幸福の夜

 魔術師はこの世の全てを手にした。およそこの大陸で彼にかなう者は存在しない。魔術師はそう考えていた。しかし、魔術師は、寿命を感じ取った。寿命は、魔術師の背後にひっそりと忍び寄っていた。ひたひたと、小さな音を立てて、でも確実に魔術師の首に手を掛けていた。魔術師は如何いかなる魔術をもってしても、それから逃れられなかった。寿命が尽きるのは、まだ先だ。5年か10年か、あるいは20年後か、でもそれは確実にくる。

 魔術師は一旦寿命を受け入れた。

 魔術師は世間から離れ、山の中で隠遁いんとん生活に入った。まだまだ魔術に対する探求を行いたかったからだ。

 ある日魔術師は山野で赤子を拾った。捨てられていたのだ。女児だった。どういう所以ゆえんで捨てられたかは分からぬ。

 しかし、想像は付く。貧しき者が育てられぬゆえ、捨てたのであろう。

 憐憫れんびんの感情がき起こる。

 が、また別の考えが浮かんだ。

 それは、この女児を器として、己の魂を定着させようという、禁忌きんき的発想だった。

 寿命というあらがえない存在からの逃避。

 魔術師はその女児を拾い、スーフィという名前を付けた。その日より、魔術師は女児を育て始めた。器としてふさわしいように。魔力を分け与え、貴重な食料をませた。林檎りんご無花果いちじく葡萄ぶどう。女児はすくすく育つ。健康にも気を遣い、踊りを教えた。砂漠の流浪人ジプシー系譜けいふの踊り。算術をたたき込み、言語を教えた。

 7歳になるころには、既に、その資質を存分に膨れ上がらせた神童が出来上がっていた。

「おじいさま」

 スーフィは笑顔で老翁ろうおうを見つめた。

「踊りましょう!」

 素直で真っすぐな子に育った。実に素直だ。

「老体にむち打つというのかね、生憎だが無理だな。それよりも、魔術の練習だ」

「わかりました、おじいさま」

 魔術師はスーフィと向かい合った。スーフィと両手を握り合う。スーフィが目をつむる。魔術師を瞳を閉じた。そして同化。

 魔術師は魔力をもって、このスーフィという少女の体内構造や魔術回路を調査する。それと同時に、自分がその器にすんなり入れるように調節する。

 魔術の訓練だ、とスーフィには嘘を付いていた。これは、スーフィをふさわしい器に作り替える、あるいは魔術師をその器に収まりやすくする儀式にすぎなかった。

 スーフィの思考が魔術師に流れてくる。魔術師への敬愛。わずかな己の出自への疑念。魔術に対する探求心。そういった思考も、魔術師は読み取り把握していた。

 スーフィは順調に、器となっていく。順調に育っていく。

 スーフィは十歳になった。

 器は既に完成していた。魔術師は転生の魔術をいつでも行使できる自信があった。寿命はまだもう少し先のようではある。だから引き伸ばすこともできるし、実行することもできた。

 スーフィの成長は目覚ましい。スーフィにはもともと魔術に対する才覚を備えていたようでめきめきと成長していった。エルフ言語を会得し、森林と大地に起因する魔法を修めた。妖精言語を会得し、空と風と光をかてとする魔術を修めた。帝国言語も会得し、いずれは炎と闇を生業なりわいとする魔法も習得できるであろう。

 将来が楽しみだ。魔術師は多少このスーフィに情が移っていた。が、しかし。本来の目的を忘れてはならない。今日も魔術師はスーフィと同化する。もはや器として完成している彼女は、体内構造や魔術回路をいじる必要はなかった。この器に、魔術師自身が慣れる必要もなかった。それでも同化する。流入する思考は、相変わらず魔術師への敬愛。そして魔術に対し、一途いちず健気けなげ純真じゅんしん無垢むく

