第9話 ある人の記録

 山の頂上近くに(どの山かは記すべきでない)沼とも池とも判別つかなくなった、大きな水溜りのような水場がある。昔は近くの神社に奉納していた冷たい湧き水という話だから、どこかに湧き口があるのだろう。

 なのにその水場は表面上どこにも流れていかない。

 川に流れていかないのだ。強いて言えば苔むす辺りの池の淵に染み出ている。だがいつでも水は冷たく透き通っているので、おそらく地下に流れていくのだろうか。

 さて神社に奉納されていた水についてはかろうじて記録が残っている程度の昔話なので、今は奉納されていないらしい。神社自体は大して大きくもなく、小さすぎるということもない。ごくごく一般的な村の神社だが、神主というような者はおらず、近所の一般の家が掃除などの世話をしているらしい。否、一般の家ではなくそれこそが神主なのかも知れぬ。おみくじを売っていたりはしない。

 その神社の裏手から、水場に続く道はある。

 道といっても山道、車も通れぬ人もろくに通らぬ。

 じめじめと、苔むし、細い雑木ざつぼくの生えた道。覆い茂るさまざまな常緑樹により木漏れ日も少ない。坂道になっておりそれは急でもあった。そんな道を小一時間のぼる。

 あとウンメートルなどと親切な表示もなく、実際どの程度の距離かよくわからない。とにかく、小一時間ほど汗をかけばそこに着くはずだ。

 まあるい水場に出る。ぽかりと空いた、常緑樹のドーム屋根付き公園のように丸い地面と、同じように丸い水溜りが、その円の完成度に比べて失敗しかけた目玉焼きのような位置関係で重なる。

 丸いのだ。もしかしたら誰かが昔手を加えた水場なのかも知れないと思うほど丸い。しかし近隣の人々に聞く限り、あれはそういうところなのだという。自然というたくみが成せる技には際限がないのでそういうこともあるのかも知れない。

 とにかく丸い広場に丸い水の張った深い穴があるのだ。大きさはどれほどといえばいいか、穴だけでもバスケットコートの半面くらいか。深いのだがそれは場所によるようで、登ってきた道に近い辺りは浅瀬もある。

 しめ縄のような物は見当たらず私は歪な目玉焼きの白身に乗った気分になった。

 そして私はそれに出会った。


 目のない顔に何か汚らしいものを釘で貼り付けて(それともその汚らしいもので目を隠しているのか)赤い口を大きく開けて笑う、男なのか女なのかわからぬ裸のそれに。


 私は夢中で逃げた。

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