GOD DAMN‼          

増若布

第1話

  GOD DAMN!!

   


 高校二年生ともなると、受験に備えて予備校に通うものがちらほらと出てくる。かくいう俺も、二週間ほど前から東京にある有名な予備校に通い始めた。

 乗り換え二回で家から二十駅。片道一時間弱。下手すると移動時間と予備校の滞在時間がほぼ変わらない曜日もある。入校しておいてなんだが今年の夏休みが終わる頃には確実に他の塾に乗り換えると思う。

 右手に持っている英単語帳に視線を注ぎながら歩いていると、目の前から歩いてきた人が肘のあたりにぶつかってきた。すいません、と単語帳から目を離して慌てて謝ると、どうやらサラリーマンらしいその人は苦情も舌打ちもせず、ふいと目を逸らして歩いて行った。俺は見ていたページに栞を挟み、パタンと片手で単語帳を閉じた。

 予備校が終わり、最寄り駅まで歩くこの瞬間が結構気に入っている。勉強のことに文句を言いながら一緒に帰路に就く友人はいないが、それでもこのネオンまみれのギラギラした通りを歩くだけで妙に満ち足りた気持ちになる。

 別に住んでいるところは田舎でも何でもないが、俺はもともと東京のスクランブル交差点だとか眠らない町だとか、そういうものに結構憧れている節がある。超高層ビルから見える夜景なんていうのも好きだ。「あの夜景は残業している人たちの命の灯だ」というのを聞いてからは少し幻滅したが。

 ただ将来こういう都会で働きたいかと聞かれると、首を傾げたくなる。というかどちらかというと嫌だ。こういう場所はたまに行くから物珍しく思うのであって、毎日ここに通うとなったら嫌いな場所という位置づけになってしまいそうだ。地元のような穏やかなところで生活して、飲み会とかはこういうところでやるのが夢である。住んでいるところは田舎ではないが、住んでいる俺は間違いなく田舎者だと思う。

 考え事をしていると、最寄り駅が見えてきた。人気のケーキ屋やパン屋などがずらっと並んでいるこの駅も好きだ。一度も店に立ち寄って買ったことはないが。生地の焼ける良い匂いを嗅いだり、ショーウィンドウに綺麗に陳列されているのを見るだけで満足するのだ。

 大きなあくびをしながら、明日は土曜日だからいつもより遅く起きようと甘い考えを巡らせていると、何かが聞こえた気がした。

 ここは都会だから、もちろんクラクションだとか若干うるさすぎる店のBGMだとかはいやというほど常に鼓膜を震わせている。

 つまり端的に言えば、その「何か」というのはそこでは聞き慣れないものだったのだ。

 聞き違いでなかったなら、悲鳴だった。俺は立ち止まり、辺りを見回す。

 立っている俺の左横には路地があった。俺は、それがまるで何かに出会うために用意されたものに見えた。

 路地の奥は真っ暗だった。ここからだと何があるのかわからない。

 俺はスマホをポケットから取り出し、電源を付けて時間を確認する。電車は一本遅らせても大丈夫そうだ。

「明日土曜日だしな」

 そう呟き、俺は何喰わない風を装って人気のない路地に身体を滑り込ませた。

 念のためにスマホのライトをつけて足元を照らす。初めのほうはたまに小石が落ちている程度だったが、奥に行くにつれて大きなコンクリートの破片が転がっていた。それらを飛び越し、手に持っている光をあたりに散らす。

 しかし、結構歩いているがめぼしいものは何もない。しかも一本路地。もしかしたらここはビルとビルの間にできたただの隙間なのかもしれない。ため息をつくようにあくびをする。

 そして本当に残念なことに路地の先が見えてきた。つまり出口だ。まあ戻るのも癪だから今日は向こうの大通りから駅に向かおう。そう考えると少し心が浮き立った。もしかしたら目新しい店があるかもしれない。

 出口の向こう側に思いを馳せている俺の前を人が横切った。

「えっ」

 驚きのあまり声が出てしまった。そして横切った人は初めて俺がいたことに気づいたのか、「うわっ!」と俺よりも大きな声で驚いていた。声から判断するにどうやら男のようだ。

 その人は、というよりもその青年は、と呼んだほうがいいように感じた。どう見ても俺よりは年齢が下だ。しかし少年のようなあどけなさは無く、どこか近寄りがたいような雰囲気を醸し出していた。

 何よりも目を引いたのは、彼の鮮やかな赤色の髪だった。

 彼の髪型はところどころ外はねしていたが、決して毛先が傷んでいるようには見えない。それにこんなにも鮮やかな赤で染めているというのに、その髪の色はぴたりと彼に当てはまっていた。

「……眩しいんだけど」

「え、あっごめん」

 俺は無意識のうちに、手に持っていたライトがつけっぱなしのスマホを容赦なく彼の顔面に浴びせていた。左手でライトの部分を軽く覆うと、ギリギリ目の前の彼の輪郭が見える程度になった。彼の輝くような見事な赤毛は、闇と同化してくすんだ色になった。

「『ごめん』って、見かけによらず随分とお坊ちゃんみたいな受け答えだな」

 小ばかにしたような言い方なのに、随分と落ち着いた声だった。だから俺は、つい気が緩んで「君だって、その髪の毛」と深く考えずに言葉をかけてしまった。

「髪が、何だって?」

 相変わらず穏やかな声色だったが、周りの空気が一気に五度ほど下がったような錯覚に陥った。髪のことは触れられたくなかったのか。その色に染めたことを後悔しているなら大丈夫だぞ、案外似合っているから。それともわかげの至りか。毛だけに。

 俺はすっかり焦ってしまい、しばらく棒立ちのまま暗闇の彼を凝視していた。まだ目が暗闇に慣れていないため、彼がどんな表情をしているのかわからない。

 どうしよう、こういう時はどうすればいいのだろうか。謝ったほうがいいのか。

「ああー、ごめん、別に怒ってるわけじゃ」

「その髪の毛、トマトみたいで美味しそうだなーって思ってさ!」

 言いながら「このまま後ろ向きで路地を抜けられるだろうか」という考えがフルスピードで頭の中を駆け巡った。なんでだ、考え抜いた挙句出た言葉がどうしてこれ? しかも結局向こうも許してくれそうだったのに。全く、俺って奴は!

