手のかかる娘
娘のかほを風呂場に連れて言った瞬間に、電話が鳴った。無視しようかともおもったが、旦那かもしれないと思い、「いい、お風呂に入ってはだめだからね。椅子に座っててね」と強く言って、電話に出た。やはり旦那だった。
お酒を飲んだので迎えに来てほしい、と。ふざけんなこっちは今娘をお風呂に入れているところだ。まあ場所は一応聞いておいた。飲み会終了は二時間後だが、その時間は私の経験則では無限大に伸びる。電話を切って、お風呂場に戻る。
「あのねーおかあさん」
かほちゃんがドアガラス越しの私に話しかけていた。
「なあに、かほー?」
扉を開けて、驚いた。かほの髪の毛が濡れていた。
「こら、一人でお風呂に入っちゃダメって言ったでしょう。溺れたらどうするの?」
「一人じゃないもん、おねえちゃんと一緒だもん」
「お姉ちゃん?」
「そう、かほおねえちゃん」
訳の分からないことを言う。かほはお前だよ。まあ、まだ四歳だ。空想で物を言う年頃だろう。
「ねえ、お母さん。かほはね、18年後、ひこうきにのってはいけないんだって」
「え?」
「<ついらく>して死ぬんだって」
「は?」
私は驚いた。墜落なんて言葉どこで覚えたんだ。
「何言ってるの」
「お姉ちゃんが言ってたの、そつぎょうりょこうにすぺいんにいっちゃだめって」
「ふうん……」
空想ながらに、私はかなり驚いた。
だが、換気用窓ガラスを開けようと思ったとき、ぎょっとした。湯気で曇った、窓ガラスには、指で擦った文字が次のように書かれていたのだ。
【お母さんへ、18年後のかほです。ごめんなさい、かほは死にます。飛行機が墜落して死にます。いままでありがとうございました、ごめんなさい。あとパスポートの隠し場所は変えた方がいいです、ベッドの下なんて分かりやすすぎます。むしろ燃やした方がいいと思います】
■
娘が友人と一緒に、大学の卒業旅行でスペインに行くと言ったとき、私の記憶は18年前のあの出来事が思い起こされた。私は狼狽しつつ、様々な理由を付けてパスポートを取り上げた。ともかく、これを隠さなきゃと思ってベッドの下に隠そうと思ったが、18年前の記憶が、まざまざと蘇ってやめた。冷蔵庫の野菜室の下の方に隠した(かほは料理をしない)。
馬鹿げている気もしたが、でも、少し怖かった。だから一応隠して、反対したのだ。
18年前のあの時も怖かった。誰かが風呂場に入ってきたのかと思って、ナーバスになった。でも私がかほから離れていたのは、ほんの一、二分のことだ。裏口から音を立てず? 正面玄関から? 無理だと思う……。周囲も、誰も信じてくれなかった。私も、半信半疑だった。そしていつしか忘れた。
でも、今しがた娘が卒業旅行の話をし始めたとき、鮮明に思い出した。
ともかくパスポートは隠した。これで大丈夫だろう。
かほは怒り狂った。家じゅうを探したようだが、見つけられなかったようだ。
パスポートは相変わらず冷蔵庫の野菜室の奥底にあった。
娘はずっと怒り狂い、私を罵倒し続けたが知らぬ存ぜんで過ごした。とうとう出発日が来てしまった(私はその日が出発予定日だと知らなかった)が、結局娘はキャンセルをしたらしい。キャンセル料を請求してきた。友人の分も、と。その時、テレビのニュースが喚いた。
「墜落です、成田発シャルルドゴール行××●●便が墜落しました――」
娘はぎょっと青ざめた。私もぎょっとした。が、シャルルドゴールはフランスだから、スペインではないか……。
「ほ、ほら、こういうこともあるの。かほが乗る飛行機じゃなかったかもしれないけど、こういうこともあるのよ」
苦し紛れに言った。
「これ、よ。私が乗るはずだった飛行機は! 直行便がなかったから、フランス経由でスペインに行く予定だったの」
私は再びぎょっとした。でも、よかったと安堵の溜息をついた。めでたしめでたし、だ。
■
次の日の朝郵便ポストを覗き、新聞を手に取ったら、便箋が一枚入っていた。
そこにはこう書かれていた。
【お母さん、信じてもらえないかもしれないけど、私は3年後のかほです。私が、ヨットを始める、と言ったら止めてください。ヨットが転覆して溺れ死にます。あと、暗証番号が誕生日は、止めた方がいいです。今時そんな人いません。むしろ私の携帯電話を壊してください】
私は空を仰いで溜息をついた。いったいどんだけ、手のかかる娘なんだ、と。まさか、この先一生こんなことが続くのではあるまいな、と。
※「早く髪あらいたいのにー」と話が少しリンクしています。
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