第87話 真の敵は誰か
「アイリス王女……」
ベアトリクスが何かを言いたそうな顔でアイリスを見つめる。
「分かっています。力が足りないことぐらい……」
アイリスは悔しそうな顔を隠すように微笑む。
「ですが、引くことはできません。武神祭を好き勝手荒らされて、何もできず逃がすようなことはできません。意地があるのです。私にも、そしてミドガル王国にも……」
そしてシャドウを睨みつける。
「この命に代えてもシャドウの動きを止めます。ベアトリクス様、その間に仕留めてください」
「……分かった。合わせる」
覚悟を決めたアイリスに、ベアトリクスも同調した。
二人はその瞳に気迫を込めてシャドウと対峙する。
「来るがいい……抗ってみせよ」
シャドウは刀の切っ先を下げて、受けの構えをとる。
アイリスが機を窺いながら、じりじりと間合いを詰める。
しばらく、雨と雷の音だけが響いた。
「せめて一矢、報いさせてもらいます」
大きな雷鳴と同時に、アイリスは仕掛けた。
彼女は間合いを詰めると、その長剣でシャドウの首を狙う。
だがシャドウはほんの半歩下がることで間合いの外に出た。シャドウは空振りを見越して次の動きに移る。
しかし、アイリスの剣は伸びた。
彼女は剣を手放すことで、無理やり射程を伸ばしたのだ。
シャドウは瞬時に動きを変える。反撃に動いていた刀を戻し、アイリスの剣を弾く。
アイリスの反撃はここに潰えた――かに思えた。
しかし、彼女は踏み込んだ勢いをそのままに、身を沈めシャドウの胴に手を伸ばし組み付きにきた。
命に代えても動きを止めようとする、確かな気迫がそこにある。
回避は間に合わない。
「見事だ」
次の瞬間、シャドウの膝がアイリスの顔面を打ち抜いた。
彼女は知る由もなかった。格闘戦はシャドウが最も得意とする領域だったのだ。
アイリスの身体が崩れ落ちる。
しかし、アイリスはその役目を果たした。
膝を放った瞬間、シャドウの動きが一瞬止まった。
そして、彼女にはその一瞬で十分だった。
「ハアッ!!」
ベアトリクスの一閃がシャドウに迫る。
ベアトリクスはその長剣を、漆黒の刀に渾身の力で叩きつけた。
凄まじい衝撃音と共に、シャドウの刀が、手が、腕が、勢いに流される。
死に体のシャドウ。
絶好の瞬間が訪れた。
ベアトリクスの追撃は最速だった。
しかし、それ以上にシャドウが刀を手放す方が早かった。
彼は一瞬の判断で刀を捨て、そして消えた。
そこは、ベアトリクスの視界の外。
「下ッ!?」
彼は体勢を低く屈め、地を這うようにベアトリクスの腰に組み付いた。それはアイリスのそれとは比較にならない、洗練された流麗な動き。
長剣を振るうには近すぎる。
シャドウは容易くベアトリクスを担ぎ上げ、そしてそのまま大地に叩きつけた。
「カハッ!!」
石畳が割れた。肺の中の空気が吐き出された。
しかしその瞬間、長剣を振る間ができた。
ベアトリクスは朦朧とする意識の中で長剣を振る。
シャドウは構わずベアトリクスを持ち上げて、再度そのまま叩きつける――その途中で手を離した。
ベアトリクスの長剣は空振り、彼女はそのまま闘技場の壁に激突する。
激しい音と共に、彼女の身体は闘技場の壁にめり込んだ。
そして、空を切る音を立てながら何かが空から降ってくる。
シャドウが手を伸ばし掴んだそれは――漆黒の刀だった。
まるで、すべてを計算したかのように……。
雷光が、闘技場に倒れ伏した二人を映す。
ベアトリクスとアイリスが二人がかりで手も足も出ない。その衝撃の事実に、誰もが目を疑い恐怖した。
「……終わりだな」
倒れた二人を一瞥し、シャドウは踵を返した。
「ま、待ちなさい……」
その声に、彼は足を止めた。
「わ、私はまだ戦える……」
覚束無い足取りで、アイリスが立ち上がる。
続いて、壁の瓦礫を押しのけてベアトリクスも起き上がった。
「私も……」
立ち上がった二人の剣士。
しかしシャドウは彼女らを一瞥し、そのまま歩き去る。
「待ちなさいッ! 逃げるの!?」
アイリスの声に、シャドウは足を止めた。
「……逃げる?」
次の瞬間、闘技場を青紫の光が染めた。
「なッ……!?」
「ッ!!」
圧倒的な魔力の奔流。
それがシャドウの身体から溢れ出し、螺旋を描きながら渦巻く。
雨が魔力に飲まれて掻き消える。
「まさか……そんな、本当に……!?」
「これは……無理」
想像を絶する力にアイリスとベアトリクスは立ちすくんだ。
彼がこの力を振るえば、この闘技場ごとすべて消しつくすだろう。
アイリスも、ベアトリクスも、観客たちも、この力の前には平等に無力だった。
「逃げる必要が、どこにある……?」
誰も――彼を止められない。その事実を、否応なく理解させられた。
「なぜ……?」
震える声でアイリスが問う。
「それほどの力があるなら……いつだって殺せたはず」
「……目的は達した。貴様らの命に興味は無い……我らは我らの敵を屠るのみ……」
シャドウはアイリスを一瞥し刀に魔力を収束させる。
「真の敵は誰か……見失うな」
そして、シャドウは青紫の魔力を空に放った。
眩い光が闘技場を、王都を、そして空を染めて、雨雲を消し飛ばした。
光が消えると、そこには晴れ渡った青空が広がっていた。
シャドウの姿は見当たらない。
雲も、雨も、雷も、そしてシャドウも……すべてが嘘だったかのように消えていた。
「真の敵を、見失うな……。シャドウ、あなたはいったい……」
アイリスは雲一つない大空を見上げて、シャドウの残した言葉を呟く。
彼の目的……そして真の敵とは……。
「……きれい」
空には大きな虹が架かっていた。
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