「あっはは! トマト! トマトって!」

 思いがけないほど幼い笑い声が俺の耳をくすぐる。俺はいつの間にか閉じていた瞼を恐る恐る開けると、今まで年齢以上に大人びて見えた彼が、年相応の様子で笑い転げていた。目を瞑っていたせいか、暗闇に慣れて彼の表情がはっきりと見えるようになった。

「えっと……トマト好きなの?」

「何でそういう考えに至るんだよ! まあ嫌いじゃないけどさあ」

 ああもうおっかしいなあ、と彼は笑いすぎて出た涙をぬぐうようなそぶりをして、俺のほうに向きなおった。

 その瞬間になって初めて、互いの存在を認め合った気がした。

「生まれてこのかたトマトって言われたことは無いわー」

「えっそれ生まれつきなの!?」

 衝撃の事実! 無遠慮に色々な方向から彼の髪を眺めると、彼はくすぐったそうに首をすくめて「トマトは生ってないぞー」とおどけた。

「ごめんって。でも本当に地毛なんだ。俺も黒以外が良かったなあ。緑とか」

「もし本当に緑だったらここだけクリスマスになる所だったな」

 確かに、と神妙な顔で頷くと「いちいち真面目だな」とクスクス笑われた。

「ところでさっきから気になってたんだけど、どこから来たの?」

「どこって?」

「俺の前を横切られたとき、壁から出てきたのかと思ってさ」

 そう言って周りを見回すと、彼は急に真面目な顔をして黙りこくった。

 また彼の機嫌を損ねてしまったのかとオロオロしていると、彼は人差し指を立てて「ないしょ」と笑った。どうやら怒っては無いらしい。

「ところで時間大丈夫? 大分夜遅いけど」

「あっ!」

 慌ててスマホの電源をつけると、乗る予定だった電車はとっくに発車した時間だった。流石にそろそろ帰らないといけない。

「ごめん、俺行かなきゃ」

「おう、気を付けて」

 彼は右手を上げてひらひらと振り、振りながら「名前は?」と何でもない調子で尋ねてきた。

「ユウキ、です。ユウキ」

 フルネームを言おうか迷って、結局名前だけ教えた。答えてから背を向けると、弾んだ彼の声が追いかけるように聞こえてきた。

「ユウキ! オレはアカタ。またな!」

 その名前が今この瞬間に即席でつけられた偽名のように思えて、彼の顔をもう一度確かめようと首だけグイッと後ろに向けた。

 しかしそこに彼の姿は無く、出口の先のネオンが意味もなくギラギラと光っているのが見えるだけだった。



「なあ、ユウキはここに住んでるわけじゃねえの?」

 ヒッと短い悲鳴を上げながら声のしたほうを探すと、俺のすぐ左横にある路地から赤髪の青年が挨拶代わりのように右手を上げていた。

「アカ」

 名前を呼ぼうとすると素早い速さで口を片手でふさがれ、もう片方の手でグイッと路地に引き込まれた。そしてその格好のまま路地の奥へと走る。

 ある程度奥まで来ると、やっとアカタは俺から両手を離した。

「……誘拐されたかと思った」

「悪い悪い」

「口塞がれてるから呼吸できないし手もつかまれてたから横走りですごく疲れた」

「ごめんて」

 せっかく一週間ぶりに会えたのに、と言おうとしてやめた。週三である塾が終わるたびにアカタを探していたことをもちろん彼自身は知らないだろうし、何よりそれを知られることは結構恥ずかしかったのだ。

「嬉しかったんだよ、一週間ぶりに会えて。俺毎日この時間探してたんだぜ?」

 驚いて彼のことを見ると、「でも全く見つからなくてさー、お前、金曜日にしかここに来ないのな」と文句のようにそう言われた。

 彼は全く照れている様子はなく、本心を言っているのであろうということが何となく、確実に伝わってきた。

「いや、週に三回、月水金には必ず来る」

「マジで?」

「うんうん、マジ」

 首を縦に振りながらそう答えると、アカタはどこか得意げに親指を立てた。その仕草を真似すると、あはは、と一週間前に見せた幼い笑顔を見せた。

「ここ座れよ。そんなに汚くないだろうから」

 人差し指で示されたところを見ると、数段の階段がそこにあった。階段の上には扉があり「誰か出てこないの?」と聞くと、「ここ廃墟だぜ。出てきたほうが怖い」と返されたので遠慮なく座った。

「座れよとか言っといてなんだけど、時間大丈夫?」

「ええと」

 背負っていたリュックを下ろしながら、横ポケットに入れていたスマホを取り出し電源をつけて時間を見ると、乗ろうと思っていた電車の発車時刻までにはまだ二十分弱時間があることが分かった。

「大丈夫。もし危なくなっても、俺脚早いから間に合うと思う」

「すげえ自信」

「本当だよ。俺、運動だけは出来るんだ」

「いやいや、勉強もそれなりに出来るだろ?」

 まばたきをして彼のことを見ると、「だって塾通ってるよな」と何でもないように返された。

「知ってるの?」

「いや知らないけど。でも家はないけど週三っていう決まった頻度でここに来て、極めつけに一週間前も学ランって格好してたら、学校帰りに直で塾に通ってるっていうのが一番しっくりくる」

