第4話

 猪口美鈴は特筆することのない若い母親だった。

 強いて言えば、二人の子を産んでも体は細かった。髪の毛は少しだけ明るい茶、化粧は少しだけ。

「お話と言っても」

 と彼女は、迷惑なのだろう、眉をしかめて困った顔をしている。

「すいません、大学の調査レポートというか……」

「てきとうに、書いてしまってもいいと思いますよ」

 医学部でもないんでしょ、と小さい声で付け足される。

 医学部は真面目にレポートや何やらを書く権利があるが、みんぞくがくなどという、そう、糞の役にもたちゃしねえ遊びにはそれがないのだ。と、真澄は、目の前の若い母親がそう思っていることを理解した。そんなものだ。文明の崩壊の一端とはそんなものだ。のどの奥で言い聞かせて真澄は笑顔を作って黙っている。

「もうすぐ……子供が帰ってくるので」

 虚ろな目でそう言い、小さなため息をつき、そして彼女は短い話を始めた。真澄は慌ててスマホの録音ボタンを押す。




 私が知っているのはこんなお話です。

 若い母親が小さい子供がいなくなったのに気づいて、それでも小さい子だから、遠くへは行かないだろうと周りは思っていたんだけど。

 母親は狂ったように叫びながら裏の山に走っていくんです。

 驚いた村の人たちが追いかけて見たら、大きな沼の淵で動かなくなった子供とびしょ濡れの母親が見つかった。

 なんでこんなところに、と村人が母親に尋ねると、母親はもう狂ってしまっていて水浸しのまま笑っていたそうです。



「……あがさまというのはその母親? それともその死んだ子が」

「ああ違う違うそうじゃなくて」

 美鈴はおかしそうに微笑んでこたえた。

「あがさまに見初められてしまった、というんです。

 子供も、母親も」

「じゃあその沼に」

 と、玄関の方からランドセルの方が大きい美鈴の娘がこちらを凝視しているのが見えた。

「おかえり」

 美鈴はそう言ってリビングの椅子から立ち上がる。さすがにもう辞さなければならぬだろうと真澄はメモをカバンに仕舞って立ち上がる。

「あの、貴重なお話ありがとうございました」

 美鈴は無言で、真澄には出さなかった菓子を用意しだした。

 お辞儀して、玄関の自分の靴に向かうと、すれ違いに美鈴の娘がおねえちゃん、と声をかけてきた。

「あがさまはね、わかったらダメなんだよ」

「葵!」

 台所からの叱咤に葵ちゃんは肩をすくめて大人びた笑いを溢した。

「またね、おねえちゃん」

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