第72話 陰の実力者は月光の下で奏でる……
僕は早朝の王都を歩く。
ヒョロは聞き込みしてくると言ってどこかに行ってしまった。
この世界、日が昇ればすぐ人は動き出す。
通りはすでに賑わい始めていた。
ローズを探すとは言ったけれど、真面目に探すつもりはあまりない。ぜひ逃げ切ってほしいという思いは今も変わらないし、まあ探しているふりでもして時間を潰そう。
ただ、婚約者を刺すという反骨精神あふれるこの事件の動機については聞いてみたいかな。できれば彼女自身の言葉で。
どちらにせよ僕は時間を潰せればどうでもいい。
怒りは時間と共に薄れていくものだ。姉さんにはきっと頭を冷やす時間が必要なのだ。
そんなことを考えながらぼんやりしていると、どこからピアノの音色が聞こえてきた。
「ふむ……」
実は僕、ピアノが得意なのだ。
前世では陰の実力者になるためにピアノを練習していた。というのは嘘で、家の教育方針というやつで習わされたのだ。
ぶっちゃけピアノの練習なんかに時間を使うより陰の実力者になるための修行に時間を使いたかった僕はやる気ゼロだったのだが、そんなことは教育方針の前には無力である。
嫌々ながら始めたピアノだったが、続けるうちにピアノも悪くないと思うようになった。
まず、ピアノが得意なやつと周囲に認知されるようになると、それだけで相手は勝手に想像してくれるのだ。
こいつは家に帰ったらピアノの練習に忙しいんだな、と。
陰の実力者になるために友達づきあいを最小限に抑えていた僕にとって、その誤解は非常にありがたいものだった。
もう一つ、単純にピアノのかっこよさに気づいたのだ。
陰の実力者が月光の下で奏でるピアノ……よくない?
単純な強さだけでなく、芸術方面でもすごいんだぞアピール。
かっこいい……。
気づけば僕はピアノを割とガチでやっていた。
もちろん陰の実力者になるための修行が最も優先順位が高いことに変わりはないが、ピアノを演奏し雰囲気を作ってバトルする演出は捨てがたいものだったのだ。
というわけで、自分で言うのもなんだけど僕はピアノがかなりうまい。
「なかなかやるな……」
僕は呟いた。
しかし、現在ピアノを奏でている人もなかなかである。
ベートーヴェンのピアノソナタ14番『月光』か……。
僕も好きな曲だ。というか陰の実力者的にベストな曲はこれしかない超お気に入り。
だから『月光』で負けるつもりは全くないが、この奏者の表現にも独特のセンスがある。
「悪くない……頭の中に月の光が見えるようだ……今朝だけど……」
そんな感じで『こいつ、できる……』アピールしていると、ふと気づいた。
ベートーヴェンの曲がこの世界にあるのっておかしくない?
僕は真顔になって人ごみをかき分け、ピアノの音が流れてくる方に向かった。
正直に言おう。
もう予想がついてしまう。
僕だって馬鹿じゃないのだ。
ピアノの音は王都にある超一流ホテル一階カフェから聞こえてくる。
セキュリティが厳重で一般人ではまず入れないのだが、僕は顔パスで入ることができる。
遠慮なく入店すると、ちょうど彼女は演奏を終えたところだった。
「イプシロン……」
透き通った湖のように美しい髪の美女。夏らしいノースリーブのドレスだが、胸元はきっちりガードしてスライムを見せないのが彼女らしい。
脚もタイツを履いて素肌は見せず、シークレットブーツを隠している。
見事だ。
僕が近づくと、彼女も僕に気づいたようだ。
イプシロンは客に一礼すると僕を控室に案内する。
扉を閉めて、イプシロンは微笑んだ。
「主様、聞いていらしゃったのですか? お恥ずかしいです……」
少し頬を染めて上目遣いだがそんなことで僕は騙されない。
「イプシロン、さっきの曲は『月光』だな?」
「はい、主様に教えて頂いた数多の曲の中で、私が一番好きな曲です」
「あ、そう? 僕も一番好きなんだよね」
教えたつもりは全くないのだが、自分が好きなものを他の人も好きだとなんだかうれしくなるよね。
「主様のおかげで、ピアニストとして、そして作曲家として有力者と関係を築いております」
「え、作曲家……?」
「はい。『月光』にはじまり『子犬のワルツ』『トルコ行進曲』『亜麻色の髪の乙女』そして……」
イプシロンは現代過去様々な名曲をあげて貴族に評判だったとか、賞をもらったとか、芸術の国に招待されたとか得意げに話した。
すまない、ベートーヴェン、バッハ、モーツァルト……そして偉大な作曲家たちよ。
この世界で君たちの曲は、イプシロンが作曲したことになっている。
「……前回のコンサートが大好評だったので、これからオリアナ王国に仕事に行ってきます。ご存知の通りオリアナ王国は現在、とても仕事のしがいがある国ですので……」
「芸術の国だからね」
「ええ、芸術の国ですから……今回は特に、いい『仕事』ができると思いますよ」
イプシロンは妖しく微笑んだ。
「がんばってね」
「主様より授かった至高の名曲に恥じない演奏と『仕事』をして参ります」
イプシロンは優雅に一礼した。
「そうだ、話は変わるんだけどローズ王女の行方って知らない?」
「ローズ王女ですか。確かその件はベータが担当しておりますので、私も詳しいことは……。ただ、王都の地下に逃げ込んだと聞いています。詳細はベータに聞けばわかりますが……?」
「あ、それだけ分かれば十分だからいいよ」
運良くローズを見つけたら話ぐらいは聞いてみよう。
「ありがとう。えっと……」
僕は微笑むイプシロンを見ながら、お礼に続ける言葉を考える。
僕が『月光』が好きだと言われて喜んだように、彼女もきっと望む言葉をかけてもらえたら喜ぶだろう。
「イプシロンはいつもスタイルが綺麗だね」
「そ、そ、そ、そんなことないですイプシロンはまだまだです……!」
僕はイプシロンの顔を見れずに窓の外に視線を逸らした。
青い夏空がどこまでも広がっていて、世界はこうして回っているんだなって思った。
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