「もしかして、どこの塾に通ってるかっていうのも知ってる?」

「それは知らん。あーでも、わざわざ電車で通ってるってことは駅からちょっと歩くあの赤い看板のところ?」

 知らないと言いながら寸分違わず合っている答えを叩きだされ、思わずぽかんと口を開けて彼のことを見つめた。

「すごい、探偵みたいだ」

「はあ? いやいやたいしたことじゃないから」

「アカタって頭いいんだなあ!」

「よくないって。勉強できないし」

 アカタはそう謙遜したが、俺は勉強ができることは頭がいいことにつながるわけではないということを知っている。社会に出て何が本当に役に立つかというのも薄々理解している。

「アカタみたいにいざって時に機転の利く人が頭いいんだよ」

 頭の悪い例は、言葉にも脳内でも出さなかった。それでもアカタは首を傾げてううんと唸った。

「いや、お前が分かりやすいんだよ。裏表のないザ・単純って感じだから」

「どういうこと?」

「ユウキくらいの歳だったら、彼女とデートって線もあり得ただろうけど、お前にそんな甲斐性なさそうだし」

「怒るよ」

 右手で顔面すれすれにパンチをするふりをすると、案外大袈裟によけられ、「あぶね!」という焦った声が発せられた。

「冗談だよ」

「……運動が得意って言うのも本当みたいだな」

 少し震えた声でそう言われて首を傾げ、その時にふと何となく一週間前から気になったことを思い出した。

「あのさ、アカタってハーフなの? ほら、その髪とかさ」

 そう言いながら彼の顔を覗き込む。顔のつくりも、日本人というには少し彫りが深いようにも思う。アカタは「お?」と少し驚いたような表情になり、ニヤッと意味深に笑った。

「ハーフじゃない」

「へえ! 日本人同士の遺伝子でも赤髪が生まれるんだね」

「いや、日本人でもない。オレは純粋なイギリス人だ」

「い、イギリス! あの食べ物が信じられないほど美味しくないと有名な国の!?」

「否定したいけど日本の食べ物を初めて食べたとき神への供え物かと思ったからな。日常的にあんなに美味しいものを食べられるなんて、この国は天国かっていまだに思うよ」

「あはは、そうなんだ。そっか、イギリス人かー」

「まあ嘘だけど」

「なんだ、嘘かよ」

「育ての親と故郷がイギリスなだけ。肉親が何人かは知らない」

 咄嗟に言葉を返せず、ただアカタのことを凝視することしか出来なかった。

 アカタの顔は、一瞬路地を抜けた先にある色とりどりのネオンの光で照らされているように見えた。しかし実際はここの場所まで表通りの光は届いていないため、彼の顔は何の光にも照らされずただ薄暗いはずなのだ。

 多分それはきっと、彼自身の光だったのだ。それか単に俺の目がおかしくなったか。

 俺とアカタは、何の言葉も発さずにただお互いの目を見つめた。

 しばらくして、アカタは自身の目を細め「電車来たんじゃない?」と笑った。



 夜の電車に揺れながら、俺はうつらうつらとしていた。

 時折隣に座っているサラリーマン風の男性の肩に何度も頭をぶつける。その都度反射的に謝っていたが、隣の彼が電車から降りたとき、俺は目を瞑り、自分の意識をゆっくりと手放した。

