第88話 夢の残骸
ローズは雨の中を走り続けた。
行く先もわからぬままただ走り続け、いつしか雨は止んでいた。
そこは森の中だった。
雨に濡れた木々の隙間から木漏れ日が差し込んでいる。
ローズは木を背に座り込んで荒い息を整えた。
様々な思いが頭の中を巡った。父のこと、国のこと、そしてこれからのこと……。
それらが頭の中で絡まり合って、ローズの心をかき乱した。
どんな理由があろうと、彼女はオリアナ国王を殺した凶悪犯だ。それを否定するつもりはなかったし、その責任から死へ逃れようとする気持ちももう無かった。
彼女は父を殺した責任と、そして王女としての責任、すべてを背負うつもりだった。
しかし、それはあまりに大きすぎる。
考えれば考えるほど、ローズは不安に震えた。
覚悟と信念を、責任と重圧が押し潰していく。
彼女はまだ戦える。戦わねばならない。しかし、17歳の小娘に何ができるというのだ……。
ローズは俯き、膝の間に顔を埋めた。
そして、小さくなって震える。
陽の光が茜色に染まるまで、彼女はそうしていた。
「行こう……」
ローズは自分に言い聞かせるようにそう言って立ち上がる。
行き先は分からない。
しかし、進まねばならない。
前を向いて彼女が歩き出した、その時。
「あなたには、二つの選択がある」
背後から美しい声が届いた。
「ッ!?」
ローズが振り返ると、そこには漆黒のドレスを身に纏ったエルフがいた。
金色の髪に、青い瞳。彫刻のように整った美しい顔立ち。
「あなたは、アルファ……」
アルファは腕を組んで妖しく微笑む。
「独りで戦うか、それとも我らと共に戦うか……選びなさい」
「一緒に……?」
ローズの敵とシャドウガーデンの敵は同じだ。
だが敵が同じだからといって、必ずしも共に戦えるわけではない。
しかし選択肢が少ないのも事実だ。
追手はすぐに掛かるだろう。独りで戦うならどこかに潜伏する必要があるが、しばらく山中に籠るしかない……いや、無法都市という手もある。
今やローズはオリアナ国王を殺害した凶悪犯だ。無法都市に入っても賞金目当てで狙われるだろう。
「オリアナ王国を救うことはできますか?」
「あなた次第よ。今の我らがあなたの為に動くことは無い。国を救いたければ、価値を示しなさい」
「価値……?」
「あなたの価値を……そしてオリアナ王国の価値を……」
「それを示せば、救える……?」
「我らにはそれだけの力がある」
アルファの答えは簡潔だった。彼女はただ選択肢を提示しているだけにすぎない。
ローズを導くことも、手を差し伸べることもしない。
答えを出すのはローズなのだ。
「……スレイヤーさん……いえ、シャドウがあなたたちの組織の長なの?」
「……そうよ」
幼い頃ローズを救い、悪と戦い続ける彼の姿が脳裏に蘇る。
そして、ローズは彼を信じる道を選んだ。
「……共に戦うことを誓います」
「そう。歓迎するわ。付いてきなさい」
アルファは感情のこもらない声でそう言って、森の奥へ進んでいく。
「一つ聞いてもいいですか」
ローズはアルファの後を追いながら訊ねた。
「ええ」
「シャドウはいったい何者ですか……?」
幼い頃から悪と戦い続ける強き心。そして悪を滅ぼす圧倒的な力。力の秘密も、信念も、生い立ちもわからない。彼は謎に包まれた存在だった。
「それを知りたければ、信頼を得なさい」
「信頼……」
「あなたが信じるに値する存在であれば、いずれ知ることになるでしょう……」
そして二人は無言で森の中を進んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日の光も届かない深い霧の中を進んでいた。
「ここは、まさか……」
「深淵の森よ」
どこにあるのかもわからない。しかし一度入れば二度と出られないとされる、伝説の森だった。
すぐ先にいるはずのアルファの姿すら見失いそうになる。
青紫の霧は濃密な魔力に満ちていてローズの感覚を乱す。
「この霧は龍の吐息よ……」
「龍……」
目撃証言は稀にあるが、ここ百年程討伐された記録は無い、伝説の存在。
「かつて、この地に訪れた彼は『霧の龍』と戦った」
「彼……?」