 それがスーフィという存在なのだ。

 魔術師が作り上げた理想の、からだ

 魔術師は、自分がこの娘に対して、再び憐憫れんびんに似た感情を抱いているのに気付いた。あの山野、一人で泣き叫ぶ、赤子の頃の少女。

 決心をしよう。このままでは、取り返しのつかないことになる。スーフィが11歳になった時、儀式を挙行する。魔術師はその少女の体に入るのだ。

 同化を行った日は、スーフィは強い疲労を感じる。精神的にもやや退行し、甘えるようになる。今は10歳。もはやそんな年齢でもないであろうに、魔術師の背中にしがみついた。あたかも魔術師の決心を揺さぶるがごとく。

「何をしている。お前はもう、既に立派な大人。そのような子供じみた真似をするな」

 魔術師はたしなめた。

「おじいさま、踊りませんか?」

「わしはもう踊れない」

「じゃ、踊れるなら踊りたいですか?」

「そうじゃな、さもありなん」

「そうですか、大丈夫きっといつか踊れますよ」

「たわけたことを、早く寝なさい」

「はーい」

 そうしてスーフィは眠りについた。山の中、大好きな魔術師と、二人で、二人だけの世界、その中で安心して、眠る。

 そうして、11歳になった。

 少女を魔術師が拾ってから11年が経過したのだ。

 魔術師は月が最も明るい日を待った。

 そして――月の最も明るいその日魔術師は、猪の肉を調理した。林檎の汁で煮込み、豆を砕いて、塩を振りかけた。無花果いちじくと、葡萄ぶどうを実を食卓に並べた。川魚も焼き、塩をまぶす。

「え、ごちそう!」

 スーフィは驚いた。食事の準備は普段スーフィの仕事だった。

「お前は11歳と言う年齢になった、立派な大人だ。魔術師として一人でやっていける。今日はそのための儀式を行う。特別な日だ、だから」

 そう、おごそかに魔術師は言った。

 スーフィは一瞬戸惑いを見せて、しかし、すぐさま笑顔を浮かべた。

「本当? ついに、私は一人前になったのね!」

「ああ、そうだとも」

 スーフィははにかみ、それから踊った。スーフィは笑顔を惜しみなく魔術師に振りまいた。

 そして二人は食事を終わらせた。

 魔術師にもはや遺恨いこんはなかった。これは決定事項だ。この娘を惜しいとも思わない。

 食事を終え、魔術師はスーフィと向き合う。

「では、最後の儀式を行う」

「はい」

 少女は目を瞑る。魔術師も同じように、目を瞑る。最後の同化魔術、いや、転生魔術。

 魔術師は、スーフィの中に入った。

 奇妙な違和感にとらわれる。いない。スーフィがいない。

 この器に入るためにはスーフィを殺さなければならないのに、いない。どこに?

「おじいさま、私はここにおります」

 声がした。スーフィはスーフィの中心に居た。心象風景は穏やかな草原だった。草原の中心に鎮座している。

「そこにおったか」

「ええ、これでようやく、おじいさまが私と一体になるのですね」

「なに――」

「偉大なおじいさまは寿命を永らえることができるですね。実に、喜ばしいことです」

「スーフィ……まさか、同化の魔術か?」

「そうです、隠していました。私は私の思考を隠していましたし、いや、隠してなんかいなくて、私は心底敬愛しておりました。それは真実です。それでおじいさまの思考も私の中に流れてきて、全部知っていました」

「それなのに、受け入れたのか」

「ええ、あなたは私が敬愛するおじいさまですから」

 次の瞬間少女の視界が暗転した。

 食事の後、森の中、そこはスーフィの心象ではなかった。

「何故です、何故止めたのです!」

 スーフィは問う。

「うむ、失敗した。転生の魔術は失敗した」

「そんなの嘘です」

「嘘ではない」

「嘘です、どうして!」

「踊ろう」

「え?」

「スーフィ、わしと踊ろう。お前の名前はスーフィ、踊る者スーフィ、あるいは羊を纏いし者スーフィ

 魔術師は羊の毛皮を差し出す。それをまとったスーフィは、魔術師と手を取り合った。月夜の中、二人は踊る。それは真実親子のようで――

「愛してます、おじいさま」

 スーフィは呟くのだった。それは幸福の夜の出来事。

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