 いまだに頭の中でこだましているアカタの言葉の一つ一つを子守唄代わりにして、俺は浅い眠りについた。



「無くした……」

「何を?」

「明日提出期限の……」

 日曜日の夕方、俺は元々汚い自分の部屋をさらに引っ掻き回し、もはや地震でも起こったのかと疑いたくなるような有様の中で一人立ち尽くしていた。

「やだ、それってあの日本史の課題じゃないでしょうね?」

 いつの間にか俺の部屋の前にいた、何故か俺より顔面蒼白な母が、手に持っていたクイックルワイパーに縋りつくようにして立ちながら震え声で尋ねてきた。

「それっす……」

「あれユウキすごく頑張ったやつよね? きっもちわるいぐらい細かい字で紙一面埋めて」

「気持ち悪いって」

「もったいないわ! 母さんも探してあげるから、このクイックルワイパーで!」

 クイックルが何に役立つというのか。それでも俺の汚い部屋の中に入り、猛然と俺が失くした課題を探し始めた母を見て、少しほっとした。

 最近の母は常に無理をして気丈に振る舞っているように見えたから、たとえ嘘でも慌てた様子を見ることが出来て安心したのだ。

「というか汚い! 男子高校生だからって今まで目を瞑ってきたけど流石に我慢できないわ! ここ一帯全部捨ててもいいでしょ?」

「お母様目的が変わっております落ち着いてください」

「分かったわ、そこにあるのねエロ本が」

「五七五でなんて酷い川柳を! 探さないなら出てって!」

「なんだ、どうした」

 声のしたほうを振り向くと、先ほどまで趣味の庭いじりをしていたのであろう父がそこにいた。

「ハッまさかついに反抗期か?」

「違うわよ、探していたの。ユウキのエロ本を」

「課題を探してるって言ってくれよ……」

 がっくりと膝をつくと、思ったより強く膝を打ってしまい、痛みで部屋中を転がった。

 そしてその衝撃でふっとある考えがよぎった。俺は身体をぴたりと止める。

「そういえばあの課題、塾に持っていったんだ。空き時間にやろうと思って」

「塾って、東京の?」

「そう」

 俺は痛む膝を軽く撫でながら立ち上がり、一階に降りていって通っている予備校に電話を掛けた。

「どうだった?」

 通話を終えて受話器を置くと、父と母が心配そうな顔でこちらを見つめていた。

 不意打ちのその光景にキュウと胸が締め付けられ、何故だか泣きたい気持ちになった。

「よかった、やっぱり塾に置き忘れてたみたいでさ。ちょっと取りに行ってくるよ」

「そうか、父さんも一緒に行こうか?」

「え、何で。いいよ別に」

 咄嗟にそう返すと「絶対零度ユウキ……」と呟いて父は項垂れた。マンガのタイトルにありそうだと思った。

「だから夕飯は先に食べてて。ごめんね。なるべく早く帰ってくるから」

 家を出る準備をしながらそう言うと、母が「あ、じゃあいっそのこと夕飯は東京で食べる?」と弾んだ声で言った。

「あ、いいねそれ」

「でしょでしょ」

「え、母さんもう夕飯作ったよね」

「そんなの明日の朝にでも食べればいいのよ」

「でも作ったの、煮込みハンバーグでしょ。俺それがいいよ」

 そう言うと、母はしばらく黙ってから「そっか」とどこか嬉しそうに笑った。

「じゃあユウキ、早く帰って来いよ」

「うん、行ってきます」

 玄関を出ると、「いってらっしゃい」という二人の声が背中を追いかけてきた。

 もう大丈夫。俺たちは立ち直った。

 一瞬自分の家の表札が目に入ったが、それはもう何の毒にもならなかった。あるいは、そう信じこむことしか出来なかっただけなのかもしれない。



「ありがとうございます」

「はい、あってよかったね」

 予備校の事務室で忘れ物である課題を受け取り、俺は職員の方に一礼をしてその場を去った。

 月水金にしか予備校に入っていないが、それは俺が予約した曜日なだけであって、本来この予備校は毎日営業しているために休日である日曜日にもスムーズに入ることができた。面倒なことにならなくてよかった。来年は自分もそうなるのに、休日でも勉強している受験生を大変そうだなあと他人事のように見ながらそう考える。

 廊下ですれ違った講師の先生に茶化されながら俺は予備校から出た。いつもはもっと遅い時間に講義が終わるので、まだ完全に夜になってないうちにこの通りを歩くのは初めてだ。いつもならどの店もこれでもかというほどネオンまみれなのに、今はまだどこも店内の明かりだけで頑張っている。

 しかし空を見ると、確かにまだ夜にはなっていないのだが、もう空のどこにも、欠片でさえも夕方は残っていなかった。淡い藍色の膜がこの街全体をふわりと覆っている。

 そういえば今日はアカタに出会えるだろうか。月水金しかここに来ないと言ったから、もし会ったら驚くだろうな。

 いつもならゆっくり歩きながら見回す大通りを、あの路地をめがけて小走りで駆け抜ける。そして何のためらいもなくするりと隙間に滑り込み、奥に進んでいく。

 それから俺は、二日前からずっと抱いていたわだかまりを吐き出すようにして猛然と走り始めた。

 二日前のあの後は電車の時間が来てしまったため、あれ以上踏み込んだ会話が出来なかった。いや、違う。もし時間が際限なくあっても、俺は話を聞こうとしなかっただろう。

あの話はアカタにとっての根っこのような話だったにもかかわらず、俺は臆病なため受け止めることが出来なかった。そうだ、今に始まったことじゃない。俺は「あの事」がなくても、元からずっと身体だけが丈夫なばかりで心は成長しない奴なのだ。

 夜の電車に揺られているときも、俺は眠いという気持ちを建前にして、アカタへの疑問をずっとずっと小さくして心の隅に置いてしまった。だって俺は自分のことで精いっぱいだ。まだ二回しか会ってないような奴の重たそうな過去なんて気にする余裕もない。

 でもそれは同じになってしまう。俺達が最悪だと思って、勇気をもって退けたものが実はまだ俺の中にあるなんてことは、あってはならないのだ。

 謝らない代わりに話を聞こう。俺の話も聞いてもらうんだ。

 そしてそのとき、ようやく俺は胸を張ることが出来るのだ。

「アカタ!」

 目の覚めるような赤を目の端にとらえる。俺は足を止めてもう一度「アカタ! 俺だよ」と声を張りながら路地の奥を大股でずんずんと進んでいく。

 しかし、絶対そこにアカタはいるというのに、何度呼んでもアカタは目の前に姿を現さない。

「アカタぁ、ユウキだよ。今日は塾ないけど、ドジやったせいで来ることになっちゃったんだよ」

 本当は驚かすつもりだったのだが、我慢できなくて大声でネタ晴らしをしてしまった。

「アカタ、いるんだろう?」

 だんだん声が尻すぼみになっていく。もしかして見間違いか? 

 いや、でもあの赤色はアカタだ。ああそうか、きっと彼は俺を驚かそうとしているのだな。あのあと少し気まずくなってしまったことを気にしているのだろう。

「おーい、アカ、タ」

 あれ?

「え? ここ、通路ある」

 何故気づかなかったのだろう。人一人通れるぐらいの隙間が、自分のすぐ横にある。

 隙間は真っ暗闇で、奥が全く見えなかった。まるで初めてここの路地に入った時と同じ感覚だ。

 俺はすっかり姿の見えないアカタのことを忘れ、魅せられるように横道に入っていった。

 奥に行くたびに「絶対に何かがある」というおかしなほどに強い確信が頭の中を締め付けていった。そして同時に得体のしれない不安がそれを取り巻く。通路に響く自分の足音が、余計にそれを膨張させた。

 カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。

「…………………ウゥ」

 俺は奥まで全速力で走っていった。走りながらリュックの横ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出し、ライトをつける。

