第51話 緻密が生まれた日
極限の集中の中で、イプシロンは自身が斬られるのを見つめていた。
完全に不意を突かれたというのに、咄嗟に上体を逸らし回避行動をとったのは流石だった。しかし、それが悲劇を生んだのだ。
イプシロンの脳裏に走馬燈のように過去が流れていく。
エルフのお嬢様だった自分。悪魔憑きとなり捨てられ国を追われた記憶。
そして、新たな人生を得た日のこと。
シャドウに助けられたあの日、イプシロンは今まで信じてきたものが崩れ去り、新たな生きる意味を見つけたのだ。
イプシロンは昔から気が強かった。自分が優れていると疑わなかったし、その優れた面を見せつけずにはいられない性格だった。
事実、彼女は家柄がよく、美しく、頭もよく、武芸にも秀でていた。
プライドも高く、そのプライドに見合った能力を持っていた。
だからだろう。
悪魔憑きとなった日、そのすべてが崩れ去った瞬間、誰よりも彼女は打ちひしがれた。
生きる意味を失くし、かと言って死ぬ勇気もなかった。
あの日、腐りゆく肉体を引きずって山道を歩く彼女の前にシャドウが現れた。
「力が欲しいか……?」
彼は深淵から響くような深い声で言った。
イプシロンは朦朧とした意識の中で、悪魔でも現れたのかと思った。
だが、彼女は力を求めた。
力さえあれば、自分を捨てた者たちに復讐ができる。
嬲り殺し、後悔させてやる。
「ならばくれてやる……」
そして、甘美な青紫の魔力が彼女を包んだ。
その光を、温かさを、イプシロンは今でも忘れることなく覚えている。
どこか懐かしく、温かく癒すその光に、いつしかイプシロンは泣いていた。
あの日のイプシロンは弱く、醜く、無様だった。そんな彼女を救ってくれたのがシャドウだった。
「偽りの世界で狂気に堕ちるのもいいだろう。だが、真実の世界を知りたくば……付いてこい」
イプシロンはシャドウの背を追いかけた。
何もかも失くした自分はただ醜かった。そんな醜い自分が救われて、本当の自分を認められた気がしたのだ。
家柄なんて必要なかった。
美貌もいらない、能力を誇る必要もない。
大切なものは他にあったのだ。
そして彼女は世界の真実を知り、四人の先輩に出会い、前言を撤回した。
確かに家柄は必要なかった。しかし能力は必要だ。
得意だった武芸は、下から二番目だった。
この先どうやっても勝てないだろう化物と完璧超人がいた。
誇っていた頭脳も、下から二番目だった。
頭脳特化と完璧超人に自信をへし折られた。
総合力でも完璧超人とそつなくこなす万能型がいた。
このままではイプシロンの立場がない。
そして、何よりも美貌が必要だった。
イプシロンにとって見た目は重要だった。なぜなら敬愛する主が男性だからだ。
自分の魅力を客観的に分析し、かなり厳しい戦いになると予想したのだ。
顔だけを見れば、イプシロンが悲観する必要は全くない。しかし彼女には将来の懸念があった。なぜならイプシロンの家系の女性は全員、小さく平坦なのだ。
男性が家系の頭髪を見て嘆くように、イプシロンは家系の身体を見て嘆いた。このままでは将来敗北を喫するだろう、と。
だからイプシロンはそれに出会った瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を受けたのだ。
スライムボディスーツ。
一目でその可能性を察知し、心奪われた。
普段であればシャドウの言葉を全て欠かさず聞き取る彼女が、シャドウの説明そっちのけでスライムボディスーツに釘付けだった。
イプシロンは思ったのだ。
これは盛れる、と。
イプシロンがスライムボディスーツを自在に操れるようになるのに三日とかからなかった。
彼女は制御の練習をするという名目で、その日から常にスライムボディスーツを身に着け、少しずつ、少しずつ盛っていった。
少しずつ、疑われないように、しかし成長期だからちょっぴり大胆に。
そしてある程度大きくなった時、彼女は気づいた。
質感が足りない。
スライムはあくまでスライムなのだ。本物とは感触が違う、揺れが違う。イプシロンはその日からベータを目の敵のように観察し、数日でスライムを完璧に制御し揺れと感触を再現するまでに至った。
ここにきてイプシロンの魔力制御はアルファも唸るほどにまで極まったのだ。
そして彼女は『緻密』のイプシロンと呼ばれ、皆に一目置かれるようになったのだが、それは既にどうでもよかった。
そんなことよりも、イプシロンは日々ベータを観察し戦慄していたのだ。
こいつ、まだ大きくなりやがる!?
