第3話

「先生、4時に来るんでしょ?家分かるかなー」

「ベランダから見えるかもね」

テーブルの上には、小さな焼き菓子がレースペーパーに乗せてあって、ママは、紅茶を入れるティーカップを用意している。家庭訪問はいつもちょっと緊張するけど、楽しみでもある。今年の担任の長崎先生は、背が高くてかっこいい女の先生だ。みんなは怖いって言うけれど、わたしは、先生に挨拶したら、すごく優しく「川原さんおはよう」と笑ってくれたのが嬉しくて、好きになった。

「あっ!来たよ!」

マンションの門から颯爽と自転車で入ってくる先生を見つけてわたしは声を上げた。今日は、いつもの家庭訪問とは違う。ママが先生とお話しするんだ。

「ふうちゃん、先生にご挨拶したら話が終わるまで部屋で待っててね」


「私には引き受けられません。お力になれず申し訳ないです」

「月に1度の会議に出ていただくだけで良いんです。特に発言を求められることもありませんし、できる範囲で、本当に会議に参加していただくだけでありがたいのですが…」

「すみません」

長崎有加子は、苛立ちをごまかすように座り直し、再び顔を上げた。長崎の少しきつい顔立ちと女性としては高い173センチの身長は、子どもからすると怖いという印象を受けるらしい。実際、教師としての長崎は特段子どもと馴れ合うタイプではなかった。同僚からは「小学免許じゃなくて高校免許を取れば良かったのに」とよく言われる。しかし別に子どもが嫌いな訳ではない。中学、高校はどうしても受験を視野に入れた学力重視のカリキュラムになる。長崎は子どもの学力ではなく、その子自身を育てることに注力できる小学校の教師になることを選んだ。ただ、それはとても同僚には言えないほど、青い理想だったと最近は思う。

担任クラスの川原風鈴は、人懐っこい笑顔が特徴的な子だ。4月、まだ子どもが寄りつかない時期から、会うと少しはにかんだように声を掛けてくる。大人に対する子どもらしい恥じらいはさておき、クラスの中では活発で、自然と周りに友人が集まるタイプのようだった。天性の華やかさというのか、よく喋る鈴のような声は、いつも笑い声に包まれていた。

「クラスの保護者の皆様は働いていらっしゃる方が多くて、どうしても時間的に厳しい部分があるんです。川原さんに引き受けていただければ、助かるのですが…」

「すみません」

PTA委員を引き受けたがる親などいない。特に、働く母親たちにはこちらとしても強くお願いはしにくい。頼みの綱は、川原風鈴の母親のような、数少ない専業主婦だった。

頑なな様子の母親を前に、さすがに引くべきだと内心思いつつも、何故かその場から動くことができなかった。言葉を変えどう頼んでも、眉を下げ頭を下げ「すみません」と繰り返す母親は、確かに「申し訳なさそう」だったが、言い訳のひとつも寄越さない受け答えに苛立ってくる。「ならばそろそろ、折れるべき頃合いだろう」と。専業主婦を暇だと言う気はさらさらない。しかし、働いている身としての本音は、「普通は気を遣って引き受けるだろ」というものだった。

「お忙しく……されていますよね?」

「いいえ、先生方や他のお母さま方からしたら全く」

綺麗な微笑みは川原風鈴と似たものを感じるが、受ける印象は全く違う。

「ではどうして…と、言いますか、その、仕事量など気にされていましたら、ご心配するほどのことは無いかなあと思います。会議の体裁を整えるためという面も正直ございまして…面倒な話ですよねえ」

少し内情を愚痴るように苦笑すると、母親もふふっと笑った。

「本当に、お力になれず申し訳ないです」

駄目か、と心の中で毒づいた。当たり障りのない、とても責められない感じだけは良い対応に強くため息をつきたいのをぐっと堪えた。

「川原さん、授業参観に来られたことが無いそうですね。昨年はお父様がいらして下さっていたそうですが、先週はご都合が悪かったみたいで…懇談会の委任状は、もちろん受け取っておりましたが」

長崎はそこで一旦言葉を切った。委任状は、はっきり言って他の保護者からの心象は悪い。特に、川原家のように毎年父親が参加していると嫌でも目立つ。母親は何故来られないのかと。幼稚園時代から、いわゆるママ友付き合いも無い、浮いた存在であったことは既にクラスに広まっている。専業主婦であることを知る保護者たちからの不満の声は、具体的な言葉にならずとも、じわじわと教師を責める。

この間を母親はどう感じているのか、察してほしいと思いつつ、それはないだろうと諦めの気持ちが勝る。

「風鈴さん、学校でもいつも明るくて人気者ですよ」

「ありがとうございます。夫から話は聞いております」

「お母さまも観にいらしてみませんか。お忙しいですか」

「いえ」

しばしの沈黙が流れる。その「いえ」は、観に行くつもりはないという意味か、忙しくはないという意味か、きっと両方だろう。

「すみません、長居してしまいまして」

「こちらこそ、すみません。暇な専業主婦ですのに」

初めて、母親の揺らがない穏やかな雰囲気に何かが混じったのを感じて、長崎は身を固くした。そんな、と形だけ口にしながら見やると、少し見上げるようにして申し訳なさそうな顔でじっと見てきた。最低限の化粧が映える上品な顔立ち。落ち着いた振る舞い。大人らしい雰囲気を纏う一方でその表情は、どこまでも頼りなく、子どものようでぞっとしてしまった。しかし、むしろそれも策略のような気がする。

部屋は綺麗に片付けられていて微かに甘い香りがする。焼き菓子も紅茶も、きっと他のお宅でも出されますものね、と少な目にとどめてあった。母親もこの家も完璧に整えられていた。そして自分は、ここでは異物。母親の柔らかい微笑みは、何者も寄せ付けない冷たさで長崎を追い立てるようだった。これが本当に川原風鈴の母親なのか、と長崎は思った。

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カゴノトリ 三条 かおり @floneige

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