第73話 夢見る少女と夢を歩む男

 ローズは暗い地下道を歩いていた。


 逃げる際に負った背中の傷からは、今もまだ血が滲んでいる。深くはないが、決して浅くもない切り傷。


 早急に治療するべきだったが、追っ手から逃げる彼女にそんな暇はなかった。


 魔力を傷に集中させ最低限の処置はしている。しかし、時間と共に痛みが増し体力も奪われていく。


 呼吸が荒い。


 彼女は追っ手を気にしながらも、ずっと考えていた。


 あの時、何が正しかったのだろう?


 何が最善だったのだろう?


 その、答えのでない問いが繰り返し頭の中を巡っていた。


 彼女が婚約者のドエムを刺したのは咄嗟の判断だった。しかし衝動的な行動だったわけではない。限られた時間の中で、彼女は最善を考え選択した……つもりだった。


 しかし、失敗した。


 ドエムは生き残り、ローズは追われた。


 失敗は結果論だ。ドエムの実力を見誤った彼女のミスであり、ドエムの排除に動いた選択そのものが間違っていたとは限らない。


 ああするしかなかったのだ。変わり果てた父……オリアナ国王の目を見た瞬間、ローズはドエムの排除を選択した。ドエムと教団の繋がりも、そして自我を失い傀儡となった父も、噂がすべて確信に変わったのだ。


 だから剣を抜いた。


 あの時、自分は衝動的だったのだろうか?


 性急だったのだろうか?


 焦りや怒りに、突き動かされていなかっただろうか?


 ローズは、冷静に判断したつもりだった。


 アレクシアやナツメは頼りたくなかった。あくまでオリアナ王国内の問題として処理しなければならない。直感だったが、ローズはそう判断した。


 その政治的な感覚は間違っていなかった。


 結果として失敗したが、これはローズの過ちでありオリアナ王国の問題なのだ。まだミドカル王国には飛び火していない。最悪の結果だけは、無意識下で避けたのだ。


 しかし、それも時間の問題だ。


 去り際にドエムが叫んだ言葉が頭の中に蘇る。


「武神祭が終わるまでに投降しろ! さもなくばオリアナ国王に来賓を殺させるぞ!」


 もし、ドエムの言った通りオリアナ国王が武神祭の来賓を殺せば……戦争になる。彼がどこまで本気かはわからないが、教団はオリアナ王国を小さな駒としてしか見ていないのかもしれない。


 もし、そうだとすれば……。


 ギリッと、ローズの歯が鳴る。そして、悔しそうに顔が歪んだ。


 父は名君ではなかったし、オリアナ王国は大きな国ではない。


 しかし彼女にとってたった一人の父と、たった一つの祖国なのだ。


 だから、ただ守りたかった。


 その感情が焦りに変わったのだ。


 地下道の壁をローズは強く叩いた。


 結局のところ、自分は感情にまかせて衝動的に動いただけだった。ドエムを排除すれば、すべてが解決する。そう錯覚していた。


 しかし、ドエムも所詮は捨て駒だ。教団の根はオリアナ王国の深くまで張っていると考えるべきで、ドエムを排除したところで何も解決しないのだ。


 もっと別の選択があったはずだ。


 何もかもすべて解決する、魔法のような選択がきっと……。


 ローズは湿った地下道に座り込んだ。


 もし、自分が最善の選択をして、すべてが上手くいっていたら……。そんなありもしない可能性を考えて、自嘲する。


 もう、終わったことだ。自分がなぜ逃げているのかさえ分からない。


 逃げてどうするつもりだ?


 逃げれば何か変わるのか?


 投降すべきではないか?


 そう……きっと、それがいい。


「そっか……投降すればいいんだ」


 あの時、自分がどうすればよかったのかはまだ分からない。だが、今自分が何をすればいいのかは簡単に分かった。


 投降すれば少なくとも戦争は回避できる。


 少しだけ、気持ちが楽になった。そして大切なものをすべて失くしてしまったかのような、喪失感と悲しみに襲われた。


 ローズはポケットからまぐろなるどの包み紙を取り出した。中身はもう食べてしまったが、ほんのりとパンの香りがした。


 そして、黒髪の少年のことを思う。きっと、彼も事件を耳にしたはずだ。彼はどう思っただろう。


 心配してくれただろうか?


 信じてくれただろうか?


 もしかして……自分を探してくれただろうか?


 もし、ドエムを排除して、国王が正気を取り戻すことができたら……そんな、すべてがうまくいく未来があったとしたら……彼と添い遂げることもできただろうか。


 きっと、自分はそれを夢見たかったのだ。


「ごめんなさい……」


 ローズは謝った。


 涙が一筋こぼれ落ちる。


 描いていた夢が、全て粉々に崩れていった。


 ローズはまぐろなるどの包み紙を大切そうに折りたたみ、スカートのポケットにしまった。それがまるで、最後の夢の欠片のように思えた。


「痛ッ……!」


 ローズの胸に鋭い痛みが走った。胸元を広げると、そこにはどす黒い痣があった。


 それは、悪魔憑きの証。発症したのはまだ最近だった。


 最初から、すべては叶わぬ夢だったのだ。ローズは俯き笑った。


 その時、小さな音がローズの耳に届いた。


 追っ手の足音だろうか。


 しかし、足音にしては優しく、美しい音色だ。耳をすますと、それはピアノの音色だった。


「月光……?」


 音楽にも詳しい彼女はその曲を知っていた。芸術の国オリアナでも異例の高評価を得たその曲が、地下道の先から聞こえてくる。


「美しい……」


 ただ、月光を弾くためだけに。


 まるで、その一曲だけに人生のすべてを費やしたかのような、深く完成された演奏だった。


 ローズは月の光に導かれるように、その音色へと歩き出す。


 この地下道は王都地下迷宮と呼ばれているが、迷宮というより遺跡のように感じる。地下道はしっかりとした石畳で、壁には彫刻や古代文字が刻まれている。


 壁にはいくつか扉もあったが、そのほとんどが開かなかった。何か鍵が必要なのか、それとも遺跡の機能が停止してしまったのか。


 ピアノの音に近づいていく。


 そして角を曲がったローズは、破壊された大きな扉を見つけた。


 音はその向こうから聞こえる。


 ローズは扉に空いた大穴を潜り、ついに辿り着いた。


 そこは、幻想的な光が差し込む聖堂だった。天高くステンドグラスには3人の英雄と、八つ裂きにされた魔人が描かれている。


 ステンドグラスから色鮮やかな光が降り注ぐ。


 そこに、グランドピアノが置かれていた。


「シャドウ……」


 忘れ去られた聖堂で、彼は独り『月光』を弾いていた。

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