それは戦いだった。天然と人工の仁義なき戦いなのだ。
結果として、イプシロンは盛りに盛ってその戦いに勝った。人類はいつだって自然の脅威に打ち勝ってきたのだ。
しかし、代償も大きかった。
ほんの少しの誇りを失ったその日、イプシロンは鏡に映った自分を見て思ったのだ。
バランスが悪い。
不幸なことに彼女は華奢で小柄な体型だったのだ。
しかしイプシロンは問題を解決するためその明晰な頭脳を駆使し答えを導きだした。
そうだ、お尻も大きくしてバランスをとろう。
結果として、それはお尻だけに止まらなかった。彼女はスライムでお尻を盛り形を整え、さらにスライムでお腹を締め付けくびれを作り、さらにシークレットブーツで脚を延ばし八頭身スタイルを手に入れ、さらに……細かいところを挙げればきりがない。
要するに、彼女はスライムボディスーツによって究極完璧な肉体を手に入れたのだ。
そこには果てしない努力と、誰にも悟られない油断なき心構えと、憎い好敵手の存在があった。
何よりも、敬愛する主への想いがあった。
イプシロンの『緻密』は副産物に過ぎない。彼女の真の力は、その厚盛りしたスライムによって得られる驚異の物理防御力にあるのだ。
そして、走馬燈は終わった。
舞い降りた影が剣を振り下ろし。
彼女の努力の結晶が、斬られていく。
スライムボディスーツの、最も柔らかい二つの塊が宙を舞った。
その瞬間、イプシロンは覚醒した。
こんなところで……。
こんなところでッ……!
バレてたまるかぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ!!
イプシロンは宙を舞う二つの塊に残った魔力をコントロールし、その形を保つ。
肉体から離れた魔力を完璧に操り制御するその技術は、見る人が見れば卒倒するほどの絶技。
そして同時に魔力を引き寄せ、瞬時に元あった場所に接着する。
ミリ単位のズレも許さないそのコントロールと、それら全てを瞬く間に行った速度。まさに神業。
最後にプルンと揺れまで再現する。これが『緻密』のイプシロンなのだ。
「よくやった『処刑人』ヴェノムよ……あれ?」
ネルソンがイプシロンを二度見した。
斬られたはずのイプシロンは、しかし全く無傷でそこに立っていたのだ。
それどころか。
「見たか……?」
「え……?」
この圧倒的なまでの迫力は何だ。
ネルソンの膝がカタカタと震えた。
「何か、見たか?」
「ひぃッ……な、何も見てない……!」
「貴様らは見たか?」
イプシロンはローズとアレクシアに聞いた。彼女たちはブンブンと首を横に振った。
「ならいい、来い」
イプシロンはネルソンの首根っこを捕まえて引きずる。
「ひぃッ! 何をしている『処刑人』ヴェノムよ! 早く助けろ!!」
「処刑人なら……」
イプシロンがネルソンの耳元で語りかける。
「もう殺した」
そして、処刑人の首がポトリと落ちた。
「ひいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」
イプシロンはそのままネルソンを引きずって閉じかけた扉の奥に姿を消した。
扉が閉じていく。
閉まりきる直前、彼女が飛び出した。
「アレクシアさん!?」
ローズの制止を無視して、アレクシアは扉の隙間に入り込んだ。
「ああ、もうっ!」
ローズも追いかけて転がり込み、直後に扉は閉まり切った。
そして、淡い光を残して消え去った。
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