「幼かった彼は、霧の龍を倒すことはできても、滅ぼすことはできなかった。龍は彼を認め、龍の吐息を吹きかけた」
この幻想的な青紫の霧が龍の吐息……。
「この霧は猛毒よ」
ローズの身体がビクッと震えた。
「だから離れないで。私から離れるとあなたはすぐに死ぬわ」
「わかりました……」
濃い霧の中を二人は進み、そして突然視界が開けた。
「ここは……」
陽の光が降り注ぐ白い古城。
「霧の龍に滅ぼされた古の都アレクサンドリア。ここが我らの拠点よ」
古の都アレクサンドリア。かつて書物で名前だけは読んだことがある。
しかしここは、書物では決して描ききれない美しい都だった。
都の周囲には広大な田畑が広がり、そこには見たこともない作物が実っている。少女たちは熱心に作物の収穫をしている。
「カカオの収穫ね。チョコレートの原料よ。いずれあなたにもやってもらうことになるわ」
「あれが、チョコレートに……まさか、ミツゴシ商会はシャドウガーデンの?」
アルファは微笑んだだけだった。
チョコレートはまだミツゴシ商会しか商品化していない。原料も製法も何一つ分かっていないのだ。
二人は城門を抜け城の中に入った。
「ラムダはいる?」
「ここに」
アルファの呼びかけに、一人の女性が現れて跪いた。
「新入りよ。鍛えなさい」
「はっ。仰せのままに」
「まず力を示しなさい。あなたならすぐに道を開けるはずよ……」
ローズにそう言って、アルファはどこかに行ってしまった。
ローズと、ラムダと呼ばれた女性が残される。
彼女は灰色の髪に金色の瞳の、褐色のエルフだった。長身でしなやかな筋肉をしていることが、黒いボディースーツの上からでも分かる。
目つきは鋭く、唇はふっくらとしている。
「私はラムダ教官だ。付いてこい」
「はい」
ラムダの後に付いて進むと城の裏手に出た。
そこでは多くの少女たちが鍛錬に励んでいた。
「すごい……」
一目見ただけで分かる。ここには実力者しかいない。
「664番、665番!」
「ハイッ!」
「ハッ!」
ラムダが呼ぶと、集団の中から二人の少女が駆けてきた。
エルフの少女と、獣人の少女だ。
「お呼びですか教官!」
エルフの少女が叫ぶように言った。獣人の少女は隣で直立不動だ。
「新入りだ。貴様らの分隊に入れる」
「了解いたしました!」
「666番、脱げ」
「え?」
ローズは何を言われたか理解できなかった。
「666番、貴様のことだ。ここでは番号が貴様の名だ」
「私が、666番……」
「分かったらさっさと脱げ」
「え?」
「二度言わせるなッ!」
次の瞬間、ローズの衣服が切り裂かれた。
一瞬の早業だった。
ローズの裸身が露になる。
「な、なにを!?」
ローズは両手で身体を隠して座り込む。
「今日から貴様はウジ虫だ。貴様はもう何者でもない。名は捨てろ! 服も捨てろ! 何もかも捨て純粋な兵士となれ!」
そしてローズの足元に黒い塊が投げ捨てられた。
それはボヨヨンと跳ねる黒いスライム。
「664番! ウジ虫にソレの使い方を叩き込め」
「ハイッ!」
「ん? なんだこれは?」
ローズの衣服の残骸から、一切れの紙が風に舞った。
ラムダ教官はそれを拾い上げて、ローズの目前に掲げる。
「それはッ……!」
それは、ローズがシドからもらった贈り物。まぐろなるどの包み紙だった。
その瞬間、心の奥に抑え込んでいた彼への想いが溢れ出した。
それは、彼女にとって初めての恋だった。
試合で戦い、襲撃事件で命を助けられ、二人きりで旅行した。
かけがえのない、大切な思い出。
ほんの一週間前まで、ローズは彼と添い遂げる夢を見ていた。
しかしローズはもう戻れない。
二人の道が交わることは、もう二度と無いのだ。
「なんだその顔は? すべて捨てろと言っただろう!」
ローズの目前で無残に切り裂かれる包み紙。
紙切れは風に舞い空高く舞い上がる。
それは、もう叶わない夢の残骸……。
ローズの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
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