 そして明かりに照らされて見えたものに、息をのんだ。

「だ、だ、大丈夫ですか!」

「アァ……」

 肯定か否定か分からないうめき声が、通路の行き止まりにゴミのように積まれた人の山から聞こえてきた。とりあえず俺はその人の山に駆け寄っていく。

「大丈夫ですか!?」

 ライトで人の顔を照らして驚いた。全員傷を負っている。まあここで全員のんきに昼寝をしていたなんていうような楽観視はハナからしていなかったが。

「……ラビッシュ……」

「は? ラディッシュ?」

「ジンジャー、ジンジャー」

「何、え、農家? この人たち」

 口々に野菜の名前を連呼する男たちに、緊迫感が失われた。そしてあることに気づく。

「全員外人だ」

 全員の顔をはっきりと確認したから間違いない。この中に純粋な日本人は一人もいない。

「と、とりあえず通報しよう」

 俺はスマホの電源をつけ、110番をしようとした。

 パン、と乾いた音がすぐ耳元で聞こえた。

「けいさつ、つうほう、やめろ。ころす」

 ぽかんと口を開けて人の山を見る。いつの間にか山は崩れて、一人、また一人とふらつきながらも立ち上がっていた。

 口を開いた男は、右手に何かを持っている。

「けいたいすてろ。うつ」

 男は気の抜けるほど片言な会話とはミスマッチなほどに黒光りした拳銃を、真っ直ぐに俺に向けていた。

 俺は言われた通りにゆっくりとスマホを地面に置いた。そしてしゃがんだ体勢のまま彼らを見上げる。

「そのままうごくな」

「一ついいですか」

 男たちは皆一様に怪訝そうに眉をしかめ、俺のことを見る。

「お兄さんたちはここで何をしていたんですか」

「いわない」

「何でけがをしていたんですか」

「いわない」

「それは誰にやられたんですか」

「いわない」

「じゃあ、何で俺が救急車じゃなくて警察呼ぼうとしたか分かりますか」

「は?」

 その瞬間、俺は背負っていたリュックを思いっきり目の前の男の右手にめがけて投げつけた。男が持っていた拳銃がポーンと空にはじき出される。

 男達がそれに気を取られている間に、俺はダンッと地面を蹴って、立ち幅跳びの要領で前に飛んだ。

 そして右腕を思いっきり後ろに引いて、拳銃を持っていた男の顔面に拳を一気に叩きつける。

「ギャア!」

 男が殴られて地面に倒れる寸前に、グッとシャツの襟を掴み、邪魔にならないところに放り投げた。「ゴギャッ」という人体から出たらやばそうな音が聞こえた。

「Bloody hell!」

 仲間の一人が再起不能になったことで、ようやく他の男たちもただ事じゃないと焦り始めたようだ。皆一斉に口汚い(意味が分からないが恐らく)言葉を叫びながら飛びかかってきた。

「一、二、三……」

 あれ、二ケタはいないと思ったら十一人だ。サッカーのチームが一つ出来る。後先考えず勢いで殴っちゃったけど、大丈夫かな? ちょっと調子に乗った? 

「まあ、大丈夫か」

「いや大丈夫じゃないね!?」

 流暢な日本語が背後から聞こえてきたかと思うと、本来の目的であった赤色が俺の横をビュンと駆け抜けていった。その直後に「ゴンッ」という小気味いい音が聞こえてくる。

「あっ、アカタだ!」

「『あっ』じゃねえよ! びっくりぽんだわ! ちょっと様子見で戻ってきたら知り合いがピンチになってたらさあ!」

「いやいや、どこら辺がピンチに見えるんだよ」

「客観的思考を身につけよう。今からでも遅くないから」

 言葉の節々に、疑問に思うところがいくつもあった。それでも俺は馬鹿だから、そんなことよりも今この状況にとんでもなく高揚していた。

「アカタ、その手に持ってる棒は何?」

「後で!」

 俺はぐっと拳を固く握りしめ、左足を前に踏み出した。

 アカタは謎の黒い棒を片手で持ち、上に振りかぶった。

「何分で片づける?」

「ご、三分!」

 このやり取り、今はめちゃくちゃかっこいいって思うけど後で死ぬほど恥ずかしがるんだろうな。まあいいか。

 刹那的に生きるのは十代の特権だ。

 今はただ自分の欲のままに、俺達は正義というハリボテを掲げて拳をふるおう。

 倒れた男達の中から、「God damn!」という俺でも分かるスラングがかすかに聞こえてきた。



 ふうと一つ息をついて辺りを見回す。

 足元にはさっきまで暴れていた男たちが無造作に転がっている。念のためにスマホのライトで一人ずつ確認すると、全員気絶していた。しばらく目が覚めることは無いだろう。多分。

「それにしてもお前、喧嘩とかできるような奴だったんだな」

 アカタが黒い棒を地面にカンカンと打ちながら、少しも疲れていなさそうな顔でそう言った。

「喧嘩じゃない、正当防衛だよ」

「嘘つけ」

「本当だよ。初めから変だと思ってたんだ」

 言い訳をするようにそう前置きをしてから俺は地面に膝をつき、うつぶせに倒れていた男をひっくり返して顎のところを指さす。

「ここ見て。顎が腫れてるでしょ。これはさっき俺とアカタがやったんじゃなくて、元から腫れてた。この外人だけじゃなくて、どの男たちも皆ここを一撃されてる。逆に言えばここしか傷ついているところがないんだ」

 アカタは俺の向かい側に腰を下ろし、確かめるように男の顎をさわさわと触った。

「最初この人たちがボロボロになって倒れているのを見つけたとき、この人たちが被害者だと思ったんだ。でもこれを見たとき『もしかしたら逆なんじゃないか』って考え直して、とりあえず警察に通報しようとしたんだ」

