空っぽのロマンス

 休みの日くらいはゆっくり寝てもいいものだろう。有紗ありさが日曜日のその日、目覚めた時は既に十一時を過ぎていた。寝ぼけた頭でリビングルームに向かった。

 扉を開け、そして有紗ありさは軽い眩暈めまいを覚えた。

 どうしてこの人が、ここにいるんだろう。

「やあ、久しぶり」

 そう言ってにこやかに手を上げる伯父の姿を認めた有紗ありさは、改めて眩暈めまいを覚えた。

「お久しぶりですね、伯父さん」

「うん、まあこれはこれは有紗ありさちゃん大きくなって」

 微笑する伯父に軽い怒りを覚える。深呼吸をして落ち着きを取り戻し椅子に座った。

「お父さんと、お母さんは帰ってきてないのかな?」

「はい」

 家には誰もいなかった。有紗と伯父の二人だけだ。

「父と母に挨拶はしてないんですか?」

「ああ、まだだよ。今帰ってきたばっかりだからね。ほら、これお土産」

 伯父は缶をテーブルの上に置き、椅子に座った。

「缶詰……?」

「そう。缶さ。でもただの缶じゃない! これはハワイの空気が封入された缶さ!」

 嬉しそうに伯父ははしゃいだ。有紗ありさは不快を露にその缶を見つめた。

安璃香ありかちゃんはまだ学校かな?」

「姉は部活です」

「部活か! 何部だったっけ?」

「バドミントン」

「はははは、そうだったか! しばらく来ていなかったから、もう全然覚えてないよ」

 はあ、と有紗ありさは溜息を吐く。

「それから」

 と伯父はもう一個缶を取り出した。缶には「富士山の空気」とラベルが貼られてある。

「これは富士山の空気が詰められた缶」

「そうですか」

「それからこれ! これは、砂の大地エジプトの空気が入った缶だ!」

 もう一個缶を取り出し、笑う伯父。それ眺める有紗ありさは殺意が胸の内より湧くのが解った。

 ――ああ、やっぱりだめだ。どう頑張ってもこの人は好きになれない。

 伯父は理想家だった。夢という言葉が好きで、座右の銘は「夢に生き、夢に死す」。実際伯父はその通りの人だった。 

 だから有紗ありさは堪らなくこの人が嫌いだった。

 現実をまったく見据えない、この愚かな男が嫌いだった。

「伯父さん」

「ん? なんだい?」

「こんな缶の何が良いんですか?」

「っはっはっは! 何がって? ロマンに決まってるじゃないか! 考えてもみたまえ! こんな小さな缶の中に、富士山の空気が詰まっているんだぞ! 素晴らしいじゃないか! それにハワイの空気が! エジプトの空気が!」

「だからなんですか?」

 有紗ありさは今にも切れてしまいそうだった。必死に自分を抑えながら、言葉を紡ぎ出す。

「だから? 解らんか? 眼をつむってみろ! それからこの缶の中身を想うんだ! 聞こえてこないか? エジプトの砂塵さじんの嵐しのとどろきが! 感じないか? 常夏の空気と匂いを! 鋭利な雪の冷たさを!」

「感じないわ」

 だって中身はただの空気だ。そこに何かがあるというわけではない。缶きりで開けてしまえばそれまでの、中身の無い役立たず。

「夢が無いね……有紗ありさちゃんは。そっか、もう14歳か……まあ、その年齢になると夢云々って感覚が無くなるのかな」

「違います、伯父さん。わたしはもう16歳です。確かに、夢なんてくだらないと思います」

 その口調はあくまで穏やかだったが、心の底ではマグマの如き感情の奔流ほんりゅうが渦巻いていた。

「くだらないか……そうかもしれない。でもね、夢って言うのは素晴らしいものだよ?」

 諭すように伯父は言った。

 それが堪らなく嫌だ。有紗ありさの感情は爆発寸前だった。

「素晴らしい? 夢は、確かに素晴らしいものです。でも、現実を見据えない夢なんて馬鹿馬鹿しい。ただの幻を追う馬鹿者です」

「言うようになったね、有紗ありさちゃん」

「はぐらかさないでください。大嫌いです、伯父さんなんか」

「そう。伯父さんは悲しいよ」

 伯父は三つの缶を手に取り悲しそうな表情を作った。

「そっか……伯父さん嫌われてたのか……」

 有紗ありさは無言で立ち上がり、リビングルームを飛び出ていった。それから台所へと向かい、再び伯父の前に姿を現す。

 その顔は憤怒に塗れていた。しかし有紗ありさは努めて冷静に伯父へと近づく。

 その右手には缶切りが握られていた。

「何を」

 呆然と呟く伯父を無視し、有紗はその缶切りを机の上に突き立てた。

「待て、止めろ! その中には、ハワイの――」

 微笑んだまま、有紗ありさは缶に刃を入れ込む。躊躇ちゅうちょ無く缶を開けていく。

「ほら、伯父さん! この中には何も入ってません!」

 有紗ありさは続けざまに残りの缶にも刃を入れていき、全部を開けてしまった。

 その中には何も入っていない。空っぽだ。

「夢なんて開けてみればこんなくだらないもんなんです! そのとおりじゃない? 違う? 伯父さん、夢なんてくだらないんじゃないの?」

 ひねり出す言葉は怒りに染められていた。

 返事は返ってこない。

 有紗の頬には涙が伝っていた。

 有紗は霞む視界の先を、伯父を真正面から見据える。――しかし伯父の姿はそこには無かった。

「死んだ事にも気づけない、大馬鹿野郎!」

 返事は返ってこない。当然だ。

 そもそも伯父はもう2年前にも死んだのだから。

 夢を語る伯父は、夢に死んだ。伯父は、例えばこの缶詰の中身のように開けてしまえば空っぽのような、そんなものしか追わず。だから死んだ。

 幻想の中へとおぼれて死んでしまった。

 夢なんてくだらない。

 本当にそうだと思う。有紗ありさは机の上に置かれた空き缶を手で払いのけ、床に落とした。からん、がらん、と虚しい音が部屋の中に響く。

「夢なんてこんなもんじゃない。くだらない! 打ち捨てられた残骸ざんがい! 空気が何? ハワイの空気があるからって何になるの? それで、富士山の空気は何の役に立つの? エジプトは? 伯父さんはエジプトの空気あれば生きていけるの? 違うでしょう? 実際伯父さんは死んだんだし! ねえ、現実を見ればよかったのに! 夢なんか見なきゃ死ななかったのに!」

 誰もいなくなった空間で有紗ありさは一人叫ぶ。

 声は狭いリビングルームの中で虚しく消えていった。


有紗ありさちゃんには解んないよ」


 苦笑げに呟く伯父の声が聞こえた気がした。幻聴だろう、と有紗ありさはその声を嘲笑あざわらう。

 嘲笑ちょうしょうながらしかし、有紗ありさは幻聴に対してこう答えた。


「伯父さんには解んないでしょう」

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