第86話 剣の頂

 いつしか太陽は分厚い雲に遮られ、薄闇が辺りを覆っていた。


 雲の中から雷鳴の音が聞こえる。


 ポツポツと雨が降り始めた。


「何をしている! さっさと追え!!」


 ドエムの怒号が響き渡り、様子を窺っていた彼の配下たちが動き出す。


 穴の前に立ち塞がるシャドウを取り囲むように動いた彼らは、一斉にシャドウへ飛び掛かる。


 しかし、次の瞬間。


 漆黒の一閃が、彼らを薙ぎ払った。


 たった一太刀。ドエムが選び抜いた自慢の魔剣士たちは、弾き飛ばされ地に転がった。


「そんな……」


 これが、シャドウ。噂には聞いていたが、有象無象では相手にもならない。


 ドエムは血の滲む腹を押さえて後退る。


「だ、誰か! 誰かいないのか!? 奴を倒せる者はいないのかッ!?」


 そして絶叫する。


 しかし返ってきたのは、雨の音だけだった。


 ミドガル王国の騎士たちは、シャドウを遠巻きに取り囲み動こうとしない。


 アイリスを破ったシャドウの実力を侮る者は誰一人いなかった。


 雨がひどく降ってきた。大粒の水滴が、叩きつけるように降り注ぐ。


 シャドウの黒いロングコートは雨に濡れて、雷光を反射する。


 雷光が走る度、シャドウの姿が薄闇に浮かび上がる。


「私が出る」


 その声と同時に、灰色のローブの女が空に飛んだ。


 彼女は空中でローブを脱ぎ捨て、長剣を抜き戦場に降り立つ。


「武神ベアトリクス……」


 誰かが呟いた。


 雨の中剣を構える彼女は、美しい金髪のエルフだった。


 彼女は胸当てと腰布だけの薄着で、白い素肌が雨に濡れ雷光で輝く。


 シャドウとベアトリクス。二人は間合いを探るように静かに対峙した。


 戦いの始まりは、激しい雷鳴と同時だった。


 シャドウはベアトリクスの長剣に合わせるように、漆黒の刀を長く伸ばす。


 そして、一閃。


 シャドウは漆黒の刀を薙いだ。


 雨が斬れた。


 刀の軌跡に、一瞬だけ雨のない空白が生まれる。


 そう、シャドウは空振ったのだ。


「ほう……」


 ベアトリクスは瞬時に半歩下がり、シャドウの横薙ぎを避けた。


 そして、反撃に転じる。


 槍のように鋭い刺突がシャドウを襲う。


 仮面の奥で、シャドウが笑ったような気がした。


 シャドウは刺突を半身になって躱し、戻りに合わせて刀を振る。


 しかし、ベアトリクスの戻しも速い。


 彼女は長剣の戻しと同時に身を沈め、シャドウの刀を避ける。


 そして反撃に転じてゆく。


 二人は、ただ雨だけを斬り裂いた。


 瞬く間に数十の剣撃が飛び交い、振り注ぐ雨を切り裂いてゆく。


 切り裂かれた雨が小さな飛沫となって、雷光に輝く美しき軌跡を描いた。


 誰もが息を呑んで二人の戦いに見入る。


 それは、まさしく舞のようだった。


 常人ではとても目に追えない剣の動きが、雨と雷光によって空に残る。


 美しき剣の舞。


 この二人が、剣の頂きにいることを誰もが理解した。


 いつまでも見ていたい二人の舞に、終わりを告げたのはシャドウだった。


「この剣では、届かぬか……」


 シャドウは間合いを外し、ベアトリクスを見据えた。


 ベアトリクスも追撃せず息を整える。豊かな胸元が上下した。


「すごい……」


 彼女は溜息を吐くように、感嘆の声を上げた。


 その青い瞳はただシャドウを見据えている。


 二人はしばらく見合った。


「我が真の剣を見せよう」


 シャドウはそう言うと、漆黒の刀を元の長さに戻した。


 それが、彼本来の間合い。


「往くぞ」


 声と同時に、彼は一瞬で踏み込む。


 いとも簡単に、間合いが潰れる。


「ッ!?」


 そして、衝撃が走った。


 ベアトリクスは間合いを詰められた瞬間に攻撃を捨て、防御に集中していた。しかし、彼女にはシャドウの刀が全く見えなかった。


 彼女だけではない、会場の誰もが見逃した。


 その一撃は――雨を、斬らなかったのだ。


「――くっ!!」


 衝撃に弾かれて、彼女は雨の中を転がった。


 刀は見えなかったが、彼女は勘だけで防いでみせたのだ。しかし、かろうじて防いだだけだ。無様に弾き飛ばされて、反撃もできない。


 彼女はすぐさま立ち上がり、追撃に備える。


 雷鳴が轟き、光と共にシャドウが消えた。


 その一瞬で、シャドウは目前にいた。


 見えない刀が振られる。


 彼女はシャドウの刀に全神経を集中し、そしてまた衝撃に襲われた。


「――ッ!!」


 見えなかった。


 ベアトリクスは泥で汚れた顔をそのままに、立ち上がるとすぐ後ろに飛んで距離を離した。


 かろうじて防御できたのは、勘と運が良かっただけだ。


 次を防げる保証はない。


 追撃は来なかった。


 ベアトリクスは雷光の下で構えるシャドウを見据えて考える。


 なぜ、見えない?


 ただ単純に速いだけではない。シャドウの剣は何かが違う。


 ベアトリクスはその長い戦いの人生の中から、答えを見つけ出した。


 シャドウの剣は――自然なのだ。


 戦いで、幾多の剣を応酬する中で、速い剣は確かに脅威だ。しかし、速くとも必ず予備動作がある。予備動作がなくとも攻撃の瞬間は経験で分かる。意識さえしていれば対応は可能だ。


 戦いの中で最も脅威となる剣は、いつだって意識の外からやってくる。そこに速さは必要ない。意識の外に出ればいい。


 シャドウの剣は自然だった。


 殺意も、淀みも、力みなく、ただ自然のままに振るわれる。


 人は自然なものに注意を払わない。


 降り注ぐ雨を意識しないように、シャドウの剣は意識できない。


「すごい……」


 ベアトリクスはシャドウの剣の深さにただ感嘆した。彼の技は、誰も辿り着けない深淵にある。


 そして、己の敗北を覚悟した。


「武神よ、抗ってみせよ……」


 シャドウが漆黒の刀を構える。


 次を防ぐ自信は、ベアトリクスに無かった。


 しかし。


「待って」


 凛とした声が、二人の戦いを遮る。


「私も、混ぜてもらいます」


 そこに、剣を抜いたアイリスがいた。

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