「そりゃ、なんでさ」

「大体の人は鳩尾だとか首筋だとかって勘違いしてるんだけど、顎を殴ると割と簡単に気絶させることが出来るんだ。脳が揺れるから。だから、俺はこの人たちを初めに殴って気絶させたのが、いかに労力を使わないで相手を倒すことが出来るのかってことが分かるような手練れだと思った。例えば、この人たちに恨みがあったとかで傷つけることを第一の目的とするなら、こんな顎への一撃だけじゃなくてもっと手酷くするはずだろ。だから俺は、この外人たちがその手練れに返り討ちにあったんじゃないかって。まあこの人数で一斉に襲い掛かられたのに、殴ったのが顎だけってとんでもないよね。もしかしたら、全くの見当違いかもしれない」

 自分が感じていたことを一通り説明し終え、改めてアカタのほうを向いた。

「お前も十分頭いいよ」

「いや、慣れてるからだよ」

 思わずそう漏らしてしまったが、アカタは「そっか」と言っただけだった。

「まあこいつらの顎殴ったのオレなんだけどね」

「ええええええ!? マジで!」

「いや気づいてなかったの!? この話の流れだと普通そうなるでしょ!」

「それは分からなかったな……」

 そうだったのか。外人の顎とアカタの顔を何度も見比べていると、アカタは「やっぱりお馬鹿……」とがくりとうなだれた。

「今更だけど今日日曜日なのに、どうしているんだよ」

「ああ、明日学校で出さなきゃいけない課題を塾に置き忘れちゃって」

「なるほど」

 口には出していなかったが、呆れているのがはっきり伝わってきた。

「そ、それより、アカタの持っているその棒は何? さっきから気になってたんだけど」

 いたたまれなくなり、話題を変えようと咄嗟にそう聞くと、アカタは少し首を傾げ、右手に持っている棒を見た。

「知らない」

「なんだ、そこらへんに転がってたやつか」

「いや、これはオレのだよ」

 そう否定すると、アカタは左手でその棒を上から下にさっとなぞるようにして触れた。すると信じられないことに、棒は跡形もなく消えてしまった。

「えっえっ何それ!? すごいそれ手品?」

「じゃーん」

 アカタは右の掌を俺に向かって差し出してきた。何か乗っている。彼の掌にスマホの光を当てると、そこにあったのは一本の黒い綿棒のような形をしたものだった。

「何これ」

「さっきの棒」

「へーえ! 手品も日々進化してるんだね」

「タネは分かる?」

 アカタがそう言った瞬間、そして俺がまばたきをした瞬間、彼の右手には再び先ほどの黒い棒が握られていた。

「……これ手品じゃないの」

「どうだろうな。もしかしたら本当は手品なのかもしれない。オレはこの棒を調べるためにこの国に来たんだ。というか連れてこられた」

 話がファンタジックになってきた。急に目の前のアカタが小説やマンガなどの実在しない国からやってきたように感じる。無意識にアカタが持つ棒を手に取り、隅々まで眺めた。

「二日前、オレには生みの親がいないって話を何となくしたよな。この棒が、その肉親の唯一の形見なんだ。これでしかつながることが出来なかった」

 この棒、へその緒と一緒に袋の中に入ってたんだぜ、そう言ってアカタはひょいと俺から棒を取り上げて、また綿棒サイズに戻した。

「俺の住んでいたところ案外治安悪くてさ、物心ついたころからこの棒で殴ったりなんだりと喧嘩しまくってたら、つい最近に日本人の研究員だかに目をつけられたんだ。『報酬はやるからそれを調べさせてくれ』ってさ。物好きだよな」

