね……」
「嘘だろ……?」
「まさか、まだ生きているの……?」
驚愕の声が上がる中で、ミリアはどこか納得していた。彼女が知っているエリザベートなら、まだ終わるはずがない。
しかし、ミリアの瞳からは絶望の色が消えていた。
それは、彼女がいるから。
クレアのようで、クレアでない彼女なら、エリザベートに対抗できる。
彼女がいれば、千年前と同じ過ちは起きない。
そんな希望を抱いていた。
しかし、血の霧から無傷の『血の女王』が現れた時、クレアの身体が揺れた。
そのまま彼女は跪いた。
「やっぱり、この身体じゃ限界か……」
苦しそうに、口の端から血が零れる。人を超越した力にクレアの肉体が耐え切れなかったのだ。
跪くクレアと、それを見下ろす『血の女王』。さっきとは真逆の構図がそこにあった。
「おいおい、勘弁してくれ……」
「まずいわね……」
「そんな……」
ミリアの瞳が揺れた。
ここでクレアが倒れれば、エリザベートを止められるものはもういない。
千年前の惨劇が繰り返され、すべてが終わった後、彼女の主は再び絶望し涙する……。
もう二度と、あんな思いは嫌だった。
そしてもう二度と、大切な友達を失いたくは無かった。
「クレアッ!」
ミリアは跪くクレアに駆け寄った。
「私も戦える!」
彼女は剣を抜き『血の女王』と対峙する。
「あなた……」
「瞳の色が変わっても、クレアはクレアよね……?」
「……私は少し身体を借りているだけ。クレアはクレアのままよ」
「ならあなたは私の大切な友達よ」
千年前、ミリアは半ば諦めていた。エリザベートの力を知っていたからこそ、自分では止めることができないと悟っていた。
でも……もし諦めなければ、何かが変わったかもしれない。
クレアがエリザベートに立ち向かったように、ミリアにも何かが起こったかもしれない。
諦めなければ、奇跡が起こったかもしれないのだ。
だから、ミリアは剣を構えた。
何かが起こることを信じて。
そして、誰もが願った。
誰かが『血の女王』を止めてくれることを……。
「あなたが戦う必要はないわ……」
剣を構えるミリアを、クレアは手を伸ばし止めた。
「私の仕事は終わったもの。私は、彼が来るまでの時間を稼げばいい……」
クレアは美しい微笑みを浮かべた。
「彼……?」
「そう、彼が来たわ……」
そして――黒い影が舞い降りた。
「我が名はシャドウ。陰に潜み、陰を狩る者……」
彼の姿を見て、クレアは安心したように気を失った。
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