第44話 聖剣エクスカリバー
僕は好きなものも嫌いなものも少ないほうだ。それはほとんどのものを、どうでもいいものに分別しているからだ。
ただそれでも好き嫌いは出てくる。別に大切でもないし必要でもないのに、好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いなのだ。どれだけ理性で分別しようとも感情まで分別できるわけじゃない。
僕はそれをどうでもいい好きなものと、どうでもいい嫌いなものと呼んでいる。
そのどうでもいい好きなものの中に温泉がある。
僕は前世である期間全く風呂に入らなかったことがある。当時の僕は風呂に入る時間が無駄に思えてしょうがなかった。とはいえ普通にモブとしての生活もあるわけで毎日三分間のシャワーは浴びていたが、湯船につかるという時間の無駄を排除し空いた時間を修行にあてたかったのだ。
ちょうどそのころ僕は人という種としての限界にぶつかっており、要するに余裕がなかった。右ストレートで核をはじき返す構想を真面目に考えていたのだ。
いろいろあって結局僕は自分の頭がおかしかったことに気づきお風呂に入る習慣に戻ったわけだが、そのきっかけが温泉だったのだ。湯につかるという行為は心に余裕を生む。余裕は修行のクオリティに直結し、魔力やオーラを探すという柔軟な発想を生んだのだ。
というわけで僕は今、温泉に入っている。
ここリンドブルムは温泉の名地であり、ひそかに楽しみにしていたのだ。
現在早朝、僕は温泉は朝入るのが好きだ。もちろん夜も入るが、朝の方が好きだ。理由は人が少ないから。一人で貸し切りなんてこともある。
今日もあわよくば貸し切りを狙って来たのだが、どうやら同じ考えの先客がいたらしい。運が悪いことにその先客はまさかのアレクシアだった。
長い白銀の髪をまとめたアレクシアはその赤い瞳を見開いて僕と一瞬見つめあった。そしてすぐにどちらともなく逸らした。
それから相互不干渉、お互いいないものとして過ごしている。ここは高貴な方々専用の湯で、人の少ない早朝は仕切りをとっぱらって混浴として開放されている。広い湯船に、眼下には雲海、そして日の出、貸し切りなら最高だったろうなと思いながら、僕は湯と朝日を浴びた。
僕とアレクシアは一番眺めのいい露天風呂の端と端に浸かって、なかなかに居心地の悪い沈黙の中、日が昇るのを眺めていた。
視界の端でアレクシアの白い肌が揺れて、湯船に波紋が広がる。
もったいないけど早めに出ようかな、と。僕が思いかけた時、アレクシアが沈黙を破った。
「怪我はもういいの?」
彼女にしては小さめの声だった。
「もう治ったよ」
怪我ってどの怪我だ、と思いながら僕は言った。
「ついカッとなって切り刻んじゃったけど、生きててよかったわ」
「そりゃどうも」
そっちの怪我か、と僕は思った。
彼女とそれなりに付き合いのある僕は、これが彼女なりの謝罪であることを察した。謝罪とは何か誰か教えてあげる人はいなかったのだろうかと思ったがこれがアレクシア流謝罪なのだ。
「僕も無差別通り魔殺人犯扱いしたことを謝っておくよ」
バチャッ、と僕の横顔に湯がかかった。
「するわけないでしょ」
「どうだろ。それで、君は何でリンドブルムにいるの」
「女神の試練の来賓よ。あなたは?」
「友達に楽しいイベントがあるって誘われたんだ。女神の試練のことだと思うんだけど、どんなことするかわかる?」
アレクシアの溜息が聞こえた。
「そんなことも知らずに来たのね。女神の試練は一年に一度、聖域の扉が開かれる日に行われる戦いよ。聖域から古代の戦士の記憶を呼び覚まし、挑戦者はその記憶の戦士と戦うの。事前に申請すれば魔剣士なら誰でも参加できるけれど、古代の戦士がそれに応えるとは限らないわ。毎年数百人の魔剣士が参加するけれど、実際に戦えるのは十人程度ね」
面白そうだ。多分アルファもこれに参加するつもりなんだろう。
「どういう基準で選んでるんだろ」
「挑戦者にふさわしい古代の戦士がいるかどうからしいわ。挑戦者より少し強い古代の戦士が選ばれることが多いから、女神の試練と呼ばれるようになったようね。十年ほど前に流浪の剣士ヴェノムが英雄オリヴィエを呼び出して話題になったわ」
「へー、勝ったの?」
「敗れたらしいわ。ただ実際に見たわけじゃないから真相は分からない。呼び出されたのが本当に英雄オリヴィエだったのかどうかも」
「ふーん」
アルファなら英雄を呼び出せるだろうか。もし呼び出せたら楽しめそうだ。
「君は参加しないんだ。最近強くなっているらしいじゃん」
「しないわ。今年はいろいろと忙しいのよ。ここの大司教様、少し黒い噂がある人でその監査もあるの」
「黒い噂?」
「言わないわよ。知りたかったら紅の騎士団に入りなさい」
「やめとく」
「卒業したら入りなさい」
「やめとく」
「入団届は代筆しておくわ」
「やめろ」
「強情ね」
そこで会話が途切れた。
僕らはまた少しの沈黙の中を過ごした。居心地はそれほど悪くはなかった。
視界の端でアレクシアが動いた。長い脚が湯船に浮かび、波紋が何度も広がった。
「舐め回すように見られるんじゃないかと予想したんだけど、外れたわね」
アレクシアは具体的に何を、とは言わなかった。
「大した自信だね」
「私ぐらい完璧に美しいと欲望垂れ流しの視線に曝されて大変なのよ」
その割にオープンである。
「温泉ではあまり人を見ないようにしてるんだ。お互い気持ちよく入るためにね」
「いい心がけね」
「だから僕のエクスカリバーをチラチラ見るのはやめてくれないか」
「プッ」
アレクシアは嗤った。心底馬鹿にしたように。
「それがエクスカリバーですって。ミミズの間違いじゃない」
「君がミミズだと思うのならそれでいいさ。僕はミミズでもエクスカリバーでもどちらでもいいんだ。ただ一つ、忠告しておこう」
僕は立ち上がった。ザバァッ、と湯船に波紋が広がった。
「物事を表面だけ見て判断してはいけない。君がミミズだと思ったものは、もしかしたらまだ鞘に入っているだけなのかもしれないんだ」
そしてフルオープンで振り返って湯船から出る。
「ど、どういう意味よ……」
頬を薄紅色に染めたアレクシアが言う。
「鞘から抜かれし聖剣は、白き刃を解き放ち、混沌の園へと旅立つだろう……」
僕は意味深にそう言って、濡れタオルを勢いよく股の間に通しお尻でペチンと鳴らした。
おっさんが温泉から出るときよくやるコレが僕は好きだ。理由はない。出る時にこれをやらないと温泉に入った気がしないんだ。僕はペチン、ペチン、と計三度鳴らして脱衣所へと入った。
そして僕が着替え終わるころ、湯船の方からペチン、ペチン、と音がした。
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