「アカタ自体は、それが伸びるってこと以外は何にも知らないの?」

「いや、それ以外にも一つあるな」

 アカタはククッと心底おかしそうに笑うと、綿棒をペン回しのようにくるくると回した。

「この棒は持ち主の願いを何でも一つ叶えてくれるんだ」

 お互いの顔を見合わせ、しばらくしてからどちらからともなくクスクスと笑い始めた。

「ありえないよ」

「それを信じてはるばるイギリスから俺のこと追いかけてきた連中がいるって言ったら?」

 アカタは転がっている外人をちらりと見てゲラゲラと笑った。

「こいつら、あっちにいたときはさんざんこの棒折ろうとしてたのに、そんな馬鹿げた話を鵜呑みにして今度はこれを奪おうとしてきたんだぜ」

「この人たち、知り合いだったんだね」

「知り合いなんてもんじゃない、ストーカーだよ。それもかなり陰湿な」

「でもさ、もし本当にこれが願いを叶える棒だとしたら、アカタは何をお願いするの?」

 冗談のつもりでそう聞くと、アカタは一つまばたきをして真顔になった。

 なんとなく俺はそのとき、アカタが「肉親を生き返らせる」と言うような気がした。

「何だろうな……世界平和?」

「……あはは」

 俺だったら、何と願うだろうか。

「でもこの噂が本当だったら、願いを一つ叶えるのと引き換えに代償を払わなきゃいけないみたいでな」

「へえ、何それ」

「自分が死ぬ」

「代償が重すぎる!」

 まあこれも噂だからな、とアカタはまた大笑いしながら言った。

「はあ、それにしてもこんな不思議な話があったとは。というかその棒どうやったら伸びるの?」

「普通に『伸びろー』って思えば伸びる」

「えっちょっとやってみたい」

 貸して、ともう一度棒を受け取り、「伸びろ!」と声に出す。

 しかし棒は伸びなかった。

「伸びないよ」

「あれえ?」

 再びアカタの手に戻すと、アカタの手に戻った瞬間に瞬く間に棒は綿棒サイズから一メートル定規ぐらいの大きさになった。

「もしかしたら、魔法のランプみたいに今はアカタがこの綿棒のご主人様なのかもね」

「そんなアホな」

 アカタは「新発見……明日ナダに教えよ」と言いながら、再び棒を縮めてしげしげと眺めていた。

「やっぱりそれは、アカタのものだね」

「まあ、今のところはそうみたいだ」

 アカタが一つ頷くと、彼の足元に転がっていた外人が「ウウ」と呻いた。

「ありゃ、起きた?」

 アカタがツンツンと人差し指で外人の背中をつくと、彼は「ジンジャー」と寝言を言うと、また深い眠りに落ちていった。

「あっまた野菜の名前言ってる。さっきはラディッシュとかも言ってたんだよ」

 そう言ってアカタの顔を見ると、かつてないほど苦々しい顔で外人のことを見下ろしていた。

「どうしたの?」

「……多分それラディッシュじゃなくて『ラビッシュ』だと思う」

「何か違うの?」

「イギリス英語でクズって意味。スラングだよ」

「じゃあ、ジンジャーは?」

 アカタは一瞬悩むような表情を見せ、それからまるでなんともないように「俺のことだよ」と言った。

「もしかして本名?」

「まさか、あだ名だよ。向こうでは赤髪の奴はそうやって呼ばれるんだ。蔑称さ」

「蔑称……」

 俺はその言葉にどきりとして、思わず俯いてしまった。動揺させたのは、決してアカタへの侮蔑の呼び方ではなく、俺自身が元から抱えている問題だった。

「まあでも、ユウキが『トマトみたい』って言ってくれたおかげで、ちょっとこの髪も好きになってきたよ。ありがとな」

「うん」

「どうした?」

「え、いや別に」

 アカタはパチパチとまばたきをすると、「ユウキって偽名?」といきなりそんなことを聞いてきた。

「えっ本名だよ!」

「オレは偽名だけどな」

「……なんとなくわかるよ。なかなかそんなふざけた名前ないし」

「嘘でしょ!? そんなに変?」

 あたふたと慌てふためいているアカタを見て、自然と笑みがこぼれた。

 それにつられて、今までずっと小さくして心の隅に置いておいたはずの声が漏れた。

「俺の本名、オオトリユウキっていうんだ」

「へえ」

「鳳凰の鳳の字に、有名の有に希望の希で鳳有希。数年前まではこの名前だった」

 ふと、アカタはこんなに日本語を流暢に話せているけれど、漢字は分かるだろうかと思ったが、特に尋ねてくる様子もないのでそのまま話を続けた。

「今はね、大きい鳥って書いて大鳥なんだ」

 数年前に、俺の名字は変わった。

 それは両親の離婚なんていうありきたりな理由ではなく、追い出された結果として与えられた蔑称だった。

「名字が今のものに変わる前は、ちゃんとした家のお坊ちゃんだったんだよ。単なる金持ちじゃなくて、由緒正しい武家っていうか。だから数年前まで、俺は毎日毎日剣道やら柔道で身体を鍛えて、将来は家の名に恥じない人間になりましょうねって、家の跡継ぎになれるわけでもないのに意味も分からず時代錯誤な言葉に従って生きてきたんだ」

「ああ、だからお前異常に身体能力高いのな」

「うん」

 小さな頃は、よく意味も考えずにただひたすら血反吐を吐くような努力をしてきた。しかし次第に年齢を重ねるにつれ、具体的な目標がないため終わりがないことに気づき始めた。

 いつまでこんなに頑張らなければならないの? 休んじゃダメなの?

 それでも俺は、反発することが出来なかったので、ただ望まれるまま、大人の機嫌を損ねないように、意味を見いだせない努力を続けてきた。

「それで笑っちゃうくらいベタなんだけど、些細な事で一回だけ喧嘩しちゃったんだよ。向こうが先に仕掛けてきたんだけど、俺も頭に血が上っちゃって必要以上に相手をボコボコにしちゃってさ、全面的に俺が悪いってことになったんだ」

 あの時、俺の中の「どうして?」が一番大きく膨らんでいた時期だった。それを求めようとした結果、膨らんでいた中身は空っぽだったことが分かった。

「お前は鳳家の恥だって言われたときは、『マンガでも読んだ?』って言いたくなっちゃったよ、言わなかったけど。でもその代わりに怪我させた相手にこう聞いたんだ。『俺は何か悪いことをしましたか?』って」

「ははっ」

「それで親戚中に死ぬほど怒られてさ。誰でもわかるちょっとした冗談にだよ。ああ、俺の家ってこんなに小さいことで騒げるんだって逆に感心した」

 小さい頃はそれなりに疑問も感じていたが立派に思えた自分の家も、実は体裁ばかりを気にする威厳も糞もない家だということがその時初めて分かった。

「でもね、父さんと母さんが『どんなつまらないことで有希はこんなに怒られているんですか』って当主に言った時に初めて『とんでもないことをした』って後悔したんだ」

 つまらないことをしたのは俺だった。少し我慢をすればいいだけの話だったのだ。それは散々小さい頃から学んできたというのに。

「俺と父さんと母さんは、家を出て行った。そのときに、名字も変わったんだ。『大鳥』は、人間で言うところの木偶の坊だってわざわざ由来を教えられたよ」

「大きな鳥だから?」

「うん」

「へえーっ面白!」

「どこがだよ」

 あまりにも軽薄なアカタの声に俺はいら立ちを隠せなかった。

「面白いだろ、『鳳』なんて想像上の鳥の名字なんて」

「は?」

 なんて? 俺は首を傾げてアカタのことを見ると、アカタはにっこりと笑って言った。

「そんないるわけない鳥よりさ、大きくてどこまでも飛んでいけそうな鳥のほうがかっこいいってことだよ」

 そっちのほうがユウキにピッタリだよ。

「……あれ」

 どこかでも、同じようなことを聞いた気がする。

『父さんたちは、大きくて立派な鳥になろう』

 名字が変わった時に、父が笑いながらそう言っていた。そのとき俺は、どうしてもその言葉がただの慰めか見栄を張ったようにしか思えなかったのだ。

「本当に、そう思う?」

「少なくとも、オレは」

 アカタの言葉が苦しいほどに俺の胸を締め付ける。

「今まで頑張ってきたからもう我慢しなくてよかったんだよ、なんて知らないから適当なことは言えないけど、未だに捨てた名字をブランドとして考えてないか? お前はそのブランドがただのハリボテだったことに気づけたんだろう? もしかしたらユウキのお父さんとお母さんは、別にお前のことなんてどうでもよかったのかもしれないぜ」

