五章
第61話 彼女と雨音
雨の音が聞こえる。
ローズは外から響く水の音色に、気がそれた。
呼吸を整えながら、練習用の細剣を下す。
顔に滴る汗を片手で拭い、そのまま乱れた髪を整える。
薄暗い道場にはただ雨の音だけが響いている。
ローズはしばらくの間、目を閉じてその音に耳を傾けた。彼女は湿った空気を胸いっぱいに吸い込む。
水の音は、いつ聞いても美しい。
ローズは芸術の国オリアナの王女として生まれた。幼い頃から様々な芸術に触れて、美に対する意識は高い。オリアナの王族はそれぞれ、生涯において一つの芸術を極める。それは絵画だったり、音楽だったり、演劇だったり、各々が好きなものを選ぶのだ。
幼いローズは芸術に対して高い関心を示したが、そこから何か一つを選ぶことができなかった。彼女にとって芸術は、どれも美しく、どれも素晴らしい。
絵画も、音楽も、演劇も、服飾も、彫刻も、何もかもが美しく、そこから一つを選ぶことなんて彼女にはできなかったのだ。だから彼女はすべてを嗜んだ。そして、そのすべてで高い評価を得た。
ローズが将来どの道に進むのか、オリアナ王国の芸術家たちは誰もが注目していた。
しかし、ローズが選んだのは剣の道だった。
それも、ある日突然、今まで嗜んでいた芸術をすべて捨てて、剣一本に絞ったのだ。
誰もがローズに、なぜ剣を選んだのか問うた。
ローズは多くを語らなかった。
ただ、剣に美を感じたと答えた。
だがオリアナ王国では剣は野蛮なものとして蔑まれている。剣を芸術だと認めてくれる人は誰もいなかった。
ローズは家族の制止を振り切って、ミドガル魔剣士学園に留学した。
ローズの心には、ある美しい剣が刻まれているのだ。
それは誰にも語ったことのない、彼女だけの大切な思い出。彼女が剣の道に進むことを決めた理由は、一人の剣士への遠い憧れだ。
ローズはあの日見た剣の美しさを忘れない。
いつの日か、あの美しさを自分の剣に宿すことが、彼女の生涯の芸術なのだ。
彼女の芸術は国では誰も認めてくれなかった。でも彼女はそれで構わなかった。誰かに認められたくて美を追い求めているわけではなかったから。
誰にも認められなくても、自分の道を進むと、彼女は決めていたのだ。
ローズはそれでよかった。
しかし先日、ローズのもとに一通の手紙が届いた。
「父上が、今年の武神祭に来る……」
ローズは桜色の唇で呟いた。剣を蔑む国王が、武神祭の観戦に来るのは異例のことだ。まず間違いなく、ローズを連れ戻しに来たのだろう。
世間では様々な憶測が飛び交い、そしてその中には気になる噂もある。
ローズの婚約者が内定しているらしい、と。
ローズはその噂を聞いて、その日のうちに実家に手紙を出して問いただした。だが返事はまだこない。
ローズには心に決めた相手がいる。死をいとわない、熱く美しい心をもつ彼こそが、人生を共に歩むパートナーなのだ。
だからこそ、武神祭でローズは父を認めさせなければならない。
まずは彼女の剣で。
そして願わくば彼も……。
ローズはペチンと自らの頬を叩いた。
「集中よ」
呟き、汗を吸って重くなった上着を脱ぎ捨てる。
汗で光る肌が露になる。ミツゴシ商会のスポーツブラで豊かな胸だけ隠れている。
少しはしたない姿だが、ここにはローズ以外入ってこないから気にする必要もない。
ローズは練習用の細剣を構え、思い浮かべる。
まずは自分が振った最高の剣を。学園の事件で振った剣こそが、彼女の人生で最高の剣だ。
もうすぐ武神祭が始まる。それまでに、あの感覚を取り戻すのだ。
ローズの細剣が空を斬り、汗が舞った。蜂蜜色の美しい髪が解ける。
顔にかかった髪を払いのけ、ローズは細剣を振り続けた。
外からはずっと、雨の音が聞こえてきた。
あの感覚は戻らなかった。
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