第八話 犬

 イヌが一つここにるのだ。

 名はあまり思い出しとうない。

 またこの地もいくさに染まりつつあった。

 イヌはその火から逃れようと走っておった。

 ただ一つの母も何者かにあやめられ、イヌは恐怖からものがれようと必死でおった。

 その何者かは岩の牢に入れられておるらしいのだが、そこにはいくつもの罪人つみびとがおるというに、何れがそれとわかるまい。

 何日、何月なんつき、何年、何十年、何百年……。

 どの程経ったか、しかしこの感覚では長く感じられた。

 己もやいばを持たねばならなくなったのだ。

 イヌは生きる為と、そのやいばで人をあやめた。

 岩の牢の罪人つみびとと、何が異なると申すのか。

 しかしまるで慣れておるかのように、やいばを振る手は負けぬのだ。

 ふっと風が通った時、何者かわからぬが、懐かしい声が息が耳に届いた気がしたのだ。

 それきり、イヌの体に頭はなかった。

 一瞬であった。

 イヌイヌの死体を見やる。

 死の、このようになるのだな、などと呟いてしまう。

 そこに見えた者は、イヌの首を大切そうに抱き走ってゆく。

 やいばが身に当たれど、矢が身に刺されど、その手の首を離さず。

 そやつの手は元より、血でボロボロであった。

 泣きつつ走るそやつは、何かを呟いておるのだが、一音いちおんもわからぬまま。

 しかし、何度も唱えておる。

 翌朝、イヌの首を土の中にそっと埋め、手を合わせ、こう申したのだ。

「さようなら。」

 その瞬間、イヌはゆるりと己が消えてゆくのがわかった。

 その時、見えたそやつは、まるで別人の様に、桜の木の下で舞い狂っておった。

 その舞いは、とても悲しくさせる舞いで、身の血を桜の花弁と共に散らしておった。

 それを最後に、イヌは何も残す言葉も吐かずに消えてしまった。

 それであれど、しっかと心に抱いておったのだ。

 別れの言葉が、誰のモノで、誰が受け取るモノだったのかを。

 そして、あやつが誰であったのか………も。



 上手く繋げる手さえあれば、きっとあのような事にはならなかったのだ。

 大切なモノを失って泣くのであれば、最初から大切にしておれば良いと申せど、それが大切だと気付くのも失ったのちだということもあるゆえに、どの世も難しいものなのだな。

 しかし、涙を流してくれる者がるというのは、複雑な気分にさせられてしまうのは、何故だろうか……。

 もうすぐく。

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