 父さんと母さんの顔が頭に思い浮かぶ。

『有希は悪くないなんてことは決して言わない。だけど、どんなに悪いことをしていたとしても、有希の味方以外には絶対にならないからね』

「そうかなあ」

「そうだよ」

 いつの間にか、自然と涙が頬をつたっていた。アカタはふいと目を逸らしてここからは見えない大通りのほうを見ていた。

 この数年間、俺は全てを知ったふりをして、本当は何もかもから目を背けていた。自分がやったことを正当化したかったから、時折辛そうな顔の両親を見るのが嫌でたまらなかった。

 色んな意味の涙があふれる。ごめんなさい。ありがとう。嬉しい。悔しい。

 そして、本当の両親がいないアカタにこんなことを言わせてしまったのが申し訳なくて、俺は泣くのをやめることが出来なかった。

「アカタ……」

 チャラランチャンチャンチャラランラン。異様に明るい音楽が暗い路地に響き渡る。見ると、右手に握りしめていた携帯が、軽快な音楽に合わせてブルブルと震えていた。電話だ。

「……はい、もしもし」

『ユウキ! 馬鹿野郎! 今何時だと思ってんだ!』

「父さん……」

『煮込みハンバーグがこれ、煮込みすぎて……なんだ、溶けるぞ! いいのか!?』

「いや、固体のまま食べたいかな」

『そう思うなら早く帰って来い!』

『あ、でも彼女とデートとかだったら無理しなくていいわよ』

「母さん」

『外泊も許すわ』

「母さん!」

『じゃあな、ユウキ、気を付けて帰って来いよ』

 その父の言葉を最後に、電話は切れた。時計を見ると、既に二十二時を回っていた。

「今の電話、家族から?」

「うん」

「会話少し聞こえたけど、何一つまともじゃなかったな」

「まあね」

 アカタはクツクツ笑って、「ハンバーグ、溶けないうちに帰れよ」とひらりと手を振った。

「うん、じゃあね」

 リュックを背負い、俺は路地を出ようとした。

「待って、忘れてたけどこの人たちどうする?」

「ああー、まあこのままでいいよ。いつもここに置きっぱにしてるし」

 その言葉によって、初めてアカタとあった日に聞こえた悲鳴はこの人たちのものだったのだなと思った。この外人たちも懲りないな。

「あとこれ、言おうかどうか迷ったけど」

 アカタはしばらくもごもごと決まり悪そうにしていたが、意を決したように顔を上げた。

「アーニー。アーニー・ニコラ、が本名」

「アーニー……」

 このとき、アカタという名前がすっと消えて、今度はアーニーという名前がピッタリと彼にはまった。

「あれ、なんかアーニーってどこかで」

「はいはいセサミストリート! これ以上深く突っ込まない!」

「ああそれか! あの二人組のキャラのちっちゃいほう」

「やめろっつってんだろ! 年上をからかうな!」

「はいはい……年上?」

「お前制服着てるってことは少なくとも高校生だろ。オレ十九だから」

「今日一びっくりした」

「本当に本当にお前失礼」

 本当に驚いた。今までずっと年下だと思っていた。俺は嫌がるアーニーをしげしげと眺める。

 そしてその時初めて気づいた。

「両目、色違う」

 右目が黒で、左目が深い青。

「ああこれ」

 アーニーはふっと表情を緩めて、得意げに両目を大きく開いた。

「右がお父さんで左がお母さん」

 どうしてだか俺はまた泣きそうになって、ふいと彼から目を逸らした。

「じゃあ、また明日!」

「あ、明日は……」

 どこか歯切れ悪そうなアーニーを首を傾げて見つめると、彼は「ああ、じゃあな」と満面の笑みでそう言った。

 俺はその笑顔に何の疑いも抱かず、一度手を振って、振り返らずにその場を去った。



 それから俺は二度とアーニーに出会うことは無かった。



「ただいま、父さん」

「颯。お帰り」

 いつもは挨拶をするとすぐに二階に行ってしまう高校生の息子が、今日はどうしてだか俺の目の前でそわそわとしている。

「どうした?」

「あのね、今日面白い人と会ったんだよ」

 読んでいた新聞を畳んで息子の話を聞く体勢に入ると、息子は少し興奮して赤くなった頬で話し始めた。

「へえ、一体どんな人?」

「それがね、真っ赤な髪の毛の男の子だったんだ。しかもそれ地毛なんだ。本当だよ! 驚きすぎて『トマトみたいですね』って思わず言っちゃって、怒られるかと思ったら結構ウケたんだ」

 その時、俺は一瞬で高校二年生の時に引き戻された。

『よう! ユウキ、久し振り』

「俺と同じ制服着てたから、後輩かなあ」

「父さんと賭けをしよう。多分その人は先輩だ」

 脳裏には、あの煌びやかなネオンよりも色とりどりの眩しい光を放つ青年が、いたずらっぽく笑っている。

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GOD DAMN‼           増若布 @runa3

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